清貧と信仰           佐藤 寧


 イタリアのほぼ中央にアッシジという小都市がある。丘の上には聖フランチェスコ聖堂が在り、彼の生涯を描いたジョットのフレスコ画が有名である。彼の肖像は優しさに満ちている。商家に生まれ、青年になって、ペルージャとの戦いに向かったフランチェスコにイエスが現れ、「もどって教会の再建をしなさい」と言葉をかけられた。当時、ローマ教皇を頂点とするキリスト教の教会は堕落の様相を呈していたのである。そんな時代にあって聖フランチェスコは、裕福な両親と決別し、清貧と信仰を貫き、教会の再建のために一生を捧げたのである。フレスコ画の一枚に、聖フランチェスコが、着ている服を脱いで父親にその服を返す絵がある。            
この地を訪れるたびに、イエスの言葉に従うことの大切さを痛感する。

(さとう やすし    所員・教養教育センター教授)
                            




森井先生のこと(その5)  真ア隆治


 学長を務められた8年間に、森井先生はキリスト教主義に基づく明治学院大学の伝統を妥協することなく守りとおし、明治学院の社会的な評価を高められた。学長になられた直後は、学長室に研究書などおいて、暇を見ては読んでおられたが、いつか研究書は姿を消し、仕事一辺倒の日々になった。学長を退かれてからお聞きしたことだが、「学部長までは忙しいといっても、どこかに〈私〉というものがありましたけれど、学長にはそれがまるでないんですよ」と言われた。私も学生部長や教養教育センター長という、いわゆる激職といわれるものを経験したが、やはりどこかに個人としての余裕の時間があった。だいたい「最後の責任は学長にとってもらえる」という甘えの余地があった。しかし学長はちがう。仕事で4人の学長と間近に接する機会があったが、学長職にはほとんど私的な時間のないことが分かった。森井先生の学長室から研究書が姿を消したのも当然である。それだけに、学長職から離れたとたんに、「カルヴァンの手紙を読んでるんです」と嬉しそうに言われた先生の顔が忘れられない。学長の仕事から解放されたら、私ならすべてを放り出して酒飲み三昧の日々に突入するであろうものを、森井先生は書物、それも、ただでも易しいとは言えないカルヴァンの、しかも大半がラテン語で書かれている膨大な書簡を読み通す仕事にとりかかられたのであるから、私などの及ぶところではない。日本ではもちろんだが、世界でもカルヴァンの全書簡を読んだ学者はそう多くはないだろう。その成果が『ジャン・カルヴァン――ある運命』(教文館)に結晶することになる。

 本書についてはすでに《白金通信》に書評を書かせていただいたが、紙面の関係で触れられなかったことを一つ述べたい。それは先生の文章が冗長を排し明快闊達なことである。カルヴァンが活躍した16世紀前半から中葉にかけては、ヨーロッパの歴史のなかでもとくに複雑で激しい時代である。なにしろプロテスタントが誕生した波瀾万丈の時代である。コロンブスが地球は丸いと言い、コペルニクスのせいで地球が回転しはじめた時代である。それだけに中世から近代への曲がり角として、世の中の全体がまったく新しいものへ脱皮しようともがいているようなこの100年間を要領よく説明するのは至難の業である。ところが森井先生は最初の数頁でこの時代の状況や精神ばかりか、カルヴァンの思想の本質まで的確に描きだしてしまうのだ。読んでみればなんでもないようだが、それこそコロンブスの卵である。もちろん細部をともなうものではない。細部を描けば10冊の本になろう。しかし、「それでも地球は回る」という簡潔な言葉が内容として正しく、同時にその時代に生きた人の決然たる心情を感じさせるように、先生の言葉は時代の焦点をとらえてあやまたず、歴史を学びつつ築かれた思想を明確に伝えるのである。こんなにあっさり言ってのけていいのだろうかと時には訝りながら、各章につけられている注を見て仰天し、浅学の身を思い知らされることになる。わずかな記述の背景になんと多くの研究書が下敷きにされていることだろう。

文献が多く並んでいるから立派な本だとはいわない。しかし私は先生がこれら無数の文献を自家薬籠中のものとされていることを知っている。お宅にうかがって、机の上に開かれている本を覗くと、頁の余白に所狭しとばかりに書き込みがある。たまたまその本がというのではない。書棚から適当に引き出してみた本も、お借りした本も、どれもみなびっしりと書き込みがあるのだ。記述に関する感想、疑問、意見、参照すべき他の研究書、等々。先生はこれらの学者たちとの議論に参加して、耳傾け、意見を述べ、反論したり意気投合したりしておられるのだ。だからその文は一級の学者たちとの議論を経た百戦錬磨のものとなる。先生の文章の論旨が明快であるとともに強靱であることの秘密がここにある。

 本書についてもう一つ触れたい。フランス語読みでミシェル・セルヴェというスペイン人の医者のことだ。彼は血液の小循環や肺循環を発見して医学に多大な貢献をした人物であるが、彼の豊かすぎる才能と時代の枠に収まりきれない発想と、傲慢で傍若無人な性格が災いする。医学の世界でおとなしくしていればいいものを、事もあろうにキリスト教の批判を始めたのである。それも三位一体論の否定という、この時代においてはなによりも危険なテーマであり、1531年には著作も著した。カルヴァンは1534年ころからセルヴェが意見を撤回するように手をつくして説得するが、セルヴェは一顧だにせず、ついにカルヴァンは彼を見限ることになる。それどころか、彼がジュネーヴに来たら、「私の権威が強力である限り、かれは生きて立ち去ることは決して許されないでしょう」と1546年2月の書簡に書く。セルヴェは1553年1月に出版した『キリスト教の再建』によりカトリック教会から異端審問所に訴えられ、4月に異端として火刑の判決を受けた。しかしセルヴェは脱出に成功し、隠れ家をもとめてナポリへ向かう途次、なにを思ったか今や彼にとってもっとも危険な土地の一つであるジュネーヴに立ち寄ったのである。彼は逮捕され、裁判を受け、10月27日、生きたまま火刑に処せられた。火刑といっても、おおかたはまず絞首刑にしてから見せしめに火刑にするという苦痛を軽減する方法をとるのだが、ここではもっとも苛酷な方法がとられたのである。カルヴァンは長年にわたりセルヴェを真摯に諫め続けてきた。処刑にあたっては残酷な方法をとらないように市当局に求めた。しかし死刑には反対しなかった。カルヴァンにもそれなりの信念と改革途上での必要性とからセルヴェを赦免できない事情があった。それでも、彼が思想の名において人を殺した事実に変わりはない。

 この事件はカルヴァン研究者を悩ませ続けてきた。森井先生の筆も本章ではカルヴァンの努力や背景を語りながら、もう一つ冴えがない。事件の陰惨な性質が筆に苦渋を強いるのである。しかし本章の真髄はこの先にある。セバスティアン・カステリヨンというカルヴァンの仲間であった若い牧師が、彼の不寛容を咎めて『異端は迫害されるべきか』という冊子を書き、「教義に関する知識よりも清い心をもつこととか、いかに生きるかという問題のほうが大事であり、三位一体や予定説の知識がなくても救われるのだ」とカルヴァンを真っ向から論難したのである。また、霊的な罪は世俗の剣でなく霊的な剣で罰するべきだとして、「人を殺すこと、それは教義を守ることではなく、人を殺すことである」と喝破する。そして、いかなる場合にも死刑には反対であり、最終的処罰は国外追放であるとした。カルヴァンは激怒する。カルヴァンはカステリヨンを愛していた。若き日のカルヴァンはセネカの『寛仁論注解』で世に出た人だからカステリヨンの言うようなことは承知のうえである。だからセルヴェへの選択は喜んでなされたどころか、余人の覗い知れぬ苦渋に満ちたものであったはずだ。それあるに、愛弟子ともいうべき男がなんという言いぐさだ。カルヴァンは裏切られた思いがしたであろう。カステリヨンは国外追放になる。議論するのがいのちがけの時代であった。

 この事件はさらに大きな歴史的な問題をはらんでいる。1552年、ジュネーヴ市はカルヴァンの『キリスト教綱要』を、「一切の批判を将来にわたって許さない、真理への無謬の手引きである」と宣言した。たしかに宣言したのはカルヴァンではない。しかし彼の承諾なしにこのような宣言が出されるわけがない。神ならぬ者の著作が無謬というのは、ローマ・カトリック教会の教皇無謬説にたいして戦ってきたカルヴァンであれば到底認められないはずのことなのに、自ら同じ穴の狢(むじな)となりながらそれに気づいていない。思想的不寛容といい、自らの無謬の承認といい、晩年のカルヴァンには哀れがある。森井先生はこうした点を指摘されたうえで、「セルヴェを火刑にしたのは(・・・)一六世紀の誤りであるとともに、その時代に生きていたカルヴァンの誤りでもあり、さらにまた、屈折したかたちで問題が今にいたるまでなお尾を引いている人類の誤りでもある」のかもしれないとして、「価値の相対化について、寛容について、また人間の尊厳や人権について」、こんにちでは火焙りにこそされないまでも、自分と考えを異にする者を憎む宗教者や、自分の属する教派教団の教勢の拡大を神の栄光と混同して気付かない神学者などがいまでも稀でないことを嘆くのである。なぜ人は寛容になれないのか。なぜ思想を相対化できないのか。なぜ自らを権威として他を裁き命まで奪うのか。

 カルヴァンも、平清盛も、魏の曹操も、そしておそらく宮崎県前知事も、みなそれぞれに権力を握るまでは、悪を憎み、不正を正し、世に平和をもたらそうと決意していたであろう。しかるに権力の魔はいつのまにか心の奥底にしのびこみ、かつて唾棄していたものを自らが平然と行うようにさせてしまのだ。それは永遠に変わらぬ人間の宿命なのだろうか。

 昨夏、先生の甲斐大泉の別荘をお訪ねした。奥様が近頃はやりの数独という数字のパズルをしていらした。難しい問題集で、そう簡単には解けそうにもない。本を見せていただいた。なかには先生の筆跡で取り組まれた形跡がいくつかあった。そこで「数字のパズルがお好きなのですか」とお尋ねすると、「ぼくはトランプ占いのほうが好きなんです。数字のも面白いことは認めるんですよ。でも答は〈これしかない〉でしょ。占いのほうは、しめた、と思ったとたんにひでえことがおこったりして、自分の思うようにいかないところが人生みたいでおもしろいんです」

 『カルヴァン』の副題は〈ある運命〉である。こうすれば必ずこうなるとは限らない人生のいたずらに翻弄されながらも、そのなかで自らをつくして生きることの大切さを森井先生はカルヴァンのなかにも見出されたにちがいない。それはまた、若き日の理想の輝きが、現実のなかで次第に色あせて、いつしか正反対の言動をとっている自分の宿命に気づいた瞬間の悲哀を「運命」という語に託しておられるのかもしれない。あるいは、人はどのような運命に見舞われようとも、そのなかで雄々しく生きようとする人の姿への感動がこめられているのかもしれない。いかに頑張ってみても及ばない運命を、悲喜交々(こもごも)さまざまに、あらゆるものをごたまぜにして引きずりながら人は生きていく。その総体が人生であり、その人生を演出するのが運命であり、それを良きにつけ悪しきにつけ引き受けるのが人間の宿命であるとすれば、ここでの「ある運命」とは、「ある人間」といってもよいのかもしれない。

 森井先生のことを書き始めたとき、ここまで長くなるとは予想していなかった。長期にわたりおつきあいくださった皆さんはもとより、このような拙い文の執筆をお許しくださった森井先生の「寛容」に、心からの感謝を捧げたい。しかし書いてみると、まだとても書き切れるものではない。森井先生の奥は深く、エピソードも尽きないようである。

 さて、しめくくりのエピソード。数独に取り組まれていた奥様は、今もバッハ合唱団を主宰している恵美子さんではなく、森井先生が50歳を過ぎて再婚された幸子さんである。やがて二人のあいだに女の子が与えられた。もともと子煩悩の素質十分の森井先生である。直子ちゃんの誕生をどれほど喜ばれたかは想像するまでもない。まだ生まれて間もないころ、フランス文学科の研究室に現れた先生は、昼休みのこととて雑談していた教師どもにむかって、「あのね、直子がね、ラテン語で〈水ほしい〉っていったんですよ!」と言われた。一同が唖然とするなかで、先生は厳かに「〈アクア〉って」と続けられた。たしかにaquaは水である。だが、たかが赤んぼのゲップじゃないか。(終)

(まざき たかはる    所員・教養教育センター教授)





【学会報告】 キリスト教・近代化・ナショナリズム 東北アジアキリスト教史学協議会東京大会報告    渡辺祐子


 2000年の第一回大会以来、今年で五回目を数える東北アジアキリスト教史学協議会(North East Asia Council of Studies of History of Christianity)国際大会が、2006年8月21日から23日の三日間、「キリスト教、近代化、ナショナリズム」をメインテーマに明治学院大学白金キャンパスで開催された。同協議会は、韓国教会史学研究院院長(当時)閔庚培氏の熱心な働きかけに、キリスト教史学会(荒井献理事長、当時)と中国・香港のキリスト教史研究者が応じ、1999年に発足した国際学会である。韓国、中国、日本のキリスト教史研究者の交流を学術、信仰の両面においてはかることを目的とし、基本的に毎年三国が持ち回りで会議の開催責任を負っている。持ち回りといっても、日本での開催は、大教会の豊かな経済力を背景に多くの働き手に恵まれている韓国と同じようなわけには行かない。それでも大西先生と私を含む大会実行委員は、少ない人員で出来るだけのことをしようと、前年の韓国大会が終わった直後から日本での開催に向けて準備に取りかかった。開催費用をどうやって捻出するかという問題と並んで会場選びも難航したが、橋本茂所長のお計らいでキリ研に事務局をおき、明学を会場とすることが決定した時は、実行委員一同どんなにほっとし、嬉しかったことか。「これで大会の成功は間違いない」と仰った方がおられたほどであった。

 予稿集の編集、大会次第の作成、ホテルや食事の手配等、様々な準備の中でも最後まで心配だったのが、果たして招聘した5人の中国人研究者が予定通り全員来日できるのかということだった。中国ではたとえ学術会議であったとしても、「キリスト教」と名のつく集まりの場合、常に自由に参加できるとは限らない。それが外国で開かれるとなるとなおさらである。私自身も、四川で開催されるはずの中国キリスト教史研究の会議に参加を予定していたが、直前になって会議そのものが政府の横槍で中止になるという経験をしたことがあったので、当日彼らの顔を見るまでは気が抜けなかった。しかし私の心配は杞憂に終わった。招聘した中国人研究者が全員会議に出席できたのは、香港大会を除いては今回が初めてである。これまで大陸の研究者の参加がなかなか難しかったのは、大会会場がキリスト教の研修施設やホテルだった(日本での前回の大会は国際湘南村で開催)ことと関係がある。こうした施設での開催は、正真正銘国際学術会議なのか、単なるキリスト教の集会ではないのかという疑いを持たれやすく、そのために出国が許されないケースが生じたわけである。今回は明学を会場としたことはもちろんのこと、連絡先も大学内の研究所であったことが幸いしたといえると思う。

 こうして中国からの5名に加えて、韓国人研究者19名をお招きし、日中韓合わせて10名による研究発表と、今回新しい試みであるシンポジウムの二本立てによって、活発な議論が交わされた。シンポジウムに先立って行われた駒込武京都大学助教授による基調講演「ナショナリズムとキリスト教のあいだ」とその後の議論や、個別発表と質疑応答の詳しい内容については、雑誌『福音と世界』2006年12月号の拙稿をお読みいただければ幸いである。最後になるが、教学補佐の石垣博美さんは、大会の準備から当日に至るまで骨身を惜しまず献身的に働いてくださった。彼女の働きがなかったら、大会運営は実に心もとないものになっていただろう。またキリ研を事務局として用いることを快諾してくださった橋本先生、当日所長に代わって御挨拶くださった水落先生、礼拝を担当してくださった北川牧師、オルガニストの西尾さん、そして久世学院長に心から感謝申し上げたい。

(わたなべ ゆうこ   所員・教養教育センター助教授)





【学会報告】 第13回 新プラトン主義協会大会                 水落 健治


 2006年9月16日(土)〜17日(日)、第13回新プラトン主義協会大会がキリスト教研究所の共催で白金校舎で開催された。
 「新プラトン主義」Neoplatonismus とは、紀元3世紀のローマで活躍した哲学者プロティノス (c.205-270) を創始者とするギリシア哲学の一派で、プラトンの哲学を基盤としながらもその上に独自の思想を展開させ、〈一者〉からの万物の流出と〈一者〉への帰還を説く壮大な形而上学を構築し、後世に絶大なる影響を与えた思想の一潮流である。その影響は極めて広範囲に及び、(1) 中世西欧の流れを決定づけたアウグスティヌス、中世の時代に「使徒パウロのアレオパゴスでの説教で回心した聖人」 (cf.使徒言行録17.34) とみなされ東方キリスト教思想の根底を形作った6世紀の偽ディオニュシオス・アレオパギテース、トマス・アクィナスなどのキリスト教の思想家、(2) マルシリオ・フィチーノ、サンドロ・ボッティチルリなどのルネッサンスの思想家や芸術家、(3) ヘーゲルなどのドイツ観念論の哲学者、さらには(4) イギリスの詩人W.ブレイクやドイツの詩人R.M.リルケなどが、新プラトン主義の影響のもとに自らの思想を展開し、創作活動を行った。かかる影響の大きさのゆえに、近年、この思想の重要性がいたるところで再認識され、日本では滋賀大学の水地宗明名誉教授、金沢大学の岡崎文明教授らの呼びかけで「新プラトン主義協会」が15年程前に設立された。新プラトン主義協会は、現在設立中の「国際新プラトン主義学会」の正式な日本支部と位置づけられている。

 第13回新プラトン主義協会大会は、「ルネッサンス思想と新プラトン主義」をメイン・テーマに開催された。参加者は50名以上にのぼり、内容的にも参加者の面からも非常な盛会であった。プログラムは以下の通りである。

9月16日(土)
プロティノス・コロキウム 今 義博 (山梨大学)

シンポジウム「新プラトン主義とルネッサンス思想」
提題 : 「15-6世紀のプラトン主義――フィチーノと彼以降の世代の哲学者」    根占 献一 (学習院女子大学)

「ピーコ・デッラ・ミランドラにおけるプラトン主義  ――『自然と人間』という観点から」   大貫 義久 (法政大学)

「ジョルダーノ・ブルーノにおける新プラトン主義」 加藤 守通 (東北大学)


9月17日(日)
研究発表「初期リルケと新プラトン主義との出会い――創造と芸術の視点をめぐって」 水落 美也子 (ミュンヘン大学)
研究発表「プロティノスにおけるコスモスに関する政治思想史的考察」             藤田 進一郎 (関東学院大学)

合評会 : 柴田 有『教父ユスティノス』勁草書房    
著者 : 柴田 有 (明治学院大学) 評者 : 柳澤 田実 (南山大学)、鈴木 順 (東京大学)     司会 : 大森 正樹 (南山大学)

講演会 : 「数の学としての音楽 musica scientia matematica」 丸山 桂介 (東京音楽大学)


 筆者は、いわゆる「裏方」の役割であったので、すべての発表を聴くことはできなかったが、以下筆者が聴くことができた限りでの研究発表の内容を紹介することによって、大会の概要を報告したいと思う。

 大会第一日目のシンポジウムは、根占献一、大貫義久、加藤守通諸氏という日本のルネッサンス思想研究の第一人者によって行われた。近年のルネッサンス研究は「ルネッサンス=人間理性のキリスト教からの解放」といった安易な理解を廃し、ルネッサンス期の人々が依拠していた中世以来のキリスト教的世界観の中で新たに捉え直されたのが何であったかを文献学的・実証的に明らかにしようとしているが、歴史学者である根占氏は、いわゆるルネッサンス期 (15世紀末〜16世紀) に起こったプラトン主義に関連した歴史的事項を年表風に紹介しつつ、「ルネッサンス」という文化現象をどのように捉えるべきかについて参加者の眼を開いてくださった。この提題を承けた大貫氏は、ピコ・デッラ・ミランドラの有名な講演『人間の尊厳について』De dignitate humana の成立事情に言及しつつ、ルネッサンスの人々が拠って立っていた自然観を明らかにし、その根底に「人間が天使になる」などの東方キリスト教の思想が存することを明快に指摘された。三人目の提題者の加藤氏は、16世紀後半の思想家で「魔術的ルネッサンス」の体現者であったがために異端とされたジョルダーノ・ブルーノ『英雄的狂気』の邦訳を数ヵ月前に出版されたばかりで、筆者は、ブルーノが後の時代の芸術などに及ぼした影響などについての発表を楽しみにしていたのだが、時間的制約のために、ブルーノについての発表は僅かに留まり残念であった。三人の提題者の提題はいずれも興味深かったが、筆者にとっては、「宗教改革者ルターがルネッサンスの思想家の著作を相当に読んでおり、彼らの人文主義的・文献学的方法を身に着けていた」という指摘が特に刺激的であった。「ルネッサンスと宗教改革とをキリスト教中世からの解放として対立的に捉える」という歴史観はすでに過去のものとなったといえよう。

 二日目最初の研究発表「リルケと新プラトン主義との出会い」(水落 美也子氏) は、『マルテの手記』の著者として知られるドイツの詩人ライナー・マリア・リルケの魂の遍歴の流れを明らかにしようとするものであった。リルケは、ニーチェの「神の死」の思想の洗礼を受けながら、フィレンツェのルネッサンス芸術と出会い、フィレンツェの人々の精神の高みを「そこでは信仰は、権威への盲目的服従ではなかった」と称揚する。だがその一方、彼は、ボッティチェルリがサヴォナローラの排他的宗教改革に屈伏する姿などにルネッサンス芸術の限界を見てとる。そしてみずから「事物詩」Dinggedicht という形で新たなる芸術を作り出し『マルテの手記』などを執筆するが、「人間の感情を排し、事物
に語らせる」という彼の新しい芸術は、彼をして10年間の「詩人の危機」Dichterkriseへと追いやる。そして彼は、新プラトン主義との出会いによってこの危機を克服し『ドゥイノの悲歌』と『オルフェウスへのソネット』という二大傑作を発表する。--- 以上のリルケの精神の展開が、多くの詩の引用とともに感動的に示された。

 その後に行われた合評会は、キリスト教研究所の所員でもある柴田有教授(国際学部)の近著『教父ユスティノス』(勁草書房)をめぐるもので、柴田教授のほか、ニュッサのグレゴリオスの研究者である柳澤田実氏(南山大学)とポントスのエウァグリオスの研究者である鈴木順氏(東京大学)という若手研究者が濃密な討論を展開した。紀元2世紀に活躍したユスティノスは、キリスト教史中最も初期の護教家で殉教者であるが、彼は「完全な哲学 (特にプラトン哲学) と完全な宗教との一致」を主張し、「ソクラテスはキリスト教徒であった」という有名な命題を残したことで知られている。合評会では、様々なギリシア哲学の学派を遍歴したユスティノスがギリシア哲学に満足できずキリスト教徒となった根拠が「個」(個物・個人)の問題にあったこと、すなわち、「知識は普遍的なものにおいてのみ存在する」と考えるギリシア思想の枠組においては、「かけがえのない個としての私を愛し見守る神」の考えや「ロゴスキリストの歴史の中への受肉」の思想が出てくることは不可能で、この点にこそ、ユスティノスがキリスト教徒となった根拠が存していたことが明瞭な形で示された。筆者は、紀元2世紀というキリスト教にとっては初期の時代に、ユスティノスがここまで鋭くギリシア思想とキリスト教との本質的相違を把捉していたという事実に驚嘆の念を覚えた。

 最後に行われた講演「数の学としての音楽 musica scientia matematica」は、J.S.バッハをめぐるものであった。講演者の丸山桂介氏は、バッハがカントールを勤めていたライプツィッヒ聖トマス教会の門外不出のペリコペ (礼拝プログラム) を自ら筆写し、その記録をもとにカンタータを始めとするバッハの音楽の性格を明らかにした音楽学者であるが、氏は当日、バッハがもっとも愛した楽器であるクラビコードを自ら会場に持ち込んで当時の音を再現しつつ、バッハの自筆譜の随所に書かれている不思議な数字・記号の背後に隠されている「数」の理論、その根底にある神学思想、中世のユダヤ教の数の神秘思想 (ゲマトリア) などを解明してくださった。当時の第一次資料 (ラテン語・ドイツ語) を縦横に駆使した講演は説得的で、参加者一同がシーンとして講演とクラビコードの演奏に耳を傾ける姿は感動的ですらあった。筆者にとって特に印象的だったのは、通常「平均律」と訳される wohltemparierte (良く調律された) というドイツ語がプラトンの『パイドン』から来ているのではないか、という指摘である。ライプツィッヒの町の音楽監督であり、聖トマス教会のカントールでもあったバッハの蔵書は、彼の死後、神学書以外すべて廃棄ないし秘匿されてしまったが、丸山氏によれば、バッハが「天国」や「彼岸」のことがらを考えるに際してプラトンやプラトン派の著作を読み参照していたことはほぼ間違いないだろうという。筆者にとっては「バッハとプラトン」というふたつのものの結び付きは意外であったばかりでなく、キリスト教とプラトン・新プラトン主義との長く深いつながりを示すものでもあった。

 以上が筆者が聴くことができた限りでの大会プログラムの内容であるが、この要約からだけでも、今回の大会がいかに充実したものであったかが分かると思う。事実大会終了後、多くの方々から「こんなに面白い学会だとは思わなかった」との感想が筆者のもとに届けられた。そしてその後、 7人の方が新規に会員となってくださった。大会のために献身的な努力を惜しまれなかったキリスト教研究所教学補佐の石垣博美さん、黙々と裏方の仕事をこなしてくれた慶應大学・東京女子大学の大学院生・学部生の方々には心からの感謝を捧げたいと思う。またキリスト教研究所が、このような形で日本のキリスト教研究に貢献できたことを研究所主任として喜びに思う。そして最後に、今回の学会で貴重な報告をしてくださった幾人かの方々 (柴田有、大貫義久、鈴木順氏) が本学の専任・非常勤の先生方であることも誇りに思いたい。

(みずおち けんじ 主任・文学部教授)



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