この夏も庭の畑にキュウリが出来た。何百本収穫したことだろうか。来る日も来る日もキュウリを食べた。ヌカ漬けや塩もみにして、生のまま味噌をつけて。体が青くなるのではないかと心配になった程食べた。しかし妻も私も飽きるということがほとんど無かった。日毎に美味しかったからである。美味の奥行は測り知れない。そういう経験は言葉になり難いし、言葉にすれば「美味しい!」という感嘆の一語で尽きてしまう。だが、神秘的な衝撃の記憶は後に残る。それは私と対象との関わりのなかで生れる経験知である。だから生物学や植物学の教えてくれるたぐいのキュウリとは異なる。客観的な事象に主観を混じえてはならぬ、という態度から生れる実証的知識などではない。けれども私には、食味の経験を通じて知るキュウリの方がずっと確かなキュウリである。自分にとって測り知れない何かが相手の内に秘んでいるということ。そこで相手は「他者」となる。他者として認知することは、あらゆる知識把握の根底ではなかろうか。
(しばた ゆう 所員・国際学部教授)
かつて文部大臣が、学歴社会の現実を、西洋中世末期の教会の腐敗に例え、学歴過信に苦言を呈したことがある。中世の終わりは、教会が栄え、宗教が滅んだ時代であった。教会への寄進を募り、引き換えに免罪符を乱発し、教会は栄えたが腐敗がはびこった。教会が経済的に潤ったが社会的権威を失った結果、民衆の心が教会から離れ宗教が滅びた。そうした中世の教会腐敗が、宗教改革を招いた事例を引き合いに、教会を学校に例え、教育改革の本質を示唆した見事な比喩だった。教育改革で問題にされた諸々な事柄への炯眼を、歴史に学ぶという視点から、比喩を発したのは永井道雄であった。
その永井文部大臣が、賀川との会見記(注「思想の科学」昭和34年3月号p4-7)で“それだけ彼にはひかれるものがある。できるならば若い世代が受けつぎたい貴重な財産が彼の生涯にかくされている”との興味深い指摘は、賀川に学んだ多くの教育者の視点である。教育者永井道雄同様、キリスト教を絡めた歴史的炯眼を、賀川もことあるごとに発した。
〈水と油の賀川研究の現実〉
歴史とキリスト教の二面性が、賀川の言動を理解する解き口だとすれば、その良し悪しや、功罪は別にして、どちらが欠けても理解は難しいのではないか。だからといって、キリスト教、近代史の水と油の如き各論研究を否定するつもりはない。
だが“クリスチャンでないと理解できない”という台詞を吐く人ほど、筆者の経験則からすれば、賀川を伝えることに無責任だった。それは賀川自身の口癖で、その社会的働きすべてに集約される“日本教会の力の弱さ”克服を棚上げし、日本のキリスト教の置かれている諸々の現実を無視した逃げ口上のように聞こえた。
批判的研究への捨て台詞のように、賀川ミッションから投げ掛けられた逃げ口上を思い出す。それは、賀川の意図したキリスト教と、社会の二面性を、本質的に理解しているとは言い難いのではないか。
かつてウプサラ大学講堂で見た“自由に考えることはすばらしい。だが正しく自由に考えることはもっとすばらしい
”(詩人ト−リルド)の碑文は、結果的に正しさへの情報の蓄積をより充実させたが、正しくと刻まれた言葉の意味はそれだけ深く重かった。
以来賀川に対する、伝聞からくる百家争鳴や、ただ批判だけの批判、時代背景を無視した糾弾に不信感を募らせた。さらに明らかに信憑性が問われる論理を、多数の使用頻度で孫引きするに至っては、科学的評価は期待できないのではないか。そうした偏向ゆえの閉塞状況に対する憂慮から、資料のものがたる社会的・時代的背景や、歴史的事実を読み解く方法論を重視せざるを得なくなった。
それは、時代の価値観の変遷にともなう諸々の制約を踏まえ、賀川の生きた時代の価値観で語る、一つの正しさへの転換であった。「われこそが正しい」と踏み絵を踏ますような偏狭さを持つ特定の価値観への固執は、正しさを混乱させる事実を生んで来たのではないか。
そうした事実にもっと目を向け、日本のみならず、海外も包括した視点から理解することで、平和主義者の解き口が生まれる。そうした諸々の視点が持つ、正しさへの模索に、資料発掘を含め、どう対処したかが問われる。
〈賀川をテーマとすることの難しさ〉
キリスト教からの厳しい見方のみならず、近代史研究からも消えかかり、忘れ去られて行く存在になりかかっている現実。そうしたどちらからもよく言われて来なかった現実がものがたるように、賀川を主題とした先行研究は乏しい。その研究発表の場である後掲賀川研究機関とは別に、賀川研究会を企画し立ち上げた。それはキリスト教主体の賀川学会や、賀川記念講座が、賀川を主題とする研究の乏しさもあり、研究への深化がとぎれがちであった事実と無関係ではない。むしろそうした現実を強く意識した企画であった。
従来とは異なる歴史的視点から、行動の人であった賀川の論理に則して、アカデミズムの範疇を越えた学際的(教育・平和・生活学・文学等々)展開で、功罪を浮き彫りにした後に、キリスト教との連携を含め、水と油の現状を凌駕する新しい賀川研究を模索すべきだろう。
(よねざわ わいちろう 客員研究員)
この度、協力研究員としてキリスト教研究所に加えていただきました。よろしくお願い申し上げます。
私は数年前に短大を定年退職した老書生です。現在は非常勤講師として横浜校舎の授業を担当しているものの、研究や学会からは徐徐に縁遠くなりつつありました。そのような私が7月のブラウン館での一泊研究会に参加し、先生方の研究発表に刺激されて、もう一度勉強する意欲を掻き立てられました。
『あんげろす』の原稿依頼をうけて、過日研究所に提出した履歴書の下書きを見ながら、己の過ぎ来し方を振り返りつつ綴った拙文をもって自己紹介に代えさせていただきます。
私は以前読んだ大江健三郎のひとつの文章を思い出しております。「自分(大江)は結局この一人の作家を生涯読み続けることになるのだろう」と、そのような趣旨でした。彼にとってのその作家とはポール・ヴァレリーだったのでしょうか。私も40年ほど前、明治学院大学、ヘボン館の何階かにあった英文学研究科の教室で、大江と似た経験をいたしました。ヴァン・ワイク先生の「アメリカ文学特講」の講義においてでした。先生はF.O.MatthiessenのAmerican
Renaissanceをテキストにアメリカ・ルネッサンス作家たちについて教えて下さいました。そのなかで私は、私にとって「一人の作家」Nathaniel
Hawthorneとの出会いをいたしました。秋学期にはモリソン、マードック、ペリー・ミラーなどニューイングランド・ピューリタニズム研究に私の目を開いて下さいました。先生の話される英語もテキストも十分咀嚼できぬまま、学期末にホーソーンの“Young
Goodman Brown”を取りあげて「人間の心のなかの罪」や「森」の象徴などを強調したペーパーを提出いたしました。このことがその後の私の勉強の方向を定めたように思います。
北陸、金沢にあるキリスト教主義短大に勤務するようになり、ホーソーンの晦渋な文章に苦しみながら、しかしその美しさ、深さに魅せられて、短編をひとつ、またひとつと論文にまとめては『紀要』に載せてもらいました。金沢において、私のもうひとつの勉強のテーマ「ニューイングランド・ピューリタニズムの日本における受容――明治前期アメリカ人宣教師の働き」を調べ始めました。金沢では1879年にプロテスタント最初の宣教師トマス・C・ウィンが伝道を開始し、教会建設、教育福祉事業、さらにアメリカ文化を伝えました。これについて私は後に、高谷道男先生の助けを得て、ウィンの伝道報告を中心としたTHE
LETTERS OF THOMAS CLAY WINNを上梓いたしました。
幸いに短大就職5年目にアメリカに勉強に行く機会が与えられました。マサチューセッツ州ノーザンプトンにある大学が私を客員研究員として受け入れてくれたのです。大学院のアメリカ研究科のゼミに出席するほか、ホーソーン文学の背景を自分の目で見ること、また初期植民地史の資料を集める7ヶ月でした。ニューイングランドの紅葉や厳しい冬の寒さなど、ホーソーン文学の気候や風土もちょっとだけ味わいました。
1991年に藤沢市に新設の短大に移り、大学の草創に関わりました。その短大も定年を迎え、これで念願のホーソーンが自由に(時間的に)読めると、ホーソーン全集を机の上に並べました。
しかしその楽しみは一時おあずけにすることにいたしました。今年のうちに纏めたいテーマと出合ったからです。それは「日本におけるピューリタニズム受容」のひとつとしてのヘボン研究です。今年2007年はヘボンの『和英語林集成』初版出版140年の節目の年に当たるので、これまでに考えたことを書いておきたいと思ったのです。この夏休みはほとんどそのために使いました。秋にキリスト教研究所において発表することになっておりますので、その席においてお目にかかりたいと思っております。
(すずき すすむ 協力研究員・本学非常勤講師)
日本キリスト教教育学会参加をきっかけに、協力研究員に加えていただきました明治学院牧師のキタガワです。教会牧師から学校チャプレンに転身し、教会と学校の役割の違いを考えさせられています。
学院牧師として牧師仲間から期待されていることは、キリスト教学校が学生・生徒にもっとキリスト教を教える(それもキリスト教知識ではなく信仰そのものを教える)ことです。しかし正統信仰を継承する役割は、本来は学校ではなくキリスト教会と教派神学校が担っていたはずです。一般諸学の研究機関としての側面を考えれば、キリスト教学校の使命はむしろ正統信仰を建設的、対話的に批判することとも言えます。
教会が伝道に失敗し、教会だけの力では正統信仰を継承し切れなくなりつつある昨今、役割分担にも混乱が生じているように見えます。
教会の年齢別教勢は、これまで長く坂道を下って来ました。ヘボンの伝統をくむ改革長老教会に限っては、坂道どころではありません。もうこの先には断崖絶壁しかありません。今という時代は、まさに絶壁の突端から足を踏み外した瞬間かもしれません。大学がちょっとでも正統信仰を批判しようものなら、瀕死の教会はたちまち倒れてしまいます。
そのため教会は批判を許さず、ただただ正統信仰を連呼するようになりました。そんな教会から見ると大学は悪魔の巣窟です。「大学を信仰的に厳しく指導監督してやるか、さもなくば異端として破門しなければならない」という発想に陥ります。
いっぽうキリスト教信仰を基盤とする大学には、人間が真理を完全に所有することはないという大前提があります。クリスチャンの側が、まるで真理の唯一の担い手であるかのように権威を振りかざしていては、プライドの高い大学教授連中がクリスチャンを相手にしなくなるのは当然です。
しかし大学が教会と無関係に独りで真理を探求し始めると、判断基準を自己自身の内に置くことになります。それでは大学の批判的研究は、ただ相対主義の中で人間が相互に批判し合うだけになってしまいます。教会と大学との距離が離れれば、大学は飼い主のない羊の状態になり、ますます教会から信用されなくなります。
日本の教会と大学の関係は、今はこのような悪循環に陥っているのかもしれません。そんな中にあって、日本基督教団教務教師である学院牧師として何が出来るのか、悩ましいところです。
生きている神が、自分に対して実際に・具体的に働きかけてくださったことを想起・再確信すれば、信仰は必ず回復します。
しかしこうした信仰は「教育」では伝達できません。超越神の隠れた働きかけを目に見える仕方で表わす、つまり生きた神を証しする必要があります。
「証し」と「教育」はちょっと違いますから、学生・生徒に「信仰を教育すべきだ」という教会の発想には少し無理があるように感じられます。
ついでに言えば、教会の礼拝説教も《教える説教者》と《教わる信徒》という関係が出来上がってしまっていることにも疑問を感じます。牧師、教会、クリスチャンは常に真理を所有している側にいて、その点でそれぞれ一般信徒、世俗世間、未信者に対して優位に立っているという考え方が、そもそも福音の精神に反すると思います。
落ち目の宗教が空威張りしていては、権威を取り戻すためには逆効果です。説教者と礼拝会衆の間に、教職員と学生・生徒の間に、クリスチャンと未信者の間に福音的な関係が作り上げられる時に、神が生きて働いておられることが明らかになるのではないでしょうか。
教会とキリスト教学校も同じです。学校と教会の関係が福音的に作り直される時には、ただ関係が回復するに留まらず、生ける神が新たに証しされるのでしょう。
学院内では、正統信仰が批判される中、独り正統主義擁護の側に立つことが、学院牧師本来の務めだったでしょう。学院牧師が霊的権威の担い手であるのならば、所与の霊的権能を大威張りで行使しなくてはいけないのかもしれません。しかし今は、それ以前の仕事が山積している気がしています。
(きたがわ かずあき 学院牧師・協力研究員)
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