熟成   植木 献


 最近保存食品や発酵食品作りに凝っている。そもそもはワンドアの小さな冷蔵庫しか持っていなかったため、食料を腐らせないで長く楽しむための苦肉の策だったのだが、20年近い習慣になるといつの間にかバリエーションが増えてくる。
 イワシがたくさんあれば、干物にしたり、酢漬け、味噌漬け、ぬか漬けをひととおり作って置いておく。塩漬けにしたものを放置しておけばアンチョビになるし、しみ出てきた汁はナンプラーのようなものになる。
 肉類も初めはビーフジャーキー、ベーコンくらいだったが、加工肉は発色剤や保存料が多く、自分で作った方が健康的でうまくて安いに違いないと思って、レバー、タン、また鴨肉などもスモークにしてみた。ハム、ソーセージもひととおり試して、生ハムやバンチェッタなど買うと割高なものを中心に作るようになった。どんなに忙しくとも、もう習慣なので週に一度ベーコンを作るのは苦にならない。
 この夏には、チーズ作りをマスターしようと思い、すぐできるモツァレラを作ってみたが思いの外難しく、まだ期待していた味にならない。ハードタイプのチーズになるともっと手強そうだ。
 こうした保存食品、発酵食品作りに共通する大切なことは、待つということである。朝取りのアスパラや、もぎたてのトウモロコシなどは、すぐに食べた方がおいしい。しかしヒラメなどの魚はシメてすぐだと身がコリコリ固いだけで味がしない。死後硬直から時間を経て筋肉内のATPがイノシン酸などに分解されてはじめてうまみが出てくるのである。保存食品の類も同様に待つことがうまみを引き出す。
 モツァレラやベーコンのようなものでも作ってから熟成のため2日はかかる。ハードタイプのチーズや生ハムとなれば、半年から1年単位の時間が必要となる。途中でどうしても気になっていろいろいじりたくなるのだが、そこはぐっとこらえなければならない。この時間を待てなければ、ささやかな幸せを味わうことはできないのだ。
 拙速に結果を出すことが求められる今の社会においては、待つことは贅沢である。熟成などという言葉は、何もしないことの言い訳にすら聞こえる。あれこれ手を加えて短時間で熟成と似たような結果が出るのであれば、そちらの方が生産性があると見られるからだ。しかし「似たような結果」はあくまでも似たようなものであって、ちゃんと熟成を経た本物だけが持つ味わい深さや芳醇さと比較するとその差は歴然とある。もっとも「似たようなもの」に慣れてしまうと、本物は刺激が足りなく思えることもあるが。
 取って付けたような結論で恐縮だが、教育・研究においても、また信仰においても同じ事が言えないだろうか。私たちができるのは「仕込み」までであり、「熟成」は時間に、そして神にゆだねるしかないのだ。待つことの苦手な私にはそれは訓練のときでもある。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植えるものでも水を注ぐものでもなく、成長させてくださる神です。」(コリント一3:6-7)改めてこの言葉の重みを実感させられている。

(うえき けん 所員・教養教育センター専任講師)









切れる ― 何が?   成瀬 武史


 若者が「切れやすく」なりだしたころ、断ち切るのは気にくわない誰かと自分の繋がりだろうと思っていた。ところが最近「世間をあっと言わせて自殺するつもりだった」などと奇怪な告白を聞くようになり、彼ら同様、私も相手を取り違えていたようだ。似たような軽挙妄動を「自制心に欠ける」と呼んでいた時代には霞んでいたものが見えるような気がしてきた。彼らが断ち切りたいのは自分を繋ぎ止めている心のハーネス、それが繋ぎ止めているのは他ならぬ彼ら自身の理性では? 「切れる」とは「もう考えないことにする」ことではないのか? 
 私たちは自分の心を繋ぎ止めているハーネスを握って対人関係を生きている。そのハーネスを、逆風に抗しきれなくなると、ふと手放して自分を投げ出したくなる。ハーネスが切れやすくなるのは、材質が劣化するからか、それをつかむ握力が衰えるからか? 血なまぐさい惨劇の主役自身の台本と彼らを知る人々の証言から見えてくる答は、 カンニングをし合った試験の答案のように似通っている。ハーネスと握力の弱体化は、人間の心の本質が求める所属と是認の欲求が思い通りに満たされないことから、誰かとの心の絆が擦り切れる結果に違いない。
 だれでも特定の個人や集団との繋がりが鬱陶しく思えてくることはある。欲求不満からむさ苦しい穴蔵の底で一種の自己暗示にかかり、焼き豚を食べるには豚小屋ごと丸焼きにするしかないと誇大妄想に駆られることもあろう。そんな憂さ晴らしの唆しに乗って自分の心を繋ぎ止めているハーネスを握る力が弛めば、どうせ明日も今日のくり返しだ、 自分を評価してくれる人間も場所もチャンスもあるもんかと捨て鉢になる。視野狭窄から幻想が躍りだす瞬間である。私も20年近く前、冠状動脈の狭窄に見舞われたとき、脂汗のにじむ痛みと脱力感と空気の希薄さに居ても立ってもおれない心もとなさに襲われたあげく、手術後のベッドの上で執拗な幻覚に悩まされた。大いにうろたえた経験をふり返って、英語でlose one's grip on reality (現実を把握できなくなる)とか、 lose one's pres- ence of mind (落ち着きがなくなる)とは巧く言ったものだと感心した。幻想や幻覚には(一時的とはいえ)現実を圧倒する力がある。
 人情が薄れて人間関係がきしみがちな現実をどう受け入れるか? 社会心理学、臨床心理学、精神分析学のプロはどんな処方箋を用意しているのだろう? 素人の私には、自分の現状を見つめる目をちょっと先へ ─ 現状の彼方へ向けることに一切が懸かっているように思える。一歩先には、自分を生かせる場か人がどこかに隠れているかも知れない。隠れているかも知れないものを期待する心が、何かを求める、どこかを探す、これはと思う門を叩く気にもさせるだろう。そのような可能性に賭ける心を若いうちに鍛えるのも、いつの時代にも教育に負わされる重要な役目ではないだろうか?
 暗澹とした思いの向こう側にも明日はある。その明日の可能性を期待する心を繋ぎ止めるハーネスが、もし覚束ないなら、自分の外に目を向けるしかない。ひ弱な心のハーネスを繋ぎ止める盤石の岩について福音書は語る。ひと思いに切れたくなる(考えるのを止めたくなる)心を繋ぎ止めておけないのは、いまだ自分で掴んだこれといったわざが身についていないからでもあろう。「自分で身につけた技術は逃げない」とある板金工がNHKの「プロフェッショナル」という番組で語るのを聞いたことがある。動かない岩と逃げない技。それらを拠り所として人生を歩みつづけるとき、たまに堪忍袋が縮みかけても、心のハーネスを断ち切って自分の明日を投げ出すようなことはしないだろう。

(なるせ たけし 名誉所員・名誉教授)










工藤久美子『どろがめ』   中山 弘正


 三井炭坑のあたり、大牟田が舞台である。大正のはじめ頃、子分を沢山連れて「泥亀」と呼ばれていた、文字も読めなかった「親分」の男(本名大森亀松)が、「大親分」である「主なる神」と出会い素朴実直な基督者となる物語りである。
 3部から成り、第1部は「道」、第2部は「和解」、第3部は「岩に建つ」とされる。泥亀の息子が勇吉、彼は魚屋。不幸な身の上から、この勇吉に助けを求めてその嫁となったウタ。子分たちを連れて、けんかに明け暮れる泥亀は、「すべて労する者、重荷を負う者、我に来たれ。我、汝らを休ません」との御言葉の看板を見て、入り、やがて大牟田基督教会のメンバーとなったウタ、そしてしばらくして彼女に続いた勇吉らにはじめ激怒するが、やがて「天地宇宙を造られた大親分」また「大親分の1人っ子(イエス様)」に導かれ、大正4年(1915年)に受洗する。亀松と勇吉は「魚勝」という魚屋を営んでいく。・・・・・・
 第3部は、日本軍国主義がとくにひどくなった太平洋戦争の突入の頃から、長老達が「神の代理者であられる天皇陛下のご命令に従う」、「殉国すなわち殉教」等と声高にいい出し、礼拝の前の宮城遥拝をするという話から始まる。どろがめ(亀松)が声をあげて笑い出す。しんからおかしそうに。
 「玉田長老さん、どげんしたとか。頭がおかしゅうなったか?」「なんやて!」「そうやろうが。目や口がついとる神は神やなか。聖書の御神様は、存在と知恵、力、聖、義、善、真実において無限、永遠、不変の霊であられるとばい。目には見えん!」(247頁)「天皇が神やて言うとはまったくもって間違うておる。天皇は神やなか、人間たい。」
 「だけん、わしらは神様だけを恐れておればよかったい。こん地上の何者も恐れんでよか。」(248頁)
 泥亀は直立不動で、第1戒、第2戒を暗唱してから言う。「たとえ尊敬いたす天皇陛下であれ、御神様以外にはなにものをも神としてはいかん。拝んではいかん。これが基督者の掟たい。」(249頁)
 長老たちの会議は、この亀松の意見を否決し、あとで心配して来た牧師も小声で「東京では要職の基督者達がこぞって英霊を祭った靖国神社の前で、なんと礼拝を行なったというんです。これが今のご時世、現実なんです。・・・」(251頁)
 「天皇陛下の写真はご真影として礼拝対象になり、『現人神』天皇に忠誠を尽くすよう教えられた教育勅語が、白い手袋をつけた教師達によってうやうやしく読み上げられていった。」(255頁)
 やがて、特高が「署まで来てもらおうかい。」と「泥亀」のところにやってくる・・・・・・。
 『どろがめ』は戦後に88歳で、召されたという。この本は物語りではあるが、本書のウタに当る方のお証しが基礎にある。最近の明治学院の方々にも読まれた方がいい本であろう。〔燦葉出版社、2006年10月刊〕

(なかやま ひろまさ 名誉所員・名誉教授)










キリスト教に基づく人格教育とは   小暮 修也


 このごろ「キリスト教に基づく人格教育とは何か」について思いをめぐらしている。その一つは創世記1章27節による「個人の尊厳」を指し示すことであり、もう一つはローマの信徒への手紙12章15節による「他者と共に生きる」ことを実践することではないかと考えている。
 現代はヒト、モノ、カネ、情報が地球をかけめぐるグローバリゼーションの下で、南北問題はより一層深刻となり、国内でも格差問題が大きくなっている。世界も日本も倫理なきむき出しの競争主義と功利主義に走り、人びとの心が荒廃してきている。以前は、誰が見ていようがいまいが「これはおれが作った建物だ」と誇りをもって語った人がいた。「私が作った食べ物は日本一だ」と矜持ある人がいた。今はもう建物も、肉や米やお菓子も安心できない”偽”の時代となってしまった。大人が模範を示せない時代に子どもたちが育つだろうか。子どもが親を殺し、親が子どもを殺す現代日本の闇に私たちは無関心でよいのだろうか。「個人の尊厳」と「他者と共に生きる」ことが欠けている現代こそ、キリスト教主義学校の出番がある。
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 ところで、今年の夏もまた、高校生52名と共に韓国研修旅行に出かけた。今年は特に竹島(独島)問題が再燃し、韓国の学校との交流会が危ぶまれた。竹島(独島)問題は日本にとっては領土問題にすぎないが、韓国にとっては1910年に全土が日本に併合される一里塚としての竹島編入(1905年)という歴史問題となっている。韓国政府から交流している京花(キョンガ)女子高校に日本の学校との交流を中止するよう要請が出たが、京花女子高校の校長先生たちは「明治学院は戦争責任告白を出している日本で唯一の学校であり、韓国人の心を最も理解している学校である」と政府を説得し、交流が実現できた。
 若い韓国と日本の高校生が楽しく語り合い、ゲームをし、歌を歌っている姿は私たちが理想とした光景である。1963年に、キング牧師は『I have a dream.』というスピーチを行い、その中で「私たちのかわいい男の子や女の子が、白人のかわいい男の子や女の子と、兄弟のように手を取り合うことができるようになる夢が、私には、今日、夢があります」と述べた。このように韓国の若い人と日本の若い人が兄弟のように信頼し合う関係になることが、私たちの夢でもある。しかし、そのためには日本の犯した罪の歴史に向き合わなければならない。
 いつも高校生にこう語っている。「過去を隠したり、変えたりしてはならない。けれども、未来は君たちの手によって変えられる」と。過去の歴史を知らずに未来は語れない。歴史を学ばずに交流すると根の浅いものになるからである。なぜなら、京花女子高校の生徒たちは交代で、ナヌムの家(元従軍「慰安婦」が共同で住む家)の掃除や奉仕に出かけていて歴史問題をよく知っているからである。韓国の高校生代表もスピーチで「過去を隠したり、変えたりしてはならない。しかし、未来は私たちの手によって変えられる」と語っていた。帰ってからも高校生同士の交流はさまざまな形で続いている。これからも子どもたちの出会いを大切にする学校でありたい。

(こぐれ しゅうや 協力研究員・明治学院高校副校長)










明治学院雑記   播本秀史


1.150年史編集委員会
 明治学院は2013年に創立150周年を迎えます。120周年記念を祝ったのは1997年でした。それは東京一致神学校を起点としたものでした。150周年はヘボン塾の創立1863年を起点とするものです。神学校を起点とした学校史と英学塾を起点としたそれでは記述も変化するかもしれません。どのような学校史になるか、どうぞご期待ください。
 編集委員会にはキリスト教研究所の所員、研究員が委員として加わっています。編集委員長は社会学部の遠藤興一教授、副委員長は私です。当初、経済学部の大西晴樹教授が副委員長でしたが、学長になられたので交代になりました。大西学長は顧問として参加されます。久世 了学院長も顧問でいらっしゃいます。久世学院長は前回の『明治学院百年史』において「学徒出陣と明治学院」を担当され、会津若松出身の学徒兵「長谷川信」を取り上げておられます。学校史として異彩を放つものでした。教養教育センターの渡辺祐子准教授も委員に名を連ねられています。以上が所員(名誉所員)です。客員研究員の村上文昭先生(前関東学院大学教授)、協力研究員の中島耕ニ先生(本学非常勤講師)、丸山義王氏、辻 直人氏(北陸学院大学)も入っておられ、毎回、活発な議論を重ねています。研究所の提供科目である「近代日本と明治学院1」(通称「明治学院学」)の講師の一人である原 豊氏も編集委員でありかつ実質事務局長として活躍されています。

2.「近代日本と明治学院1」
 1858年、日米修好通商条約が締結されました。その「第8条」によってプロテスタント宣教師6名が日本にやってきました。第8条は居留地内でのアメリカ人の信教の自由を保障する内容でした。それを受けてアメリカ人の信教を支援するために、またキリスト教を日本人に伝道するために長崎と神奈川(横浜)にやってきたのです。改革派のブラウン、フルベッキ、シモンズ、長老派のヘボン、聖公会のウイリアムズ、リギンズの6名です。そのうちリギンズはまもなく帰国し、シモンズも宣教師をやめるので、残るは4名です。ヘボンはクララ夫人とならんでヘボン塾の創立者でバラ学校、築地大学校、東京一致英和学校へと連なります。S.R.ブラウンは1873年ブラウン塾を創設し東京一致神学校へと流れます。大きくいえばこの二つの学校が合流して明治学院となります。フルベッキは明治学院で教鞭をとりますが明治政府にも多大の影響を与えた人です。この3名が明学関係者となります。残る1名のC.M.ウイリアムズは長崎に上陸し、大隈重信らを教えます。後、築地にパウロ塾を創設します。現在の立教学院の前身です。
 明治学院は日本を代表するプロテスタント大学であり学院です。キリスト教はキリシタン禁制の江戸時代はもちろん、明治になっても天皇制国家から幾多の困難を強いられました。「文部省訓令12号」などもその一例ですね。しかし、今日までキリスト教およびキリスト教学校は続いて、日本の歴史にも重要な役割をはたしています。かつて太宰治は「聖書一巻によりて、日本の文学史は、かつてなき程の鮮明さをもて、はつきりと二分されている」(「HUMAN LOST」『新潮』391)と述べましたが、文学以外の分野でもそうである可能性は高いのではないでしょうか。「近代日本と明治学院1」の講義などを通して解明しませんか。近代日本に及ぼした明治学院やキリスト教の意味を共に考えてまいりましょう。

(はりもと ひでし 所員・文学部教授)





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