pmjs 日本語版 022003.06.16)


日本語版購読者の皆様


第二回目の日本語版ダイジェストをお届けします。もし、質問者にpmjsを通してで はなく(オフリストで)、直接ご返事頂けるときは、それぞれのメールアドレスに直接返信して 下さい。
今回の話題;「先尺」(続)、『百座法談聞書抄』、『新撰姓氏録』。
       
英語の原文は以下のページにあります。
http://www.meijigakuin.ac.jp/~pmjs/logs/2003/2003.06.html

     マイケル・ワトソン  
     緑川真知子

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新規会員 Kanechiku Nobuyuki (兼築信行), Suzuki Yasue (鈴木泰恵), Tamah Nakamura, Puck Brecher
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Date: Mon, 9 Jun 2003 15:25:00 -0600
From: Charlotte.Euba...@...orado.edu
Subject: [pmjs] Hyakuza query

皆様
ただ今説話集(1111年)『百座法談聞書抄』の翻訳をしております。これに関連して、ちょっと質問があります。

宗教儀式で、一般的なものであれ、そうでないものであれ、100日間連続して行われるものはありますか。仏教では、確かに「法華八講」が8日間以上あって、結構一般的ななものですね。同じく、説話の世界では、「小野小町伝説」(通小町的な恋人に100日間通ってくることを要求する)はかなり有名ですね。でも宗教儀式となると、そのような期間行われるものは何も思い浮かばないのですが。何かご存じですか。


Many thanks,
Charlotte Eubanks
ABD, University of Colorado
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Date: Tue, 10 Jun 2003 12:20:26 +0900
From: Matthew Stavros <.....av...@...nceton.edu>
Subject: [pmjs] Re: Hyakuza query

100日間?

こんにちは、Charlotte

百か日の(死後100日目に行う)法要しか思いつきません。私が一番よく知っているのは後醍醐天皇(暦応2年11月26日)のですが、100日間は続きませんでした。


Best of luck,
Matthew Stavros
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Date: Tue, 10 Jun 2003 21:31:29 +0900
From: Jamentz <.....hael.Jame...@....seikyou.ne.jp>
Subject: [pmjs] Re: Hyakuza query

Hello All,

百座という言葉に関してですが、one-hundred sessions (もっと正確には sittings)という訳を提案したいと思います。
12世紀にはそういう百座はかなりよく行われたようです。ざっとみたところでは、安居院が50日間のgyaskushu (タイプミス?)講座において2回行っています。(一日のうちに朝と夜の二回おこなわれたので、百座というわけです)。
また、招魂祭、祓い、尊勝陀羅尼と念仏の儀式の例も気がつきました。けれど一日以上があったのかどうか分かりませんし、それが「座」と呼ばれたかどうかも分かりません。「座」という語が聴衆の参席があって、密教の儀式ではなくて、顕教の儀式のことを指しているのかもしれません。

かなり以前、百座法談聞書抄の研究を少ししましたが、説話集とは呼ばない方がいいのではないかと思います。私の記憶がただしければ、どちらかといえば、法華経の説経の一語一語を記録したもののようです。

M.Jamentz
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From: Lee Butler <....._but...@....edu>
Date: 2003.Jun.11 00:26:01 Asia/Tokyo
Subject: [pmjs] Re: Hyakuza query

Charlotte,

中世に行われた100日間の「祈祷」(或いは「功徳」)浴の例があります。一般には「施浴」と言われますが、いくつか他の呼び方があります。もし興味があれば、もっと詳しいことをお教えします。

Lee Butler
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Date: 2003.6.10 23:16:43 Asia/Tokyo
From: Thomas Howell <.....wel...@...thlink.net>
Subject: [pmjs] Re: lexical query: 'senshaku'

皆様

Lewis Cook が「先尺」の意味についての質問をしていました。
「儀」とは何かということです。可能性の ひとつはこの場合の「釈す」 は「解釈」の「釈」ではなく「講釈」の略語で はないかということです。
その場合、「釈する儀」は 二種類の解釈の間に位置して、つまり、『古今 集』一番歌の文法的な読みというよりはもう少し踏み込んだ、もっと難解な寓 意的解釈(この言葉が出てくる注釈の残りで提供されているのかもしれませ ん)との間にあるものではないでしょうか。
こういう「儀」の種類やレベルの段階づけはおそらく中国か日本の仏教の解釈 学の先例などに倣っているいるのでしょうが、この方面でのご意見がありまし たら、お願い致します。

他の、だいたい似通った注釈書を較べてみての、ちょっとした仮説ですが。
『古今集』注釈において、今私が読んでいる『毘沙門堂』古今注においては、「義」は普通、個々の語句の意味を指します。

用例:見てのみや人にかたらむさくら花手ごとに折りていえづとにせむ (古今集55)

『毘沙門堂』は次のように注しています。「『いえづと』といふは、普通土産の義なり。

こういうのが典型的な注です。語句の「義」を注するというのは、一般化した定義を記すということのようです。「義」とは一般に思う「解釈」ではありません。

注釈書が一首の意味を言うときは、「義」ではなくて「こころ」を使います。(古今集34番歌、54番歌)

一首の歴史的背景について述べる場合は、「事」、秘密の事柄は「秘事」です。(古今集501番歌)
先行注、一首のことばや歌句についての注を引用するときは、これは、「説」「秘説」(どちらも古今集449番歌)、「本説」(古今集522番歌)と呼ばれます。一般に「解釈」という時、以上のような分類になると思います。表面の意味を越えた何か別の意味が歌に込められているということを明示する根拠をあげて、ですが。例えば、寓意的解釈などです。

このようにみてくるなら、どうして「尺する儀」なのでしょう。「儀」とあるのは、歌の、一首全体ではなくて、個々のことばに言及しているからでしょう。ならば、なぜただ「といふ義なり」ではないのでしょうか。「尺する」の語句は「解釈」の行為そのものではなくて、ある特殊な伝達の過程、おそらく、Lewisが言うように、講釈のような口頭での伝達過程を示したいのかもしれません。問題となっている当該注は仁徳天皇に関するものです。私は、これを「義」ではなくて、「説」に当たる注だと解したいのですが。どうして、「説」ではないのでしょう。根拠が引かれていないからですか。「日本紀云」とかないからでしょうか。
Tom Howell
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From: Rokuo Tanaka
<.......@...aii.edu>
Date: 2003.Jun.11 06:54:14 Asia/Tokyo
Subject: [pmjs] Re: lexical query: 'senshaku'

Prof. Lewis Cook が揚げていた『両度聞書』は正確には東常縁の『古今集両度聞書』(6 1472)ですよね。「古今伝授」の一過程ですね。
(中略)
私の大学の図書館には宗祇の『聞書』はなくて、片桐洋一の『古今和歌集全評釈』(3巻、講談社 1998年)しかありませんでしたが、一巻目の319―326ページで、この『聞書』と、古今歌一番について触れられています。

「義」は「こと」とか「わけ」或いは「筋道」といったような連体修飾語の名詞で、「講義」、「説法」、「意味」、「意義」といった一般名詞ではないと思います。
とすると、質問の一文は「まず、この様な和歌で講釈するわけ(次第)である」というのが私の推測です。

Rokuo Tanaka
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From: "Lewis Cook" <.......@...thlink.net>
Date: 2003.Jun.11 08:54:36 Asia/Tokyo
Subject: [pmjs] Re: lexical query: 'senshaku'

皆様の興味深いご意見ありがとうございます。

今ちょっと時間がないので、もしpmjsにこれに関してもっと意見が出てくる場合の為に、昨晩書いたオフリストでいただいた質問への返事をここに転送しておきます。そのオフリストのメールでは下で出てきた問題点に抵触しているところがあります。

(そのオフリストの質問では15世紀の禅竹の本文、禅竹は「儀」をむしろ広く、ある特殊な用法に関連する「伝授」を意味する用法で使ったと提案していました。それに関する返事を、私は『両度聞書』と常縁・宗祇に関連する観点からきました)。

以下の私の返信からは、受け取った方の名前を削除してあります。質問のなかでは無記名にして欲しいとあったわけではないのですが、もし無記名でありたいと思っているかも知れない場合を考えました。

またこの機会に、メンバーの方々が、pmjsにもっと気軽に返信なり、意見なりをして欲しいと思っているということを述べておきます。 受信するpmjs関連のメールのうち、半分以上がオフリストです。私も、特に、急いでるときなどに厳密な検証がいる問題について即席の意見を述べたくはないので、同じことをしてしまっていることがあるので、心苦しいですが、 メンバーは比較的限られていて、フレンドリーな方々ですし、討論などを掘り起こすのがこのメーリングリストの目的です。

以上を念頭に、取り急ぎ、Thomas Howellの『古今集毘沙門堂』注についての2,3点。

『古今集毘沙門堂』注は『両度聞書』(15世紀後半)より幾分早い時期のものだと理解しています。はじめは(20世紀初頭に紹介されたとき)、鎌倉後期とされましたが、現在は誰もそうは取らないと思います。ともあれ、14,5世紀の冷泉家流、二条家流の直接の流れを反映はしていないようです。(冷泉、二条家流注のどちらにも引用されていません.よって何か特異な注釈書であるという印象を与えるのです。(翻刻の編者が後期の六条家流の反映があるのかもしれないと示唆してはいてもですが、とくにそう示唆しているからこそですが)。
おもしろい注釈書だということを否定するつもりではありません。綿密な検証がなされてるのを嬉しく思います。
八木書店の翻刻を使っていますか。『未刊国文学古注大系』(大正時代?)の本文と比較してみましたか。というのも、当該書はかなり信頼がおけないといわれてますから、それが本当かどうか知りたいのです。高額な影印本を買えない研究者にとって、手っ取り早く利用できるのが『未刊国文』ですので。

 ご指摘の内容などについては、近いうちにお答えする時間をつくります。
Lewis Cook
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From: "Lewis Cook"
<.......@...thlink.net>
Date: 2003.Jun.11 09:05:55 Asia/Tokyo
Subject: [pmjs] "gi" / lexical query 'senshaku'

(以下、多少削除したところがあるのをお許し下さい。あらたなメールを書く時間がないのと、もともとの受信者の名前を伏せたいので)

禅竹はあまり読んだことがありません。近年は全く読んでませんが、『両度聞書』の著者とほぼ同時代人ですし、おそらくよく知られていた注釈書を共有したのではと思います)。またご示唆(禅竹における「伝授」に近い何かという意味)は『両度聞書』における「儀」の頻用の理由をよく説明しています。

『古今集』の注釈書である『両度聞書』は東常縁から宗祇に送られ、為世から受け継がれた二条家流の伝統の流れを汲むと主張し、ある程度は明らかにそうである注釈です。
 当該書における「儀」という言葉の用法が謎です。「こころ」と「義」の使い方には規則的な区別があります。「こころ」は、歌に具現化されているどのような意図も、大まかにいえばはっきりした文字通りの意味として、歌人ないしは、選者の意図を意味します。
よって、すべての歌には「こころ」があり、『両度聞書』における最も短い注釈は「こころあらはなり」といいうものです。(特記すべきことがあろうが、なかろうが、全ての『古今集』歌にこう注されています)。が、他の最も短い注は「儀なし」というものです。この二つが組み合わさって、「儀なし、こころあらはなり」というのもあります。つまり、この場合「儀」は歌の文法的に解釈される意味とか、説明可能な意図された意味とか、或いはその他の何かといったものを指しているのではないことは明かで、何か別のものです。
 『両度聞書』が「儀あるうた」という表現を使っている二例(少なくとも)の場合、問題を複雑にしているのは、当該注のある和歌の場合、それが他の『古今集』和歌とは違って、伝説的、寓意的意味が付与されているということにあります。
 おっしゃている「伝統的な」というのに近いですし、こう考えるのはこのような「儀」を解釈するいい方法かと思います。(問題は、「ならひのあるうた」と注されている和歌があることです。歌そのものの文法的、慣習的用法から推測できず、伝統からくる、受け継がれていくべき教えなどに関連した和歌に関するものなどがそうです。

私の仮説的結論は、「儀」は、(a)文字通りの意味ではなくて、文脈や、関連事項や(歌人が聖職にあるとか、天皇であるとかいう)背景から出ている、歌に付随した秘説的なものを多かれ少なかれ指すというものでした。そうして、こういう秘説的背景(伝説や、実際伝統というもの)は伝授を通してのみ知りうるものです。或いは(b)何らかの理由によって、議論されたり、論争の余地がある解釈を意味します。(一面では、一首の文法的な意味は、少なくとも理想的には論議の余地があるものではないです)。だから「儀なし」は、秘説的解釈はない、との意と取れるか、あるいは文法的な意味を除いては、議論も論争の余地もないとの意とも取れます。
 (a) は伝授の系統のどちらか一方に伝わる解釈を代表し、(b) はこれらの流派間の相違を表しているので、(a)(b)が交わって、同一化していくのは当然です。少なくとも、今のところの推論です。(長年論文にしようと思っていたのですが、英語圏でこんな論文を読む人はいないと思っていたので)。


Best regards,
Lewis
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From: "Lewis Cook" <.......@...thlink.net>
Date: 2003.Jun.11 12:06:59 Asia/Tokyo
Subject: [pmjs] Re: lexical query: 'senshaku'

Tanaka氏は、少なくとも私にとって、常縁宗祇注釈の、現在専門家には一般に、『両度聞書』と呼び慣わされ、そして文献学者には、本屋や、他では『古今集両度聞書』と口うるさいほど言われ、そうして最も古い写本の内題によれば、これは著者によって、ほぼ確実にもともと『古今{和歌}集聞書』と呼ばれ、『両度聞書』の呼び名が出てきた当該書の、この仮の題目について、注目するに足る疑問を投げかけてくれました。
 この問題はどこにでもある問題でもあります。例えばいわゆる『毘沙門堂古今注』は20世紀以前はその題目によって呼ばれてはいませんでした。出版されなかったり、本に仕立てられず、密かに伝授されれてきたものに、今日では米国議会図書館などの為に題目を付けなければなりません。 伝授を受けるものにとっては、たとえ他で似たような或いは同じ題目の注釈書が出回っていても(明らかに14世紀半ばから16世紀前半頃はいつでもなのですが)、もともとの題目で用が足りました。重要なことは伝授された注釈が『古今集』注として権威ある唯一のものだと定義(ないし所属)づけがされているかどうかが、問題なのであって、その注釈書に題目は必要ではなかったのです。

図書館司書だけ題目の心配をすればいいわけではありません。17世紀初頭に板本として出されるまでは、『両度聞書』を書物として扱うのにあまり意味がないと思います(要するに書物として「決まった」題目が必要とされるなら、それこそが題目名わけです)し、板本はすでに1471年に常縁が宗祇に伝えたものと異なる存在で、内容も極めて相違するものになってしまっている、ということを念頭に置いておくべきだと思います。

(脱線お許し下さい)。

Lewis Cook
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From: Thomas Howell <.....wel...@...thlink.net>
Date: 2003.Jun.12 04:14:23 Asia/Tokyo
Subject: [pmjs] Re: "gi" / lexical query 'senshaku'

皆様

Lewis Cookのコメントへの返信です。

残念ながら、八木書店の『毘沙門堂古今注』は手に入りません。『未刊国文学』を使っています。片桐洋一は『未刊』にはミスが多いので、八木書店のものを作ったと言っていますが、「あまり信頼できない」というところまで悪くないのではという印象です。確かにもっといいテキストを使いたいですが。ともあれ、説話に関する論文において問題点が出てくるので、『毘沙門堂』をみはじめました。説話的アネクドートを使って、ある種の事柄を説明している注があるのです。たとえば、「あしひき」などの語句の意味などの説明です。確かに『両度聞書』と直接には関わらないかもしれません。読み始めたばかりですし、仮説だが、と前置きしましたが、較べてみるのは面白いだろうし、他の方々が何というかということから学ぶこともあるのではと思ったのです。
『毘沙門堂』が注釈の主流から外れていると認めた上で、お返事を読ませて頂きまして、『両度聞書』と同様な思いこみや語彙の世界を共有していると感じました。問題はメールを送った方の「義」と「こころ」の意味の定義が、私がいわんとしていることと共通しているといことです。つまり、『毘沙門堂』にもまた「このうた義なし」という注があります。
以下用例です。
「こころ」の例:
(古今集33
色よりも香こそあはれとおもゆれ誰が袖ふれしやどの梅ぞも
『毘』注:梅の香りが昔の人の袖の香に似るといわれている(といふことあり)。そのこころなり。

「こころ」は一首全体の意味に関係しています。「こと」は単に「事」と訳していいでしょうが、「こころ」を背景に補佐する歴史的事実があるのかもしれません。

「義」の例:
『毘沙門堂』に関する限り、「義」はよく歌のことばの定義に使われると思います。とくに注釈で「多義あり」、「三義あり、ひとつは、二つは」とあるような場合にはあきらかにそうです。たくさんあるから一つだけ例をあげます。
(古今484)
KKS 484
夕暮は雲のはたてに物ぞ思ふ天(あま)つ空なる人を恋ふとて

当該歌の『小学館』の訳では「雲のはたて」は「はためく旗の形の雲のように」とあり、物思いの暗喩としています。

『毘』注: 「雲のはたて」に両義あり。まず、蜘蛛が蜘蛛の巣を作る糸を紡ぐように雲があらわれるという意味。このうたの義は、乱れた雲であり、旗の端のように表れる。

「雲のはたて」には2つの意味があって、後者が正しいとして以後受け継がれていきます。このような例が数多くあります。

『両度聞書』や他の注釈書が語句の定義をこのようにリストアップしているなら、少なくともこれが、「義」の基本的な、ひとつの意味だとおもえるのです。こういうリストアップがあるかどうか、ぜひ知りたいですね。語義のリストアップは、Rokuo Tanakaの「義」を連体修飾語と解釈するのとは違うと思われます。これは、無論別な問題です。

「このうた義なし」という表現は『毘沙門堂』にも出てくるといいました。先のメールに書こうと思ったのですが、手短にしようと思い省いたのです。『両度聞書』と『毘沙門堂』どちらにもこれが出てくるのはおもしろいです。明らかに「義」の意味が違います。すくなくとも、Lewis Cookとメールのやりとりをなさっているかたの第二の意味(b) がそうだと思います。

ただ、上に示しましたように、『毘沙門堂』注は「義」を並べ立てて、どれが正しい意味なのか述べることに、なじんでいたようです。いずれにせよ、、語句の可能なすべての意味の情報を提供したのであって、さほど議論の余地というのではありません。
以下の例をあげて、時間やスペースの関係からも、これ以上は言いません。

(古今集409
『毘沙門堂』注:「此歌当流に別義なし」。これを私は次のように解釈します:「当流ではこの語の意味に関する特別な意義なし」。

注は、この後、初句(「ほのぼのと」)に、諸説を根拠として揚げて、4つの「義」があると続けています。まず、「別義なし」と言って、次には「四義あり」(あけぼの、若い、遠く、そよ風)とリストアップしているのです??
Tom
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From: Barbara Nostrand <.....tr...@....org>
Date: 2003.Jun.12 15:41:14 Asia/Tokyo
Subject: [pmjs] Shinsenseishiroku

こんにちは。

どなたか、9世紀の史料、『新撰姓氏録』の刊行されたものをご存じですか。いくつか研究書はあるようなのですが、全国的な出版ではなく、またやみくもに購入するには高価すぎます。
Barbara Nostrand
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From: "Brian Ruppert" <.....p...@...c.edu>
Date: 2003.Jun.12 20:43:20 Asia/Tokyo
Subject: [pmjs] Re: Shinsenseishiroku

Dear Barbara,

Shinsen "shouji" roku『新撰姓氏録』(815年)のことですよね。京都地区のほぼ1200の家系が載っているとても有名なものです。
特徴的には、非常に多くのもとは移民であった氏族が直接表示されていることです。『群書類従』「(雑部)」(no. 448, vol. 3 番号は版によって違いますので気を付けて下さい。)の項に載っています。『新注皇学叢書4』と、新しいものでは『神道大系・古典編6』。日本での当該書に関する有名なものは、佐伯有清の『新撰姓氏録の研究』がありますが、最近大きな別なものが出たと思います。(国会図書館のデータベースが役立つと思います)。英語やその他の言語での当該書についての論文については、他に誰か知っている人がいるでしょう。おっしゃるように日本語の論文は相当数あるようです。

Good luck!

Brian O. Ruppert
Department of East Asian Languages and Cultures
University of Illinois
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From: Joan Piggott <......@...nell.edu>
Date: 2003.Jun.12 23:25:44 Asia/Tokyo
Subject: [pmjs] Re: Shinsenseishiroku

Hello Barbara,

私はあまり当該書は使いませんが、佐伯有清の本には本文が載っていますし、論も充実してます。コーネル大学にも、他の主要大学同様、このシリーズもあります。多分これがおっしゃっているものだと思います。

Best,

Joan Piggott
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From: John Bentley <.....j...@....cso.niu.edu>
Date: 2003.Jun.12 23:39:42 Asia/Tokyo
Subject: [pmjs] Re: Shinsenseishiroku

Hi Barbara,

田中卓が『新撰姓氏録』についての研究書を出しています。『新撰姓氏録の研究』(よくあるタイトルですね)。また『神道大系』の田中の『新撰姓氏録』はおすすめします。栗田寛の詳細な注がついた『新撰姓氏録考証補遺』が載っています。佐伯の9巻はすごいですけれど、一冊本がよければ、多分『神道大系』のものが一番です。
Best,

John R. Bentley
Assistant Professor of Japanese
Northern Illinois University
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From: Noel John Pinnington <.......@...rizona.edu>
Date: 2003.Jun.13 04:31:09 Asia/Tokyo
Subject: [pmjs] Re: "gi" / lexical query 'senshaku'

ちょっと質問です(今回はオフリストじゃありません)。「説」はじゃ、一体何ですか。一条兼良「六輪一露」の表(diagram)を「説」と呼びます。普通これは「説」(解釈、説明)が必要なものだと理解するのだと思います。で、事実兼良は自分の儒教的解釈を「教句の説」と呼びます。兼良は「表」をどんなふうに呼んだらいいか分からないのでしょうか。あるいは当時の語法の慣習によってこう(「説」)言っているのでしょうか。

Noel Pinnington
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From: William Wetherall <......@...herall.org>
Date: 2003.Jun.13 08:15:35 Asia/Tokyo
Subject: [pmjs] Shinsenseishiroku

『新撰姓氏禄』について以下の研究が英語では役に立ちます。氏、姓の詳細なリストは、日本の文献を読むときのすばらしい参考書です。

Richard J. Miller
Ancient Japanese Nobility
(The Kabane Ranking System)
Berkeley: University of California Press, 1974
University of California Publications
Occasional Papers
Number 7: History
Paper, xii, 209

Bill Wetherall
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From: "Lewis Cook" <.......@...thlink.net>
Date: 2003.Jun.13 11:05:18 Asia/Tokyo
Subject: [pmjs] Re: "gi" / lexical query 'senshaku'

手短な答えですみません。中世の注釈書によく表れる用語としての「説」の訳語としては、私はgloss(注釈)とか、もっと正確さを期すならscholium(注釈、傍注)というような語がいいかと思います。経験上、50歳以下の人間には後者は伝わらないですが、意味はかなり近いです。学派どうしの解釈を指すわけですから。『両度聞書』における「説」の典型的な用法は、「他流の説」(たいてい退けられてしまうものです)か、「またの説」(二条家流の中での別な解釈)です。たしかに「義」と意味が重なる(互いに相容れないわけではない)とは思いますけど、「こころ」とは別物です。

Lewis Cook
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From: "Lewis Cook" <.......@...thlink.net>
Date: 2003.Jun.13 14:29:13 Asia/Tokyo
Subject: [pmjs] Re: "gi" / lexical query 'senshaku'

Thomas Howellの新しいメールへの返信。

片桐洋一は『未刊』にはミスが多いので、八木書店のものを作ったと言っていますが、「あまり信頼できない」というところまで悪くないのではという印象です。

要点は2つあります。簡単に、(1)『未刊』収載の『毘沙門堂本』は以前から信頼がおけないとされてます。片桐氏がそう書いているから言われ始めたのではありません。問題は、20世紀初頭にはこういう注釈書(国学以前の中世のもの)は重要視されていませんでした。だから翻刻もラフでした。(2)八木書店の影印を片桐氏が出したのは、翻刻間違いを憂慮したのではなくて、(私の間違いじゃなければ)孤本である、『毘沙門堂本』写本をお持ちだからです。これは、以前オークションで匿名の顧客に売買された後、長い間見あたらなくなっていたものです。

問題はメールを送った方の「義」と「こころ」の意味の定義が、私がいわんとしていることと共通しているといことです。

あまり自己主張するつもりはないですけど、私とメールのやり取りをした相手が、その区別を付けたのじゃありません(区別をしたのは私です)。

以下の例をあげて、時間やスペースの関係からも、これ以上は言いません。
(古今集409)『毘沙門堂』注:「此歌当流に別義なし」。これを私は次のように解釈します:「当流ではこの語の意味に関する特別な意義なし」。

『古今集』409番歌は、『古今集』注釈の複雑な伝統の鍵を握っています。よって、これをきちんと把握するのは重要です。「この流では当該歌の他の(秘)伝的解釈は許されていない」と私が翻訳します。実際、ほとんどすべての流派が当該和歌の多層的な寓意的解釈を保持していますが、たいては流派に伝授料のよなうなもの(大学院授業料みたいなものですね)を払わなければ、そういった解釈の存在は否定されます。

L Cook
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From: guelb...@...eda.jp
Date: 2003.Jun.16 18:07:12 Asia/Tokyo
Subject: [pmjs] Re: e: lexical query: 'senshaku'

電子版「大正新脩大蔵経」で調べてみましたところ「先尺」の用例が数百件出てきました。Lewis Cookが言っていたように、中国の天台宗経本では用例がたくさんあります(湛然の玄義釈籤には149例ありました)。ほとんどは、「まずは(or 先に)を釈す」と解されるでしょうが、少なくとも2例ほど、二字熟語と解されるべき用例を見つけました。以下に引いておきます。
妙法蓮華經義記卷第六 光宅寺沙門法雲撰
T33n1715_p0649a27
第二釋先釋無為章門有三句。所謂解
T33n1715_p0649a28
脱相此句正明因果盡處兩種無為。下二句
T33n1715_p0649a29
別明。離相明因盡滅相明果亡也。
大般涅槃經疏卷第十二 隋章安頂法師撰
T38n1767_p0111c07
文中有二先釋。後論義。就
T38n1767_p0111c08
初釋中三。
私の専門は中国仏教ではないのですが、「先尺」が解釈学(hermeneutical)の用語として使われたとういう可能性はあります。(とはいえそれを証するにはもっと用例が必要ですが)。

そこで、別な疑問が湧きました。経典からの解釈学的パターンが、用語の借用以外で、和歌注釈の伝統において使われるという例はありますか。中世ヨーロッパ研究においては、厳密には聖書解釈の方法(予型論typology:旧約を通しての新約の解釈)について60,70年代に活発な議論がありました。
Muenster
大学のFriedrich Ohly近辺の人々が 半分は聖書に由来する型と聖書に由来しない型についての予型論の仮説を立てました。そのうち前者も後者も聖書からではなく、俗文学から来ていました。これは納得のいくものだと思いました。ただ『古今集』歌の少し変わった中世的解釈に出くわすたびに、仏教的解釈方法からきているような、ある種のパターンがあるんじゃないか、と考えたりします。(知り合いの日本人の研究者などは誰もこれに関して何か意見はなさそうですが、そもそも仏教解釈の研究者は中世和歌注釈など読みませんし、その逆もそうです)。

Niels Guelberg
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From: guelb...@...eda.jp
Date: 2003.Jun.16 18:15:21 Asia/Tokyo
Subject: [pmjs] Re: Hyakuza query

「百座法談聞書」についてJoachim Glaubitzがドイツ語で博士論文を書いています。Glaubitzの当該論文はハンブルグ大学に提出されました。未刊行で、しかも一部分を見ただけですが、完訳が付きだと思います。宗教儀式は一千日までのものまであります。今「光明真言」信仰について調べていますが、百日(或いは数百日)続く儀式もよくあります

Niels Guelberg
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日本語版02のメッセージ以上です


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