心を尽し、精神を尽して主なる神を愛することが聖書には記され、信ずる者に求められる。それは信仰の内実に関わる事柄として、基本的な在り方を指し示したもの。さて、私はこれまで「キリスト教」と「社会福祉」の関係を問う作業を行なって、この「心を尽し」て進む道に対し、社会福祉は対象者の多様なニーズに「合わせ」、「寄り添う」道であると理解している。前者は主体の態度規範、後者は行為規範と区別してみるなら、一応の整理は可能である。だが、ここにひとつ問題がある。つまり、実際に心を尽す態度を貫くことが、相対的に多様なニーズに応え得ることになるか、どうか。多様なニーズに応えることを軸にして考えると、心を尽す態度規範は相対化されることが起る。多少まぎらわしい言い方だが、信仰は相対化されず、態度、そして行為規範は徹底して相対化することが必要だという問題である。つまり「信仰」は相対化しなくとも、「行ない」はどこまでも相対化、多様化する必要が生ずる。聖書は主に仕えるように、他者に仕えることを勧める。他者に仕えることは、自らを相対化することによってはじめて可能となるのだが。
(えんどう こういち 所員・社会学部教授)
不思議な縁 橋本 茂
定年を迎え、人生を振り返るとき、人と人との関係に不思議な縁を感じることが多い。

この写真は私の両親と兄弟三人が写った最初にして最後の写真である。父の隣に座っている可愛い坊やが私である。撮影は昭和19年(1944年)6月11日である。その翌日、父は多くの町民に送られて沖縄に出兵し、一年後の昭和20年6月戦死し、帰らぬ人となった。そのとき母は26歳であった。
翌年、昭和21年12月21日明け方、我が家は南海大地震により倒壊し、祖母と兄と従姉妹は家の下敷きとなり、兄と従姉妹は幸いにも助かったが、祖母は圧死した。母は私と弟を両脇に抱え、倒壊直前に雨戸を蹴破って脱出した。私たちはすべてを失って、町の建てた畳もない板敷きのバッラクで生活することになった。

昭和23年、私は叔母のところに養子として出た。そして、三和小学校、土佐中学校、土佐高等学校、明治学院大学、東北大(大学院)と卒業して、そして、昭和43年明治学院大学の社会学部に勤務することになった。私は大学、大学院で、当時世界の注目を集めていたハーバード大学のG. C. ホーマンズの小集団論や交換理論を研究し、その成果を大学で講義した。
昭和47年(1972年)、ある日突然、『手記 沖縄で散華した戦友』というガリ版刷りの小冊子が、高知県の田舎の見知らぬ人から送られてきた。それは父と戦場を共にし、父の戦死を見届けた戦友からであった。「万一生き残って帰れたら、帰った者が家に伝える」という約束の実行であった。養子に出ていた私をやっと探し当てての約束の実行であった。その手記には、私の父との沖縄での楽しかった交遊のひと時と戦場での悲しい別れが綴られていた。
「もうその頃は沖縄野戦では戦う兵隊には暦のなければ時計もありません。何月何日もないし、ただ昼と夜があるだけでした。ある夜、『ひばり山』の攻撃に行く途中、その方向に進んでいる時、敵の迫撃砲弾が近所に落下しました。折悪しくそのところは固いコンクリートの上で、畑や山に落ちた時と違って破片の散乱がひどく7人の戦死者を出しました。私も左大腿部と右腕に傷を受けました。私が気付いた時には山中君(注:私の父)と他の戦死者が側の草むらに葬られておりました。……物量を誇る米軍は撃ちまくり、赤土の禿山になった沖縄本島では、激戦地であった山中君のお墓へも米軍の爆弾が雨あられのように落ちたことでしょう」。これが、私の父が戦死した状況であった。
昭和47年(1972年)、私はこの手記の写しを厚生省に送り、国の責任で父の遺骨を捜し、家族のもとに返すように手紙を出した。しかし、結局は、私自身が戦没者遺骨収集団のメンバーとなって、昭和48年(1973年)2月上旬の2週間、沖縄での遺骨収集に携わることになった。約300体の遺骨を集め、沖縄の中央納骨堂に納めた。

私はこの頃、ホーマンズの著作 Social Behavior, 1951 (初版)の翻訳を行っていた。沖縄での遺骨収集の暇な時に推敲するつもりで、訳稿を持参していた。結局、そんな余裕はなかった。遺骨の作業を終えて帰宅した後、翻訳のことなどの問い合わせでホーマンズに手紙を出した時に、この沖縄での体験を書き添えた。すぐに、彼から返事が来た。彼は私の手紙に驚いたようであった。その手紙には、私の父が戦死した、その沖縄の戦場に彼がいたこと、8月15日、沖縄湾の戦艦で勝利を祝ったこと、その祝宴の真っ最中に、最後の特攻隊の来襲があり、船上は大混乱になったこと、また、九州南部への上陸部隊の隊長として戦死を覚悟していたことなどが書かれていた。
昭和53年(1978)、Social Behavior 1974 (改訂版)の訳本『社会行動』(誠信書房)が出版された。これが縁となり、私は昭和55年(1980年)、ホーマンズ先生の下で客員研究員として社会学の研究をすることになった。
留学から帰って数年後、私は、留学のために英国に行く息子家族を見送るために北海道から出てこられた一人の紳士と成田空港近くのホテルで会った。その方は沖縄戦で、ほとんどの戦友が亡くなっていく中で九死に一生を得て生還された方であった。私はその方から「戦争の醜さの極致」と言われる沖縄戦での生々しい体験を聞かせてもらった。その方とは、実は、現明治学院大学学長
大西晴樹先生のご尊父であった。
(
今、私にとって一番うれしいことは、父がホーマンズと銃を構えた摩文仁の丘に『平和の礎』が建てられ、そこに沖縄戦でなくなったすべての人の名前が刻まれていることである。私の父「山中栄」の名も刻まれている。戦死者をワン・オブ・ゼムとしてではなく、一人一人の名前を挙げ、等しく慰霊する『平和の礎』は、大きな戦火で苦しみを受けた沖縄県民からの私たちへの大きな贈物だと思い、感謝している。

(はしもと しげる キリスト教研究所所長・社会学部教授)
日韓キリスト教に関する比較断想 徐 正敏
延世大学校の海外研究年(安息年)という良い機会に、東京の明治学院大学で教え、研究し、そのほかのさまざまな大学と関係する学会などで特別講義や学術発表の経験をしている。17,8年前に京都の同志社大学での留学を終えて以来、初めて長期間にわたって日本に滞在し、同じ分野を研究する学者たちに会い、特に日本のクリスチャンと交わることができる機会となっている。日本は「クリスチャンマイノリティ」の国で、韓国ではありふれた教会の十字架を探すことは相変わらず天の星をつかむような夢のまた夢に違いない。そして日本のクリスチャンの学者はいつもこのように挨拶する。「韓国の神学者、キリスト教歴史の学者が本当にうらやましい」。韓国社会ではキリスト教の影響が大きく、比較的研究条件がよく、宗教の主流をなす神学者としての役割や可能性が大きいことを指して言っていることは二言する必要はない。しかし最近ではこれに続く質問がある。「韓国のキリスト教人口がずっと増え、社会的影響力もますます広がるようですか?」、「韓国のこの度の政権が『キリスト教政権』だと言いますが、韓国キリスト教に有利な点が多いですか?」、「ところで他の宗教、特に仏教との仲たがいがあるようですね?」、「カトリックとプロテスタント間に社会的な信頼度が違うようですが、なぜそうなのですか?」。
このような質問に対して、他の人よりもさらに正確に、専門的な返事をすることが出来る地位にあらねばならない筆者は当惑して返事をはぐらかす。そして逆に日本のキリスト教の学者たち、クリスチャンたちの生と価値観のおおよそを注意深く探るのである。日本はやはり社会的に、歴史的にいろいろと解かなければならない宿題をもっている国であることも明らかである。一定の部分でよく見れば、隣国との歴史的関係を成熟するように処理できない誤りをくり返している面があり、政治社会的に機会さえあれば国粋的独善主義が跋扈する素地を持っているのは事実である。現代文明と限りない伝統的価値観が共存していて、価値観の混乱と葛藤の中で、個人の疎外と絶望が極端な社会問題として現われている現象も一度や二度ではない。イデオロギーにしても保守的な右翼が厳然として多数であり、政治的偏向性は過去への回帰の兆しによって進路が修正されたり、特に韓日問題においては画期的な変化や前向きな兆しが見えない。
ところで、筆者を初めとして韓国キリスト教歴史研究者は過去の歴史から、韓日間の問題で日本のキリスト教徒たちがどんな考えと進路を示すのかに関心を持ってきた。そして期待と失望をいつも経験した。ただ解放後のある時期以後、日本キリスト教の歴史的反省の過程以来、それでも日本の社会で最も大きな変化を見せたグループとしての日本キリスト教徒たちを見守ったし、まさに彼らが日韓関係の歴史問題を克服して解決していくのに最も大きな協力と連帯の同志となったのはまた事実である。しかし彼らは相変わらず日本の社会では少数者であり、「別種」に違いない。過去の日本キリスト教徒が韓国問題にあって先頭にたって帝国主義的発想を掲げて主張したときも、日本の社会で彼らは「非国民」の扱いを受ける少数者であった。そのときの少数者たちはおおむねその「非国民」というくびきをはずすための苦悶から、ことさら率先して「大日本帝国」を叫び、天皇制イデオロギーやファシズム、軍国主義に協力したかもしれない。しかしこのごろの日本の多くのクリスチャンには「非国民」という批判に対するそれほどのこだわりや気遣いが見えない。近くにいる同僚のキリスト教歴史の研究家はこのように言った。「日本でクリスチャンとして決断して生きていくには、日本社会の中で特別な思いと行動を決行するという大変な決心をおおよそ意味する」、「しかしまことに感謝するのは、今日の日本の社会で少数のクリスチャンは個人の人格的な側面、共同体の倫理的な側面の評価はもちろん、相対的に他のグループに比べて利他的集団としての信頼はある程度もっている」、「日本人は自分がクリスチャンになることが出来るかどうかについては疑問を持つが、クリスチャンに対する存亡と期待を比較的多く持っている」、「日本のクリスチャンの指導者は自分たちはたとえ少数に過ぎないけれども、結局はあきらめることが出来ないと考えるのは、日本社会の中での「預言的役割」ではないかと思う。
筆者は同僚の学者の言葉をそのまま韓国の多数のクリスチャンの生活と信仰に対比させてみて、韓国社会のクリスチャンの認識水準に比べてみた。確かにこれからあるきっかけによって画期的な転換があることを信じるが、今の時点ではむしろ日本の少数のクリスチャンの共同体がうらやましいのは事実である。すなわち、現在では歴史の現実の中で「少数の希望、多数の絶望」を見つけたからである。キリスト教はやはり少数だと言っても、精鋭の少数として歴史的預言者の役割のためにその真価が発揮されてきたのではないかという。故にキリスト教の歴史家というのは、歴史の記録を通してキリスト教の量的成長と宣教の成果を提示することも重要であるが、質的な成熟を促し、「反預言的」キリスト教に対する絶え間ない反省を要請することも重要な課題として置かなければならない使命が重要であることは明らかである。
(そ じょんみん 協力研究員・延世大教授・本学招聘教授)
名所長のお働きと隣国の学究に感謝して 大西 晴樹
橋本茂先生は2009年3月をもってめでたく定年退職を迎えられます。大学紛争期に結成され、学生の立場にたって行動された明治学院大学若手教員懇談会、いわゆる「ワカコン」最後の現役教員である先生が学院を去られることに一時代の終焉を感ぜざるを得ません。
橋本先生は長い間キリスト教研究所の所長をお勤めになられました。キリスト研究所に対する橋本先生の貢献は2つあります。一つは、協力研究員制度の導入です。キリスト教研究所は、1980年代の前半に、所員資格をキリスト教学担当者以外の教員にもオープンにしました。それにより大学付属研究所として活力を得るようになったのです。橋本所長はさらに協力研究員制度を設け、学外者にまで研究活動のパートナーを求めました。専任教員は所属学部での本務があり、ややもすればキリスト教研究所での活動を等閑にしがちです。共同研究者として学外者を迎え入れることによって、キリスト教研究所の活動に新鮮な知的刺激が加えられ、研究所のパワーアップにつながりました。もう一つの貢献は、キリスト教研究所提供講義科目「明治学院研究」立ち上げです。研究所は研究だけしていればいいのか。その成果を学生に還元しなくてはならないのではないか。この議論が展開されたのはここ10年来のことです。数年前から明治学院科目にキリ研は「明治学院研究」という講義科目を提供するようになりました。この科目の立ち上げは、橋本先生が所長で、私が主任の時に行われました。私たちは、入学しても明治学院を知らない学生が多いので、その状態をなんとかしようとのことで、ヘボンからはじまって、戦後まで毎回リレー形式で所員と研究員が提供する半期科目を設けたのです。実施は遠藤主任に委ねられました。立ち上げにさいして、すでに「関西学院学」という科目を実施している関西学院大学の神田建次教授をお招きして話を聞きました。神田教授はなんと橋本ゼミの卒業生とのこと。即刻「明治学院研究」の導入を決意しました。
「アイディアマン」所長である橋本先生におかれては、今後とも明治学院大学を見守っていただけたらと願っています。佐藤可士和氏の弁によれば、明治学院大学のロゴマークで使われている黄色はチャペルの窓の黄色い十字架に由来するとのことです。紛争期にバラバラに入っていた黄色いガラスをあのように十字架の形に並べ変えたのが橋本茂先生だということを知る人は少ないようです。
また昨年の4月に韓国延世大学神学部からお招きした徐正敏招聘教授も教養教育センターでの1年間のお働きを終えて、帰国されます。高名な教会史家であり、同志社大学での留学経験があり日本語も堪能な徐先生は、短い期間でしたが、私たちに、多くのことを教えてくださいました。なかでも徐先生と『白金通信』紙上で対談し、明治学院の韓国人留学生の母国での活躍は多大なものであったことを知ることができました。
これまで金東仁(キム・ドンイン)、李光洙(イ・ガンス)、朱燿翰(チュ・ヨハン)といった3人の近代文学者の名前ぐらいしか知らなかったのですが、李光洙と一緒に1919年2月に神田のYMCAで三・一独立宣言の引き金となった東京留学生独立宣言を書いたのは、李光洙同様明治学院から早稲田大学に進んだ白南薫(ぺ・ナグン)であったこと。独立運動をさらに遡れば、1884年の甲申事変により亡命してきた金玉均(キム・ギョクキュン)、朴泳孝(パク・ヨンヒョ)、徐戴弼(ソ・ジェビル)、徐光範(ソ・クァンボム)のうち、太極旗を考案し、内務大臣を務めた朴泳孝は、明治学院に入学していたこと。他にも、中国で活躍した民族史学者文一平(ブン・イルピョン)、民主化運動を指導した国会議員金相敦(キム・サンドン)。教会関係では、内村鑑三の弟子で韓国福音教会の設立者崔泰k(チョ・テイヨン)、延世大学神学部初代教授池東植(チ・ドンシン)、韓国クリスチャンアカデミー元総裁で、明治学院創立120周年で講演し、一昨年天に召された姜元龍(カン・ウォン・ニョン)らが明治学院に留学していたとのこと。
隣国の近代史を織りなす錚々たる人物について教えてくださった徐先生には、キリスト教所の協力研究員になっていただいたので、2013年の『明治学院150年史』の刊行までには、これらの留学生の研究が一層進展することを願い、徐正敏先生の帰国後の延世大学での今後の御活躍を心よりお祈りする次第です。
(おおにし はるき 所員・本学学長)
最後の「邂逅忌」を迎えて 小林 孝吉
「邂逅忌」。それはプロテスタントの作家椎名麟三が、「復活のイエス」との出会いによって書くことのできた小説『邂逅』に因んだ名称である。第一回「邂逅忌」は、椎名麟三の亡くなった翌年一九七四年に、渋谷駅前の東急ゴールデンホールで開催された。
明治学院の二年の頃であろうか、病院で死を宣告された砂川安太という青年労働者に訪れた「自由」と「激情」を表現した『永遠なる序章』と、私は生きることのむなしさのなかで震撼的に出会った。その二年後、私はまだ名前もついていなかった最初の椎名麟三を偲ぶ会に参加したのだ。
狭い会場は、埴谷雄高など戦後文学を代表する作家、評論家でいっぱいだった。私は一読者として、会場の片隅でそんな文学者の集まりの昂ぶった雰囲気をはだで感じていた。その日、参加者の総意で偲ぶ会は「邂逅忌」と命名された。そのとき、未完の長編『死霊』を書きつづけていた埴谷雄高は、今後「邂逅忌」では若い批評家や研究者による椎名論の発表と、椎名作品をもとにしたミニドラマなどの上演を行い、「邂逅忌」をたんに故人を偲ぶ会にすることはやめようと提案した。その「邂逅忌」は今年で第三六回目を迎え、それを最後に歴史を閉じることになった。
「邂逅忌」との関わりでは、私は富岡幸一郎氏などとともに、何回か「邂逅忌」で椎名論の発表をするとともに、ここ十数年間は会の世話人として、私自身の生涯を変えた椎名麟三の文学とともに歩んできた。
ちょうど、世話人になった少し後のこと、私の職場に一本の思いがけない電話が入った。それはキリスト教研究所の所長をされていた、私には一面識もない橋本茂先生からであった。橋本先生は、私が椎名麟三と格闘し、二〇年かけて書いた『椎名麟三論―回心の瞬間』をすでに読んでおられ、キリスト教文化研究プロジェクトで、椎名研究をはじめようと誘ってくださったのだ。
私としては椎名麟三論を出版したことで、すでに椎名研究から離れていたときだった。この電話によって、再び私は椎名研究へといっきょに引き戻されるとともに、実存的作品からキリスト教文学へと変貌していく、いわば「復活体験」以後の椎名麟三の文学と本格的に向き合うことになった。キリスト教研究所で、土曜日の午後を定例に、すでに何十回と研究会が重ねられた。
発表者は、橋本先生や私、協力研究員の丸山義王氏をはじめ、作家の森禮子、成井透、評論家の松本鶴雄、井口時男諸氏など、演劇関係者も含む数十名にもおよんだ。それとともに、「邂逅忌」も明治学院の記念館に会場を移して開催されることになった。ミニドラマ「半端者の反抗」、「天国への遠征」の朗読劇、作家の小川国夫、加賀乙彦、評論家の寺田博、川村湊各氏の講演が行われ、「邂逅忌」ではいつも、椎名文学と参加者の魂とが響き合うように感じられた。
一方、このプロジェクトの責任者で、「邂逅忌」の世話人となっていただいた橋本先生も、「邂逅忌」とともに、三月で定年退職されることになっている。私はこの三六年間を想い、どこか一抹のさみしさとほっとした安堵感とをひそかに感じている。
私自身はこのプロジェクトを通して、「回心」以後の椎名麟三の文学を『キリスト教文学の誕生―椎名麟三論』というかたちで出版の準備をしている。それも、あの橋本先生からの運命的な一本の電話のおかげだと思う。私の文学への入り口となった『永遠なる序章』の主人公は、数日後の死を前に、こう自らにいう。――今日一日の生活をはじめなければならない、そして人類は長い歴史を通じてそうしてきたのではなかったか、一日一日にはじめ、永遠にはじめ、たとえはじめることのなかに滅ぶのが人類の運命であったとしても、と。この言葉に、どれほど励まされたことだろう。
最後の「邂逅忌」は、これまで上演したドラマやエッセイの朗読、椎名文学における復活と自由をめぐってのシンポジウムなどの企画を予定している。椎名麟三の文学は、未来に向かって、未来者のために永遠に開かれている――。
(こばやし こうきち 協力研究員)
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