太平洋戦争末期。戦局の推移の中で敗戦が必至になるにつれ、特攻の概念は拡大されて、「一億総特攻」「全国民玉砕」といった軍部の人命軽視はエスカレートしていった。人々はその命令のもとに勝算の見込みも無いまま単身敵地に乗り込みその尊い命を散らせていった。これら捨て身の戦法は当時の諸外国を驚かせ、いまなお悲劇の物語として語り継がれている。特攻隊は特殊日本的組織だとすると、日本はなぜこのような特殊な戦法を実行する特殊部隊を生み出したのだろうか。深刻な資源不足、迫り来る米国との本土決戦、戦局の推移から生まれた狂気、「忠君愛国」の精神…。現在もなお多くの人々によって様々なアプローチから原因究明がなされている。
今回とりわけ「皇民化教育」に焦点を当てたのは、前途ある若者が、「天皇の為」「国家の為」にその命を捧げ自ら「特攻死」を選んでいった鍵はこの「皇民化教育」にあると考えたからである。ここではその後の教育体制に多大なる影響を与えた明治時代の教育について特に重点的に触れることにする。「教科書」という武器を片手に皇民化教育はどのように特攻思想を生み出していったのかという点について追っていきたい。
日本に今日見られるような近代学校が、全国一律に設けられたのは、明治5年(1872)に「学制」が頒布されてからである。当時、明治新政府の緊急の課題は、先進列強に追いつくための近代国家としての体裁、国力を保つことであった。その為富国強兵策や殖産興業の早期結実を迫られていた。この課題を実現するためには、当時文盲の者が非常に多かったといわれる日本国民の教育水準の向上がどうしても必要であった。これが日本の近代教育を発足させる大きな力になったのである。
なかでも、この開明政策の最も大きなあらわれが、1872年の「学制」頒布であった。「学制」に含まれる「国民皆学」の発想の下、国土全域に渡る庶民教育が実施されることとなった。このように当時の日本の教育は「統一性のある国民による近代国家の創出」を狙ったものであった。
しかし明治5年に頒布された「学制」にもとづく教育政策は欧米流の個人主義・功利主義・実学的傾向が強く、旧来の非現実的・非実用的な儒教主義的教育を否定したものであったため天皇制の存続を危ぶんだ宮中からの批判が相次いだ。また当時の国民からもあまり支持されなかった。そこで1885年に文部大臣に就任した森有礼は、国民の忠君愛国の志気を養うことが教育の任務であるとし、国家主義教育政策を打ち出した。こうした国家主義・軍国主義的教育は1889年の「大日本帝国憲法」の天皇絶対主義思想へ発展し、さらに翌年の「教育勅語」の天皇制国家主義・軍国主義的教育思想によって具体的に実現された。
「教育勅語」は「大日本帝国憲法」を道徳的・教育的に裏付けたもので、天皇制絶対主義教育の最高規範として、発布以来終戦まで、日本の教育の渕源及び大綱となった。そして絶対的権威を持つ聖典として、日本人形成の上で絶大な影響力を与えた。その内容の骨子は軍事的国防思想・国教思想・立憲思想という3つの基本的な柱によって構成されており、前段では、日本の国体が教育の原理であるとし、その具体的内容は家族国家間の倫理によって説明されている。中段には忠、孝など封建道徳の徳目と国憲国法の遵守という立憲的徳目とが混在しているままに臣民倫理が説かれており、下段では、教育勅語の正当性を説き、臣民の実践を絶対的に要請している。
「教育勅語」の煥発により、教科書には「家」や「祖先」などの家族主義的要素と「天皇」などの国家主義的要素が強調されるようになった。これは国民各自の生活の場である家族という集団に対する情緒的な愛着と、家父長制に対する伝統的な忠誠の2つの要素をすべて天皇へと集中させ、国民の「皇民」とし、天皇を頂点とする「家族国家」によって統一することを狙ったものであった。こうした教科書による国民の洗脳はその後もますますエスカレートしていった。
太平洋戦争では数多くの若者が学徒として軍に徴用され、その若い命を散らせていった。それは他国においても同様である。しかし日本では、あえて特攻といった自爆攻撃で自身の命を絶ち、死を持って「天皇」の「臣民」としての使命を果たしたのである。これは日本独自の戦略であり他に類を見ない。「忠君愛国」「滅私奉公」の精神を発揮するために「死」の道を選択するということから考えると、明治時代から日本で実施されてきた「皇民化教育」の果たした影響は絶大であったといってよいだろう。
この皇民化教育は「わだつみ世代」等の、数少ない戦争反対者たちの生きる希望をも奪い、多くの犠牲者たちを生み出していった。
実際、特攻隊員の手記などを読むと、「天皇」の為に「お国」の為に、命を懸けて国家を守ることを大変な名誉として受け止めているものが多く、驚かされる。彼らにとって特攻隊員に指名されることは、教育で培われた「忠君愛国」の精神を十分に発揮する場であり、神である天皇のために戦える機会が与えられたことを意味する、栄誉ある使命だったのである。これはまた自己の「皇民」としてのアイデンティティーを再確認する場でもあった。
従って若者たちにとっての「特攻死」とは、名実共に「皇民」となるための重大な儀式だったのではないだろうか。そのために多くの若者が自ら志願への道を踏みきったのではないだろうか。ただ戦局の悪化を見守り敵に殺されるのと、勝利のために自ら命を絶つのでは、その意味・価値が大きく異なる。
このように「死」を正当化する概念を植え付けたのは教育であり、教科書なのである。「特攻隊」は軍の政策の一つであった以上、その志願は命令によるものが大きく、必ずしも直接的な志願の原因全てが教育を巧みに利用した皇民化教育にあったとは言い切れない。しかし戦局が悪化し同輩が次々に死んでいく中、その死に意義を持たせる為、若者を「特攻死」へと踏み切らせたのはやはり「皇民化教育」にあったと考えてよいのではないか。