眠る権利 永野茂洋
「子どもは眠る権利がある。子どもは親に夫婦喧嘩を止めてもらう権利がある。子どもは禁酒を要求する権利がある」。賀川豊彦が大正時代に「子どもの権利」として挙げた項目と解説は、いま読んでもじつに新鮮である。賀川はスラムで、冬はすきま風が寒くて、夏は天井が低く暑気がさめないため、眠れない夜を幾晩も過ごした。そのときの経験がここには生きている。子どもは眠る権利がある。しかし、夫婦喧嘩が絶えない家では、子どもはおびえて眠れない。酔っぱらって暴れる家では、子どもは眠れない。彼がもし現在の学生だったならば、これにどんな解説をつけただろうか。子どもは眠る権利がある。しかし、親の収入が絶たれれば、子どもは心配で眠れない。空爆のあるところでは、子どもは眠れない。家族のいないストリートでは、子どもは眠れない…。子どもの人権が守られないところでは、人権そのものが空疎になる。子どもの眠る権利。このような視点から世界の現実と歴史を見る目を鍛えて行くことも、キリスト教主義大学の大きな使命のひとつではあるまいか。
(ながの しげひろ 所員・教養教育センター教授)
ヘボンと出版 宮坂 弥代生
この4月で、明治学院にお世話になって10年目の春を迎えます。最初の3年間は、一般教育部附属研究所の教学事務アシスタントでした。採用された年の4月、初出勤は白金校舎での新任者研修で、学長から聖書をいただいたり、人事課から雇用に関する説明を受けたり、3年間の期限付き職員にもここまでしてくださるなんてありがたいなぁと思いました。研修の最後は記念館1階の小チャペルでの礼拝だったのですが、チャペルに入った私は驚きました。そこに、ヘボン・ブラウン・フルベッキの肖像画が、並んで飾られていたからです。
その数カ月前まで、私は大学院の修士課程で修士論文に取り組んでいました。テーマは現在と同じ、アメリカ長老会が上海に開設した印刷所、美華書館(American
Presbyterian Mission Press)に関することでしたが、その論文の中で私は、日本から美華書館に印刷が依頼された書物――ブラウン『日英会話篇』、ヘボン『和英語林集成』、日本薩摩学生『改正増補和訳英辞書』など――を取り上げ、『改正増補和訳英辞書』が美華書館で印刷されたのは、フルベッキの紹介だといわれている……というようなことを書いたばかりでした。しかしこの3人に「明治学院」という共通項があることは、まったく気に留めていませんでした。お恥ずかしい話ですが、このとき私は初めて明治学院と3人の宣教師の関わりを強く意識し、ヘボンのほかに、ブラウンとフルベッキも明治学院の創設者であることを知ったのです。
修士論文執筆当時の私の関心は、印刷所を運営していた教会や宣教師より、出版活動と技術者の交流を通じて中国から日本へどのように技術が伝えられたのかという点にありました。専門分野を聞かれれば「近代活版印刷史」と答えていました。しかし明治学院で日々、横浜校舎のヘボン像の前を通って研究所へと出勤し、お昼休みには礼拝に参加して“美華書館の宣教師や技術者もきっと、印刷所に隣接した教会で同じように祈りの時をもったに違いない”と思いを馳せるうち、私の専門は「近代活版印刷史」から「ミッション・プレス研究」へと変化していきました。もちろん近代活版印刷史におけるキリスト教と宣教師の関わりは、美華書館を研究テーマに選んだときから考えてきたことですが、キリスト者でなく、ミッションスクールに通ったこともなかった私は、いま思えばキリスト教や宣教師に対して、隔たりというか、どこか遠慮のようなものを感じていました。それが明治学院の一員となったことで自然と、より積極的に、「宣教師の活動としての印刷所」を考えるようになったのです。
最近は、ヘボンと出版について考えています。ヘボンは印刷や出版に大変関心があった人物ではなかったかと思っているのです。例えば、高谷道男編訳『ヘボン書簡集』*を読むと、ヘボンの出版活動への関心と意欲が記されている部分がしばしば目に留まります。
「一度に八ッ折四ページ印刷できる小型印刷機ならびに活字その他の備品を一揃い送付して下さいませんか。わたしの辞書の印刷とは別にこれを有効に使うつもりです。わたしは多少技術的な才能もあるので、すぐ印刷機の使用法を会得するでしょう(後略)」(1862年2月24日)。「もし印刷所のために必要ならば、敷地からへだたった後方に、つくることも容易です。」(同年12月9日)。――「敷地」というのは、当時新しい宣教師館建設を予定していた横浜居留地39番のことです。
しかし結局アメリカから機材は届かず、これらの手紙から10年ほど後に出版された「マルコ」、「ヨハネ」、「マタイ」なども、木版で出版せざるを得ませんでした。中国ではアヘン戦争後、宣教師の入国とともに印刷機材も搬入され、1860年代以降は多くのミッション・プレスも開設されているので、ヘボンには在華宣教師と同様の活動を日本でも行いたいという気持ちがあったのかもしれません。もしそうであったとするならば、『和英語林集成』出版の際、美華書館で印刷に立ち会ったヘボンは、活版印刷機で辞書が刷り上がっていく様子をどのような思いで見守っていたのだろうか、などと考えてしまいます。
その後ヘボンは聖書翻訳に尽力し、「わたしは、聖書の翻訳とキリスト教文書の出版という仕事に没頭したいと思います。」(1872年8月5日)と希望を述べていますが、「自分としてはもっと福音の宣伝と施療事業とをやりたいのです。それで新約聖書が終ったら、聖書翻訳の仕事をやめて、非常に需要のあるキリスト教書籍の翻訳出版をやりたいのです。」(1876年2月11日)とも書いています。聖書翻訳もその成果はいずれ出版されるので出版活動に違いありませんが、1876年の手紙の、聖書翻訳より聖書以外のキリスト教書籍の翻訳出版をしたいというヘボンの言葉が、私にはとても興味深く感じられました。
以上、ヘボンについて詳しい方々の前で、臆面もなく書き連ねてしまいました。ヘボンが手紙に綴った「出版と翻訳」への願いがどれだけかなえられたのか…。まだ私の思いつきの域を出ず、研究としてまとめられるような状態ではありませんが、このような視点でヘボンや出版について考えるようになったのも、明治学院とご縁があったおかげです。皆さまからのご指導・ご教示を仰ぐ次第です。
*文中の引用はすべて、高谷道男編訳『ヘボン書簡集』(岩波書店 1959年)から行いました。
(みやさか やよい 協力研究員・本学非常勤講師)
昭和二年の島崎藤村 村上 文昭
二〇〇七年八月二十二日、小諸市立藤村記念館では、第六十五回藤村忌「花と歌を捧げる集い」が催された。市民ら約二百人が藤村の胸像前に参列し、花を供え歌声をひびかせて作家の足跡を偲んだ。
本稿は当日の講話を要約したものである。
小諸市民にとって象徴的な「千曲川旅情の歌」の碑が、小諸城址の懐古園の一隅に建ったのは、昭和二年七月二十四日であったから、今年はちょうど八十年にあたる。
八十年前の島崎藤村は五十六歳の初老に達している。ここ二、三年は代表作といえる大作こそ発表していないが、『春を待ちつゝ』(大正十四年)のような感想集、『仏蘭西だより』(大正十三年)ほかの紀行文、幼くして母を亡くした子どもたち四人をモデルにした成長と巣立ちを、作家である父の心境を通じて描いた『嵐』(大正十五年)などを書き上げている。
こうした執筆の合間にも、つぎの畢生の作品となる構想を着々とすすめていた。これこそがのちに『夜明け前』となっていくものである。
三月の読売新聞は小諸城址に藤村詩碑が五月に出来上がると伝えたし、五月の朝日新聞も「麦青い六月始め建碑式」を行うと報じた。
そもそも城址の懐古園から千曲川を見下ろすところに藤村の詩碑を建てようという声はかなり以前からあって、鷹野つぎの夫の鷹野弥三郎が発案者の一人ときく。
主な名前をあげるだけにとどめるが、正宗得三郎、有島生馬、高村豊周、小山周次らが奔走や協力を行った。寄付に応じた人は小諸町民を中心に六二三名にものぼった。
詩碑は高さが二・六メートル、横幅が三・三メートルという大きなもので、懐古園からはほど近い千曲川五里淵から六十人がかりで運び上げたという。碑面は高村豊周が藤村の筆跡を鋳造したパネルをはめこんだものである。
実際の除幕式は五月でも六月でもなくて、七月二十四日を迎えるまで遅れた。
ここでひとまず藤村の七月の動向に触れてみよう。この月は小諸の詩碑建立のほか、作家にとって意義ある二つのことが重なった。
まず岩波文庫の創刊がある。創刊にさいしての「読書子に寄す」はつぎのように書き出されている。いまも岩波文庫に入っているので広く親炙(しんしゃ)された名文だ。
眞理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。
実に高尚で格調ある文章は、万人の心を快く刺激しないではおかないだろう。
長野県人の岩波茂雄の出版理念を体現した廉価でハンディな文庫の創刊は、七月十日のことである。創刊の二十三点のラインアップの中には、漱石の『心』のほかに藤村自選『藤村詩抄』と島崎藤村編『北村透谷集』の二点が収まった。(その十月になって『千曲川のスケッチ』も加わった)。
文庫のため藤村は旧詩に目を通し、詩句を改め取捨選択しながら読み直したし、序として長い透谷論を書き加えた。これらの文章のためにも数ヶ月は費やしたことであろう。
本年は岩波文庫の創刊から八十年にあたっている。
一方で藤村は大阪朝日新聞から山陰への旅行と紀行文を依頼されていた。この旅には二男の鶏二を連れていくことにした。彼はまだ二十歳だが、洋画家を目指している。訪れる先々の息子のスケッチを、自分の紀行文に使えればと父は考えてのことだったろう。
七月八日の城ア温泉を皮切りに作家の父と画家の卵の息子は鳥取、松江、出雲大社、益田、津和野まで西下していった。
七月の盛夏の中を、全通してまもない山陰本線を利用した。途中下車するごとに地元の名士らが、名高い作家の父と子を出迎えてくれた。そして時間刻みに名所を案内してくれる。訪れる先では用意の色紙に揮亳を求められた。
宿に入れば暑さと疲れで、すぐ休みたいが、誰彼かが宿を訪ねてきた。
あまり健康とはいえない近年の藤村だが、この旅では胃腸をこわしてしまう。予定の日程を変えたりしたが松江では五日も滞在してしまったほど。
益田と津和野までの旅程は五五〇キロの長さ、今日の新幹線なら東京―新大阪間に相当するが、この長い距離を七月十九日まで十二日間をかけて進んだ。さぞかし苦しい旅だったことだろう。
帰宅したのは七月二十日か二十一日だろうか、疲労困憊の極みに達していたかとおもわれる。これが原因で風邪をこじらせ、さらにインフルエンザにかかった模様である(父に同行した鶏二が馬籠にいる長兄に手紙で知らせている)。
連載開始は帰京して一週間もない七月三十日からになった。作家魂というのか藤村の意志の強さによって三十七回も連載をつづけた。紀行文は「山陰土産」と題され、ときどき鶏二のスケッチが父の文章を飾った。
小諸の詩碑の除幕式にもどれば、山陰から帰京して三日後になるが、本人は出席せず、代わりに長男の楠雄と三男の翁助が参列した。
詩人の福田正夫が読売新聞に寄せた文章を引用すると―。
式をはじめた時分には、詩情の深い雨がしとしとと青葉にふりそゝいでゐた。有島氏の挨拶の後、楠雄さんの除幕で青銅の印刻詩碑面が鮮かに藤村先生自筆の「千曲川旅情のうた」小諸なる古城のほとりを浮かび上がらせて、拍手が千曲川の水音(みなおと)とやはらかく共鳴する。
列席者の多くは当の詩人がいないことを淋しくおもったことだろう。どれだけの人が藤村は紀行文の執筆に追われてとか体調がおもわしくなくてと思っていただろうか。詩人は鶏二と山陰に出かける前から不参を決めていたようである。
五月二十二日の東京朝日に「消息(私の詩碑について)」という随筆が載った。そこから抜書きしてみよう。
あれは土地の風物に因んだ詩の碑であるし、建てられるといふ場所も自分の郷里の方ではなくて、小諸である。ありのまゝに言へば、私は自分に過ぎた記念碑なぞを建てられても、そんなにうれしいとも思はない。(中略)
あゝいふ風にこれから先も長く残るものを個人としての私の記念碑のやうに思はれては、心苦しい。さういふ意味のものなら止して呉れたまへ、私は堅く辞退すると言って、最初からそのことを発起人諸君に断って置いた。
そもそもからして素直でない。彼一流の持って回った言い方だ。自分の詩碑に違いないのだから、ありがとうと言えばよいものを。小諸の町民の好意に水をささないともかぎらないのに。
最近になって読んだ加藤千代三の『流離の人――回想の島崎藤村』によると、別の理由をあげたという。この加藤という人は、藤村の推挽(すいばん)で岩波書店に入ると、折からの文庫の『藤村詩抄』などの編集を担当した。作家と編集者の関係で、加藤は書斎に上ったときの雜談を回想している。小諸の詩碑のところ。
「小諸にできた詩碑の写真を送ってきた。なかなかどうして立派なものだ」
かなり大きな写真であった。・・・・さも嬉しそうであった。これまでみたこともない明るい微笑がそこにあった。(中略)「除幕式のようなこともさかんにやったらしい。・・・・詩碑もよく撮れている」(中略)
「ところで除幕の式になぜ出席にならなかったのですか」
その途端、眼鏡の奥できらりと眼が光った。
「いく必要はないさ。なぜわたしが出かけなければならないのだ」
・・・・・・・・・・
「小諸の人たちが建てたものだ。まあそのうちに苔でも生える頃がきたら、見せて貰いにでかけるさ」
このあと不参の理由の一つに除幕の日に藤村庵という茶店を開いて藤村だんごを売り出すことをあげたという。
こんなに劇した口調の藤村が描かれていようとは。筆者の加藤は上手に作家の心情を書きとめている。きっと気易い編集者だったから、駄々っ子のように話したのかもしれない。小諸のみなさんには申訳ないようなことばである。
加藤千代三は藤村が小諸でくらした七年間の苦いあれこれをおもうと、二律背反する矛盾で揺れていたことであろうと、その理由の数かずをあげて忖度(そんたく)している。
「まあそのうちに苔でも生える頃がきたら、見せて貰いに出かけるさ」といっていたのに、翌年には加藤静子と再婚し、さらに翌年の昭和四年六月はじめには、夫人と同伴で自分の詩碑と対面したのであった。
いまから八十年前の昭和二年の藤村は千曲川の自作詩碑の除幕式に不参加でも、創刊の岩波文庫の『藤村詩抄』と『千曲川のスケッチ』がいまも同文庫で絶版になることなく読めるというのは、八十年後の記念になっている。きっと小諸の市民に対する満腔(まんこう)の謝意であるかもしれないとおもっていただけまいか。
また同年の『山陰土産』の旅からは、その後の藤村の自然観や日本観に対して大きな影響を与える収穫をあげて、『夜明け前』や『巡礼』といった作品に昇華していったことがわかる。
このように、昭和二年の島崎藤村は、この七月を中心に実りある一年を送ったといえよう。
(むらかみ ふみあき 協力研究員)
<41〜50>