善なること 遠藤興一
「福祉」という言葉は、時代を象徴し、今日、あらゆる分野で使われている。たとえば「ボランティア」という福祉概念は、いまや、日常生活の内部に深くはいりこんでいる。辞書を開くと「幸福」「幸せ」と同義で、善なること、真なることというニュアンスが結びつく。だから、「福祉悪」という言葉は存在しない。しかし、実際はどうか。虐待が福祉の現場で発生し、福祉の世界の汚職が白日のもとにさらされる。こう考えたらどうか。福祉とは、実は「善」と「悪」(罪)の両契機から成り立っているのだ。福祉を絶対化するから、善意で成り立っている世界に“そんなことはある筈がない”。そうではなく、叡智をもってしっかりと、「福祉」のなかの悪や罪を目措えることが、今日では必要だ。「福祉」を聖域化したり、物神化してはならないと思うのである。
(えんどう こういち 所員・社会学部教授)
「森井先生のこと(その4)」 真ア隆治
大木英夫著『ピューリタニズムの倫理思想』(1969年)の書評を出版社に依頼されて森井先生が執筆されたものにたいして、大木氏がはげしく反論を加えてきた。それへの反駁文は、タイトルを《『森井氏の書評に答える』という大木英夫氏の文章に答えて》という自費出版パンフレットで、400字詰め原稿用紙50数枚におよぶ力作となって1971年11月に出された。ということはちょうど35年前のことである。所々にユーモアを配しながら小気味よく切り込んでいく明快な文章は、痛快であるとともに学問を志す者への示唆に富む味わい深いもので、森井先生の精神の躍動がそのままに伝わってくる名文であり、先生の書かれたもののなかでも傑作の一つといえよう。
文は大木氏の反論にあわせて17項目からなり、それに短いまえがきと、『イギリス史研究』第4号所載の同書をめぐる研究会記録を「追記」とする。読み出したらそれこそ「書を置く能わず」という本文のいちいちを紹介する余裕はないし、またその必要もないのであるが、森井先生の論の展開の一例として、「ルターの後継者ブツァー」の項目を手短かに述べておく。
大木氏は森井先生がブツァーをルターの後継者としたことに触れ、「この人は教会史の常識もないのか」といい、「雑な歴史家」と断じる。これにたいして先生は、自分にはそのような主張をする独創性がないことを嘆かれたあとで、「僕の知る限りでは」ジャック・クルヴォワジエ、アンリ・ストロース、フランソワ・ヴァンデル等がブツァーをルターの後継者としていることを挙げ、だからといって、こうした権威のゆえに自分はそういっているのではなく、むしろ「そういう権威主義くさいことは大嫌い」であり、ただ、ルターの後継者ブツァーといったからとて「人から愛想をつかされるほど非常識なことではないのじゃないか」と述べられる。次いで、メランヒトンなどはルター神学のうち義認の問題をもっぱらに受け継いだが、ルターにとって聖化の問題も重要であり、「ルターの弟子の中で師の義認と聖化の思想を最も忠実に継承しているのはブツァーではないか」と指摘される。さらに、ブツァーがルターの後継者であるかないかは、「ルター理解、宗教改革の解釈、人文主義の評価」によることであり、「森井がブツァーを『ルターの後継者』に仕立て上げた」というような事柄ではないと語り、さらに、ここでの重要な問題は後継者問題などではなく、大木氏の手放しのピュリタン讃歌にたいする疑義がここでの中心テーマであるのに、「その肝心の疑問にはまともに答えないで」一言半句をあげつらう態度を「どういうわけなのだろうか」と訝るのである。
以上、不十分な要約であるが、それでも森井先生の弁論が、二枚腰どころか、三枚も、四枚も、これでもかというほどの奥行きをもって展開されていく凄みは感じていただけると思う。先生の言葉の背後には、たとえそれが一言半句のようなものであっても、十分な学的裏付けがある。それは近著の『ジャン・カルヴァン』において、さらに痛感させられることになる。
このパンフレットの内容は豊かすぎてとても一言で片づけられるものでないが、小文のためにあえてまとめるとすれば、「ピュリタニズムのみが正しく、他は不可とする大木流権威主義への抗議」である。権威主義は内実のない空疎なものであるほどいっそう恐ろしいものになる。なぜなら、中身がないだけ権威を守ろうと猛々しくなるからである。森井先生の文をお借りするまでもなく、商品の広告には良い面しか書かれていない。しかし学問としてなにかを語るとき、その良い面のみを喧伝し、悪い面を指摘されると憤然として異論を抹殺しようとするような態度は、学問にふさしいものとは到底いえない。ところで、この小冊子の真の問題は、大木個人を超えて、思想にせよ政治にせよ宗教にせよ、人間がともすればこうした空疎な権威主義を振りかざしたくなる危険を警告されているのではなかろうか。それは危険であると同時にまた誘惑的なことでもあるのだ。私は前号でこれを仮に「教皇主義」と呼んだ。それはいつでもどこでも変幻自在に現れる始末に負えないものなのである。だからこそ、人はいつも知性を研ぎ澄ませて警戒していなくてはならない。知性だけではない。森井先生のエピソードをこれまで書き連ねてきて、実は先生からも呆れられていたのであるが、そうしたものから垣間見られる資質の数々、つまり、理性、感性、懐疑心、無邪気さ、ユーモア、努力、忍耐、そしてなによりも、真剣に生きようとしている人間への愛、こうしたものが一体となって、先生の言葉を、思想を、行動を、つくりあげているのである。(次号完結)
(まざき たかはる 所員・教養教育センター教授)
「イワル・タナハさんのこと(前)」 渡辺祐子
台湾には外省人、内省人と呼ばれる漢民族のほか、17世紀に漢人が台湾島に来る以前からすでに先住していた民族「原住民」が複数いる。1895年に日本が植民地統治を始めると、日本人人類学者は原住民を言語や習俗によっていくつかの民族に分類した。その分類法を基本としながら、2000年以降、新たに独立した民族として台湾政府が認めた例を含めて、現在のところ政府公認の原住民は12族とされている。なお「先住民」という呼び方を時折見かけるが、「原住民」という呼称が正しい。
イワルさんは、独立した民族として2004年に認定された太魯閣(タロコ)族のクリスチャンの女性(今年77歳。ただしイワルさんの申告が正しければ)である。私が彼女を知ったのは、台湾の日本軍「慰安婦」被害者9人が1999年に日本政府を相手取り、東京地裁に起こした裁判の支援にほんの少し関わるようになったことがきっかけだった。もちろんそれまでも「慰安婦」問題に関心は持っていたし、被害者たちに対する日本の社会と政府のあまりにも冷たいまなざしに度々憤りを感じてもいた。けれども私の関心はせいぜいその程度で終わっていた。そのころ韓国とフィリピンですでに「慰安婦」被害者が名乗り出ていたが、この問題に深く関わることができるのは、韓国やフィリピンの事情をよく知っている人たちではないかと、私はなんとなく考えていた、いや逃げていたのである。
1999年に台湾元「慰安婦」の裁判が始まった時抱いた正直な思いは「いよいよ逃げられないな」だった。近代中国を研究対象としている私だが、生まれて初めて訪れた外国は大陸ではなく台湾である。学生の海外旅行が当たり前になり始めた大学3年の夏のことだった。しかし、異文化との強烈な出会いを与えてくれたその台湾に、日本軍「慰安婦」とされた女性たち、阿媽(アマ)がいたことは全く知らなかったし、想像することも出来なかった。
言語に絶する体験を50年近く封印していた阿媽たちが、何よりも正義を回復させるために人生最後の時についに名乗りを上げた。この事実に、私は向き合わざるを得なくなった。すでに「国民基金」の問題はこじれにこじれ、「自虐史観」の克服を声高に叫ぶ人たちによって、猛烈な反慰安婦キャンペーンが執拗に繰り広げられていた。彼らの主張に心底強い反発を感じながら、しかしそれでも私はどこかでもう一歩踏み出せずにいた。当事者だった人とどう接すればいいのか分からず、自分の底の浅さが露呈されることが怖かったのである。
20年来アムネスティ・インターナショナルの会員である私は、時間がある時には英語や中国語の人権侵害レポートの翻訳を手伝ったりしたこともあるが、レポートに書かれている被害者は私の目には直接見えない人たちで、実はその方が支援活動はやり易い。支援する側とされる側とが、個人的に名前で呼び合うような1対1の関係ではないほうが、大げさに言えば実存的な問いを突きつけられる程度が低く、精神的に「楽」なのである。
具体的に関わることをずっと躊躇し続けていた情けない私の背中をポンと押してくれたのが、原告に名を連ねていたイワルさんの存在だった。彼女が原住民、つまり漢民族がほとんどを占める台湾の元慰安婦の中でも少数者であり、しかもクリスチャンであることを知った時、私は信仰的義務感とか使命感から「支援しなくては」ではなく、信仰者としてこの問題をどう考えるべきかをイワルさんから学びたいと純粋に思ったのだ。実際彼女からどれほど多くのことを教えられたことか。でもそれはイワルさんに過去のつらい体験を何度も思い起こさせるという負担を強いることでもあった。
イワルさんの父親は、反日闘争として有名な霧社事件に参加し亡くなっている。父亡き後再婚した母親の元を離れて別の村で叔母さんと暮らし始めたのが15歳の時。間もなく村に駐屯する日本軍の雑用(軍服の洗濯や繕い)を警察に命ぜられる。支配者である日本人警察官は、原住民にとっては最も怖い存在だった。「ものすごく怖かったから、逆らうことは絶対許されなかった」とイワルさんは言う。そうして他の少女たちと一緒に軍施設に通う日々が何日か続いたある日、彼女たちを監督していた兵隊に倉庫用洞窟に連れて行かれ、複数の兵隊たちの性暴力にさらされた。彼女らはその日(彼女の証言では1944年の12月)から敗戦にいたるまで毎日のように暴力を受け続けた。15歳の少女はどんな思いでこの苦しみの日々を過ごしていたのか。悪夢のような体験をイワルさんはおばさんにも隠し通し、性暴力を受けた体を引きずって帰宅しても平静を装い続けた。そればかりか彼女は、日本の敗戦によってようやく解放されてからも、この数ヶ月の生き地獄のような出来事を胸の内に仕舞いこみ、自分に染み付いた「汚れ」を責め続けたのである。
ほどなく彼女は、戦地から戻ってきた婚約者と結婚した。元「慰安婦」の結婚生活は、重いPTSDを始めとする様々な理由から上手くいかないことが多いのだが、彼女はクリスチャンの夫と教会に仕えながら、幸せな生活を送ることができたと言える。しかしあの出来事を夫に打ち明けたのは、夫が癌に倒れ余命いくばくもないと知った時だった。(続く)
(わたなべ ゆうこ 所員・教養教育センター助教授)
「植村正久研究を課題として」 吉馴 明子
あれは多分1992年のことだったのであろう、新設の政治学科で私は政治思想史2を担当することになった。ご紹介下さった政治思想史1担当の渋谷先生は、政治学会の分科会で司会を務めてくださった事があり、若くして世を去った溝口潔さんの植村正久論の発表があったのはその時だった。私は海老名弾正の研究家ということになってはいたし、京極純一の『植村正久』は難解でとても手が届きそうにないように思えた。それでも、本当はいつか植村正久をやりたいと心の底のどこかで考えていた。
というのも、私の母の実家は大垣にあり、長老教会ミッションが建てた岡崎中学を卒業した祖父は、曽祖父の時代から日本基督教会大垣教会の信徒であった。東京女子大の佐波文庫にある植村正久全集購入申込者リストにはこの祖父母の名も記されている。また、母は神戸YWCAの委員で日本YWCA総会の代議員を務めたこともあり、母から植村環牧師の父植村正久についての話を聞かされる事もあって、偉そうな人だなぁと思っていた。この母に連れられて、私は神戸にある日本基督改革派の神港教会で育った。ちなみに牧師であった田中剛二は明治学院から分かれた神戸中央神学校の卒業生である。
国際基督教大学在学中に、全共闘運動のはしりともいうべき大学紛争に巻き込まれた私は、信仰と政治、キリスト者と戦争責任・天皇制について考えるようになり、丸山真男の「超国家主義の論理と心理」にあこがれて、我と我が身を省みもせず日本政治思想史を学び始めたのである。神の歴史支配の信仰が戦争を肯定したのではないかと思ったこともあって、教会放浪もした。おかげで、教団の教会、(新)日本基督教会を知ることにもなった。キリスト教世界での植村正久評は、(お弟子さんと呼ばれる人以外では)そう好くもないということも知った。ずいぶん強引なところがあったようである。しかし、改革派教会という教義のしっかりした教会で育ったからか、私には海老名弾正より植村正久の方に親近感が持てたのも事実である。内村不敬事件での声明や評論を見ると、日本社会の状況や問題点の把握、運動の展開の仕方など、やはり植村はすごいと思ってしまう。強引というのは、的をはずさないやり手ということでもある。的にされた人間はたまったものではないが、なぜそこに的を絞って戦おうとしたかを考えるのは、まさしく政治思想史研究者の課題だと気負って考えている今日この頃なのである。半年の研究休暇の時を植村正久とゆかりの深い明治学院で過ごすことができるのはとても幸せだと感謝している。どうぞよろしく。
(よしなれ あきこ 協力研究員)
「はじめまして」 齋藤元子
本年度より、横浜キャンパスで地理学の非常勤講師を務めさせていただくようになりましたことがご縁で、協力研究員としてお世話になることになりました。
私は、明治期の地理教育、なかでも女学校における地理教育について研究をしてまいりました。
文部省顧問であったフルベッキは、明治5年、当時アメリカで広く普及していたミッチェルの地理書を、地理教科書の手本として、文部省に紹介しています。このミッチェルの地理書は、私の出身校お茶の水女子大学の前身である女子師範学校でも使用され、第一期生の青山千世(山川菊栄の母)が所有していたミッチェルの地理書が、現在も大学図書館に保存されています。千世は、女子師範学校入学以前、上田女学校でジュリア・カロザースに学び、地球儀を使ったジュリアの地理の授業を、一生忘れられない感動であったと語っています。
今日、地理学はマイナーな学問ですが、明治期においては、開国により交流の始まった諸外国についての知識を得ることができる学問として人気がありました。明治学院が所蔵していらっしゃる史資料を閲覧させていただき、明治期のキリスト教系教育機関における地理教育の様相を明らかにできたらと希望しております。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
(さいとう もとこ 協力研究員)
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