良くなりたいか-----ヨハネ5:6  真崎 隆治


 大勢の病人や身障者が一つの池を取り囲み、水を見つめている。水が動いたときに、一番先に水に入ったものは癒される、人々はそのように信じていた。

 この光景から私が感じるのは、救いの希望の明るさではなく、陰惨さでしかない。なぜなら、自分が癒されることは他者の排除を意味し、水に入れる可能性は、病が軽く身動きが容易であるか、手助けしてくれる人がいるか、いずれにしても何らかの余裕のあるものに限られるからだ。必要とする者ほど救いは遠くにある。

 38年間苦しみ続けてきた孤独な男が救われたのは「良くなりたいか」の一言に頷いたからだ。希望の単純な表明。明学のさまざまな改革の実情を思う。私たちは本当に良くなりたいのか。

まざき たかはる (所員・文学部教授)


●1994年10月26日 森田武氏講演会要旨
いま日本人が必要としているもの-キリスト教大学への私の期待-


 森田 武


 日本の近代化が跛行的であり、西欧に比較して歪な異質性が見られることは従来から色々な分野で指摘され、議論されてきた問題です。近代化という言葉で表現される歴史には大きく分けて、産業化という物的、経済的側面と、自由化あるいは民主化という精神的市民的側面があります。

 日本は明治の開国以来、産業化を至上命題として国を挙げて受け容れながら、精神風土の面では固有の思想とか文化を温存することを優先し、近代化の必須条件である自由主義とか民主主義の風潮に対しては収支抑制的な姿勢を崩しませんでした。半世紀前の敗戦においても旧来の固有イデオロギーは一旦崩壊したように見えながら、あの敗戦を、あくまでも終戦と強弁する態度に示されるように、近代的な開かれた社会に変革しきれず、多くの国民の意識の底流には、イエ、ムラ中心の閉ざされた社会意識が残ったまま今日に至っています。

 私はこの状態を「手抜きの近代化」と言いたいのです。そして手抜きのままでは不透明であいまいな印象を諸外国に与え、真に国際社会に受け容れられ、信頼されることが困難であって、あらゆる分野での日本批判、摩擦現象が解決されないと懸念しております。

 ヨーロッパの近代化の過程では、ルネサンスと宗教改革が先駆的役割を果たしました。いわば近代化の土台(インフラ)の役割を演じたことになります。歴史の再現は出来ません。しかし今こそ宗教改革とプロテスタンティズムの歴史的意義を真剣に見直し、確認する必要があります。呪術とか偶像からの開放、世俗的権威の否定による神と人間との直結、神のみを信じ、他からの自由を主張した勇気と行動力、マックス・ウェーバーの言う現世を合理的に変革しようとする積極性、現世の職業労働への献身、これらの原動力であるプロテスタンティズムの基本理念を深く考え、現代の日本に生かす途を求めるべきです。(学院長室報祈第二号の拙文ご参照)

 このように述べますと、キリスト教主義大学に何を期待するかが自ら明らかになります。あいまいな手抜きの状態で迷っている日本の近代化以前の思考パターン、自主性と責任感の欠如、グローバルな国際感覚の弱い精神風土を、キリスト教の基盤の上で洗い直し、真の近代化を実現しうる国際人を育てることにあります。イミタチオ・ヘボン、イミタチオ賀川、明治学院はこのような人材を育成すべき歴史的使命があると思います。これこそ建学の精神でありましょう。

 改革者ルターの提起した命題を以って本稿を閉じます。

(1)キリスト者はすべての上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。

(2)キリスト者はすべてに奉仕する僕であって何人にも従属する。

(『キリスト者の自由』より)


(もりた たけし 明治学院常務理事)

*昨年10月26日開催の公開講演会主旨を、まとめていただきました。ありがとうございました。森田氏は三井銀行副社長・三井鉱山株式会社副社長を歴任、現在明治学院常務理事、三井鉱山株式会社顧問、社団法人「小さな親切」運動本部理事)


武者小路公秀氏「社会科学へのキリスト者の貢献」から

加山 久夫



 本研究所が昨秋、武者小路公秀国際学部教授を講師としてお招きした公開講演会(1994年11月30日、横浜校舎)におけるご講演から筆者が特に強く印象付けられた2,3の点について記すことで、この要約の報告に代えさせていただきたいと思う。(講演内容は、いずれ研究所から刊行される予定の講演集に収められ、紹介されることになっている。)

 国連大学副学長としてのご経験をはじめ、国際政治学や平和学の分野で広く国際的に活躍してこられた武者小路公秀先生はローマ・カトリック教会に属するキリスト者として社会科学者としての営みをしてこられた方でもある。

 しかしそのカトリシズムやキリスト教の見方はきわめて開かれたものであり、氏によれば、そもそもキリスト教そのものが超越的な視点を提供することによって、歴史や社会への開放的な視点を切り開くものなのである。このことから、筆者は、自己への絶えざる批判的な問いを要請し可能とする「プロテスタント原理」(パウル・ティリヒ)を想起する。

 氏は歴史的なキリスト教のなかにみられる弱さや欠けに、逆に強さが生まれる契機を見出すことができることを指摘される。他方、キリスト教(会)の強さと考えられていたものに負の方向性が生じることもある。正等と異端の関係についても同様にいえる。たとえば、中世教会の堕落が宗教改革を生み出したし、ルターの農民戦争への批判的態度にみられるような国家観は、われわれがこの世の歴史を考えるうえで、国家や権力の問題を考える必要性を示唆してくれる。このように歴史には<よいもの>と<悪いもの>が固定化されたものとしてあるのではなく、<よいもの>の中に<悪いもの>が、<悪いもの>の中に<よいもの>がある可能性がある。歴史を相対化するこの視点は、いわゆる歴史相対主義と明確に区別されなければならない。キリスト教の歴史観は根本的に終末論的である。そこから歴史へのこのような自由な見方が生まれるとともに、差別され抑圧されている者の側から歴史や社会を見る見方が提起されている。

 最後に、カトリシズムであれ、プロテスタンティズムであれ、これまでキリスト教というと余りにも西方教会を中心として考えてきたが、東方のキリスト教(ギリシアやロシアなどの正教会)に学ぶことが必要ではないかという指摘は重要である。西方教会のように強いミッションを感じさせないかもしれないが、よき証しを立てることによってキリストの福音(よきおとずれ)を伝播することの大切さである。このことは、わが国における、また明治学院におけるキリスト教のあり方を考える場合にも、大切なことを示唆してくれるのではないだろうか。

(かやま ひさお 所長・一般教育部教授)


1994年12月6日 金井信一郎氏講演会主旨
「わが国社会運動の先駆者賀川豊彦」
      田村 剛


 賀川豊彦の劇的な生涯については、今更述べるまでもないことであるが、1888年、神戸の富裕な回漕業者の妾の子として生まれ、幼少にして両親を失い、孤独と貧乏の中に徳島で成長した少年期から、病苦を背負いながらの神戸新川での「貧民層」ではじまる社会活動を経て、1960年、東京松沢の私宅での多くの人々に惜しまれつつ世を去るまでの72歳の生涯は、一言でいえば、神の創作に成る一つの偉大なドラマとでもいうべきものであった。その間、彼の果たした役割は、伝道者、牧師、社会事業家、労働運動の指導者、農民運動、共同組合運動の創始者、無産政党運動、普通選挙、各種の社会政策、立法獲得運動の推進者、平和運動、社会教育家、小説家、詩人等等の多岐にわたっており、総計200冊にもおよぶその著作の範囲は、宗教、経済、政治、社会、歴史、思想、教育、自然、文学、芸術の広範囲に関わりを持っている。

 賀川豊彦の自前の天才的頭脳から、その比類ない博覧強記を介して湧き出した自由奔放な思想とその結実としての著作が、しばしば、学者の知性を満足せしめるに足る論理的整合性に欠けて、むしろ、直観的、情緒的、さらには詩的な表現をとったところから、いわゆる「専門家」によっては顧みられることは少なく、冷たく批判されることさえあったのは事実である。それらの批判者の主たるグループには二つあった。一つは、生涯にわたり最も苦労した協会の教職者たちであり、他の一つは、左派的な労働運動の指導者たちであった。しかし、その批判は、賀川豊彦を理解しようとする善意の欠落、狭い信条やイデオロギーからする自己正当化のための攻撃として特徴づけられ、賀川豊彦の評価としては、結局、「木を見て森を見ない」たぐいのものであったといっても過言ではない。

 近年の世界的なエキュメニズム(教会合同運動)の潮流の進展や、戦後わが国で達成された諸種の社会変革、わけても農地改革、労働組合の後任、革新政党の自由、各種の社会政策立法の進展、平和運動、協同組合の進展などを見るとき、それらはことごとく賀川豊彦が時代に先駆けて抱懐した理想の現実化であり、先駆者、開拓者であったことを物語るものである。

 そして、賀川豊彦の社会運動のよて立った原理は、常にキリストの福音に根ざした「人類普遍の原理」であり、その命題は、「人類がいかに平和に愛し合って生きることができるか」ということであった。

(たむら ごう 所員・経済学部教授)


1994年4月28日 G.アンメ氏講演会講演全文
「ドイツの再統一と教会の役割−過去・現在・未来−」


グンドルフ・アンメ (畠山保男訳)


 1989年11月9日は、ベルリーン市にとってだけではなく、ドイツとヨーロッパにとっても決定的な日付でした。この日東と西の間の壁が開かれたのです。この壁はベルリーン市を二つの部分に分けだだけではありませんでした。ベルリーンの壁は二つの大きな部分からなるわれわれの世界の大きな分離の象徴だったのです。すなわちそれは、独裁と民主主義、強制されたイデオロギーと自由な思惟でした。

 ドイツ人としての私にとって、ドイツの再統一という東と西の間の統一の再獲得というテーマを扱うことは、容易なことではありません。ドイツの歴史のこの大いなる出来事に対する史的な距離が今尚かけています。私はただこのテーマにおいて私を揺り動かしたものについて、ただ主体的に言うことができるだけですが、それは私がドイツ人として、そしてベルリーンの人間としてすぐる数年の出来事や重大な試練や変化によって非常に強く驚かされたからです。


1.まず、ドイツの東と西の人間が生きてきた、全く異なる出発点の状況を顧みるべきです。西側のドイツ人は自由な法治国家における40年以上の歳月の修練を体験しました。東ドイツの住民は全体主義的な権力国家の中に住み、働かねばなりませんでした。その前に1945年の終戦までドイツには、全体主義的な国家社会主義の世界観に基づく国家がありました。それゆえに東ドイツの市民は、自由な法治国家な秩序を全く知らないかったのです。全体主義的なシステムが、その強制と権力政治の帰結として、人間の気質に深刻な傷跡を残したのです。市民の思惟と生き方に対する国家イデオロギーの影響が大変強かったので、職業と仕事のみならず、自由時間と人間関係もこの国家イデオロギーによって悩まされてきたのです。経済・教育・文化といった人間社会の全ての領域は、−教会の社会奉仕の課題や牧会(牧師のなすべき仕事の領域)の課題もー全体主義国家が影響を与え得る領域へと大なり小なり陥ったのです。強制された社会主義の導入に対するドイツ住民の反乱は、ハンガリーやチェコスロヴァキア、ポーランドにおけるそれと同じように、失敗しました。スターリン主義の勝利や壁の構築、ドイツ内部の国境の設定の後で、また(壁を越えて西側へ逃亡するものに対する)射殺命令の後で、東ドイツは監視国家へと発展し、その国家保安省(旧東ドイツの秘密警察、いわゆるシュタージィ)は統制機関に拡張されました。「社会主義」のイデオロギーはますます見せかけだけになりました。

 教会の活動は国家の立場には不気味なものになりましたが、それというのも東ドイツの党幹部は、批判的に問われ、見破られている、と感じたからです。東ドイツにおける国家から独立した唯一の組織は、教会でした。東ドイツの教会の教会員の内面的な関係は、それゆえに西ドイツの教会員よりもっと強いのです。労働の雰囲気、すなわち人間と人間との間の関係も東ドイツの国家においては人間的で、暖かいものでしたが、それは人間が、国家の抑制と経済的に困難な状況に直面して、お互いに自分たちの問題を交換し合い、相互に助け合うために親密になったからです。国家による操作によって東ドイツ人は、国家は全て必要なものを制御し、人間を自立させないことになれたのです。それゆえに今日東ドイツの人間には、まさに年のいった人間にも、多くの新聞やアンケート用紙や宣伝用パンフレットの紙の山の見当をつけ、そして多くの道や設問や陳情の不快さを引き受けることは、東ドイツの人間には難しいことなのです。東ドイツと西ドイツの州教会が合同することに関しても、問題があります。ドイツの再統一は、組織的な、外側から制御される機会であるばかりでなく、なお長い間閉じられていない内面的な過程なのです。


2.教会は分割された世界と分裂した国において重要な課題を持っていました。そのさい東の理論と西の理論との抗争がそれぞれの領域でその都度決定的な役割を果たします。「平和・正義・被造物の保全」というエキュメニカル(全教会的)なスローガンは、その批判的なもの言いにおいて東のイデオロギーにも西のそれにもぶつかるのです。東において宣言された「階級敵」という和解しがたい理論は、批判的なグループや研究球団によって、教会大会や教会において西側において全ての経済的な懸念と需要のための救済手段として賞賛される、「市場経済」の絶大な力と同じように疑問に付されるのです。そのように、「善と悪」における世界の分割への不快感と、東も西も生き残り得ないであろう核戦争による世界の終末に対する恐れが、教会の側からはっきり表明されたのです。「社会主義」も「資本主義」も懸念される核の破局に直面して、その絶対性の要求を相対化したのです。両者の側が過剰軍備に直面して彼らの「平和政策」の真正さを問わざるを得なかったのです。東と西における政治的な場面は、ますます別れました。人々はお互いに話あい、核兵器を削減する協定を結びました。閉じられた東の同盟は、ソヴィエト帝国もふくめて砕け散りました。ドイツ人に特に大きな継手が置かれたのです。それをもはや考慮に入れなかった統一でした。「あわてふためいて」二つの全く異なって構成され、発展した国家の形態は、私たちにとって再び政治的・経済的・文化的な統一となったのです。そこに成立する困難に踏み込まねばならないのです。そのさい対象はドイツでした。しばしば東ドイツ人を同じ権利をもつパートナーとして承認するという、繊細な感情が欠けていました。親戚関係と友人関係によってお互いに密接に結ばれていたドイツ人住民の多数は、再び獲ちとられた統一に幸せを感じました。特定の政治的な集団と経済上の責任者たちは、異なる反応をしました。東ドイツで積極的に展開した多くのものは、清算され、活動を停止されましたが、それはただ西側のものではなかったからです。教会もその「架橋する機能」にもかかわらず、ここではほんのわずかばかり役立つに過ぎなかったのです。


3.「変化」を導入することに対する教会の役割は、多くの困難にもかかわらず非常に重要です。東ドイツと西ドイツの教会は、お互いに規則的にコンタクトを持ちました。東ドイツの党によって、−そして国家の指導部によって、ドイツ福音教会とベルリーン・プランデンブルク福音教会の組織的な分離を強いられたときにも、教会は「精神的には」お互いに残留したのです。すなわち、東ドイツと西ドイツの教会は、お互いに訪問しあい、お互いに重要な教会の決定と出来事について情報を知らせたのです。個々の教会に至るまで東と西の州教会の間には、特別な協力関係がありましたがその協力関係は、郵便のやり取りや相互の訪問によって緊密な結びつきをお互いにもっていたのです。そうしたコンタクトを妨げようという東ドイツ国家の試みは、成功しませんでした。

 教会と教会のグループでは、国家に批判的だったテーマも語られました。教会の部屋では、国家の側からは認められず、しかも禁止されたグループが出合いました。教会の青少年のための働きは、東ドイツの国家においては拒否に出合いました。教会員の住まいでは、聖書のテキストのかたわらで重要で焦眉の問題も語られた「家の集会」に出合いました。多くの参加者を数える教会大会では、自由で率直に国家と社会におけるキリスト者の責任について論議されました。国家の指導者のようなキリスト者でない同時代人をつねに対話のパートナーとして誠実に受け止めるよう発言されました。平和のための行動は、教会にとって特に重要でした。教会の奉仕なしには、ドイツにおける血を流すことのない「変化」はなかったかもしれません。ドイツの再統一があれほど思いがけずに可能になったことは奇跡です。さらにより大きな奇跡は、軍備の闘争集団と警察がドイツにおける革命的な変革のさいに発砲しることがなかったことです。すなわち死傷者がなかったのです。それは平和的な革命でした。しかも国家保安省は、教会の仕事を自分の暴力で得なかったので、福音協会によって挫折させられます。個々の教会員と教会の同労者たちがシュタージィによって国家のための協力を強いられたときにも、にもかかわらず教会はその国家に対する独立を守り、そのキリスト教的な委託に忠実にとどまることができたのです。


4.精神的に再生することが必要です。しかも東ドイツと西ドイツにおいて。そこで別な考えをもつ人間と別な人種の多くの人々が「強制収容所」で殺されたわけですが、そのなかでヒットラーが統治した一つの民族「社会主義」という恍惚の舞台で人間が投獄され、政治的な信条を強制された一つの民族が、彼らの批判的な意見の故に、冷遇されたのです。そこで国家イデオロギーと党規制が宗教的に誤用され、そして個人崇拝が神の代理とされたのです。そうした民族は思慮分別と再生を必要とします。すなわち「東の人間」に罪がある、というだけでは何ものをももたらしません。ここで問われるべきは、次のことです。他人の目の塵を見ながら、自分の目の梁にきづかないのだろうか。
「他人の小さな欠点は見るが、自分の大きな欠点には気づかない」(マタイ7:3)という意味です。資本主義もまた世界の救済と人間の一致のために何をするのか、というように批判的に問われなければならないのです。教会は今日再び、二つに割れた人間の間を架橋する、という大きな困難な課題を持っているのです。普遍的なものの福祉について問い、自分自身についてだけ考えることをしないために、人間は勇気を出すべきです。今日でも、そして将来にもキリスト者は人間が自分を理解することを学び、ドイツ人も外面的にだけではなく内面的にも、再びともに成長することに協力すべきです。われわれの世界の貧困や飢餓や困窮に直面して、教会は助けを必要とする人間のために弁護士となり、援助者となるべきです。

 教会はあらゆる時代に次のような問の前に立たされています。すなわち、教会は自分の委託の故にどこで環境世界に適合することが許されるのか、そしてどこで教会は拒絶し、コンタクトを拒否すべきなのか、ということです。間違った場においても然りもしくは否を言う危険は常に存在します。それはドイツの教会にのみ当てはまることではなく、世界中至るところにある教会に当てはまります。ドイツにおけるキリスト者にとっての全ての緊張や重大試練、そして対立のあとで「変化」のすばらしい出来事の後で、私たちには感謝すべき理由があるのです。しかし勇気をもって取り掛からなければならない、新しい問題と課題をもいまや克服すべきなのです。願わくは神の霊が私たちを導き、未来のための正しい道を私たちに示してくださいますように。


(はたけやま やすお 主任・一般教育部教授)

*本稿は昨年4月28日開催の本学国際平和研究所との共催・日本クリスチャン・アカデミー関東活動委員会協賛の講演会の全文です。G.アンメ牧師は、1928年にドイツのチューリンゲン州に生まれ、大学神学部で神学を修めた後、牧師として働き、ベルリン・ヴァンセンゼー地区教会監督を勤め、ベルリン・ ブランデンブルク州教会を地盤にドイツの教会大会のために長年活動し、また旧東ドイツ地区で、ドイツ東アジアミッションの会長を長年務められた。


明治学院大学を去るにあたって     澁谷 浩


 種種の理由により、私は今学年限りで明学を去り聖学院大学(埼玉県上尾市)に来学年から勤務することになった。明治学院には29年、非常勤で務めた年を勘定に入れると30年勤務したことになる。まあ短いとはいえぬ年月であろう。その年月の間、私は自分の勤めている学校がキリスト教主義の学校であり、しかもそのキリスト教は日本キリスト教団のキリスト教であることを常に意識していた。意識せざるを得なかったのは、私が無教会の信者であり、その上、内村鑑三−現今のむ教会は内村抜きの無教会であると言われる−の研究者だからである。私が我孫子の自宅で無教会集会を始めて20年を越えた。ところが、そこに集う人々は(決して多数とはいえないが)、私と家内を除けば、程度の差こそあれ、皆教会生活の経験者ばかりである。その中でも最も長い、かつ深い教会生活の経験者によれば、そういう自分が無教会集会の中にいるということは、「たとえばパスポートなしで長期滞在している外国人みたいなもので」、「正式にパスポートを取るか国外退去するか」どちらかを選ばねばならないときが来るかも知れない−こんな感想を懐くことがあるそうだ。私がキリスト教主義学校にいて時に懐くのは、まったくこの方の感想の裏返しであった。いや、今春赴任する学校もキリスト教主義なのだから過去形で語るのは正しくないというべきか。ただキリスト教の教派の区別を問題にしないことを以って特色とする学校であると聞く。あまり性急に同じだろうとか違うだろうとか論じてはなるまい。

 例のCコード廃止問題で、私は廃止反対(正確に言えば廃止延期)の立場にたつ人々に加わって署名した。その後しばらく経って、教員ラウンジの戸口で森井学長先生とパッタリ出くわした。先生は大きく眼を見開いて驚きの念を示すとともに苦笑を少々顔に浮かべて私を見つめた。眼は口ほどに物をいい、である。私は何やらわけのわかないことをつぶやいて、逃げ出した。先生は無教会の私が廃止賛成の立場にたつのを予想されていたのであろう。

 68年から70年代初めまで続いた大学紛争も忘れ得ざる憶い出である。しかし紛争の渦に巻き込まれているときに感じたことは、この種の出来事は歴史に残るような性質のものではあるまい、という予想であった。騒いでいるのはキャンパスの中だけで、一歩学校の門から出るとそこでは、平和な生活があるときは静かに、あるときは賑やかに送られていたからだ。日本の歴史に戦後民主主義の曲がり角として、はるかに大きな意味を持ったのは60年安保闘争の挫折である。しかし当時私は大学院の1年生であった。−こんな憶い出を方っていたら、たちまち紙幅は尽きてしまう。問題のより厳密な把握については、次号の『研究所紀要』の拙稿をご覧ください。

(しぶや ひろし 所員・法学部教授)


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