第6回目の日本語版ダイジェストをお届けします。
*先尺
*仏教解釈学と『古今集』
*『古今集』55番歌
もしオフリストで質問者に直接ご返事頂けるときは、それぞれのメールア ド レスに直接返信して 下さい。その他の返事ならびに質問などはwat...@...eijigakuin.ac.jpに送って下さ い。英訳します。
メールの総数: 4
期間:2003年9月15日 - 17日
リンクなどは最後にあります。
皆様
夏休みの間、予告なくお休みをしておりましたが、秋の新学期も始まる頃となり、またpmjs日本語版を再開させていただきます。夏の間にもぼつぼつメールはありましたが、それらに関しては、面白い物を拾って随時翻訳していきますので、ご了承下さい。
また夏の間にも新メンバーが加わりましたが、その紹介などもまたあらためてさせていただきます。今秋もよろしくお願い致します。
pmjs 編集より:日本語の会員名簿の作成が遅れています。ご了承下さい。
Date: Mon, 15 Sep 2003 11:19:08 -0700
From: "Susan B. Klein" <sbkl...@....edu>
Subject: [pmjs] Re: "gi" / lexical query 'senshaku' 先尺
皆様
Hi Folks --
この夏PMJSをほとんどみていませんでしたー我が家の新しい若い住人のせいです(今週一歳になります)ーそれで、やっと今頃6月の「先尺」「義」「こころ」や仏教解釈学と和歌解釈との相互関連などのおもしろいメッセージを読んだ所です。皆さん既にもう議論の内容をお忘れになってしまっているのではないかという危惧はあるのですが、2,3付け加えたいことがあります。とくに「義」の意味に関してです。ただどうしてもこの一連のやりとりの大元のメッセージを見つけられなかったことをまず申し上げておきます。(多分もともとは別な件名の中の脱線的な議論から火がついたのでしょうか)それから、メール・ソフトをアップ・グレードしたので、漢字など上手く読めませんでした。ローマ字が付されていないものが多かったので、用例などは推測で理解しました。以下は全部頭に浮かんだままのものです。(それ以上の時間はないです)。
まず、 Lewis Cook が Tom Howell に指摘した、『古今集』毘沙門堂本注はおそらく宗祇注釈などと別系統(六条家?)かもしれません。よって「義」の用法が違っているのかもしれません。とするなら、Tom、時代を遡って為顕流テキスト『古今和歌集序聞書』を見てみてはどうでしょうか。『三流抄』(『古今和歌集序聞書』)(片桐洋一『古今和歌集注釈書解題 巻2)は、『古今集』毘沙門堂注の基礎的な部分を形作っていると思います。実際、そこでは「義」は Lewisが書いていたような定義に近い使われ方をしています。以下それを言い換えておきます。
a)「義」は一首の文法的意味や解釈を意味するのではなく、伝説や寓意的な意味が付随する和歌を「一般的な」古今集和歌から区別し、よって「義」は(「ならひ」の意との重複は無視して)「tradition」と翻訳される。よって、多かれ少なかれ、一首に「付随」ないしは割り当てられた秘伝的解釈を意味し、一首の字義通りの意味から来るのではなくて、文脈、連想、想像上の作者(神や帝が詠んだとされる和歌云々)といったものから来ている。それらは、伝授や伝説や伝統といったものを通して知り得るものである。
Lewisがあげた第二の意味は「義」は (b)何らかの理由によってその解釈を巡って討論、論争の余地がある。(和歌の文法的意味というのは、言ってみれば、理想的には、ともかくそうではない)「義なし」はそのような秘伝的解釈はないという意味か、或いは(文法的解釈以外には)討論、論争はない、ということ意味し得る。
そうしてLewis は、(a)は一つだけの伝達系統、流派の中だけの解釈を代表し、一方 (b)はこれらの流派間の相違を示すので、(a)と (b)がどのように交わるか明らかだ、と論を進めている。
『古今集序聞書』の冒頭部で、家隆が定家と違う流派を作り上げるのに、「義」と「文字の読み」を変えた、と説明される部分で「義」が使われています。そうして、「やまとうた」という言葉の二つの義をあげます。一つは定家流、そうしてもう一つは家隆流です。これらの「義」は「やまとうた」の定義(和歌を意味する用語)というよりその語源に近いです。どのように漢字(当て字)が「やまとうた」に使われたか、例えば単に文法的読みからは読みとることができない微妙な意味(秘伝的な層)を古今集序に付与していると思われているような説明です。微妙な意味とは例えば、「大和」(大いなる和らぎ)の意味は和歌が「たけきもののふ」や「鬼」などへの相応しい供物であるなどというものです。
「義」という語は、とくに意味ははっきりしているけれど、当て字の元来の基準がはっきりしないような時に使われます。「やまとうた」など用語の意味がはっきりしない時、また「ちはやぶる」の語の場合のようにいろいろな当て字が使われている時などです。
こういう場合は、「義」は「正しい」漢字の「真」の源を説明する語源的(また寓意的)な話によって立証されています、そしてその話は難義の意味を説明するのに使われます。だから、例えば「千早振る」の場合、5つの「義」があり、うち三つは天照大神にからみ、一つは様々な神に関係し、もう一つは「一切のもの」に関連しています。天照大神が関わる語源の原型として、天照大神が天の岩戸から現れてまた世の中に光をもたらし、それを祝って神々がそれぞれの千の袖のひらを翻した、というのがあります。さまざまな「義」を開陳した後、注釈書はしばしば(いつでも、ではないのですが)ひとつの「義」を取ります。それは、その流派によって真の意味であると受け入れられているものです。
『古今集』409番歌を例に取ってみます。Lewisが中世の注釈にとっては絶対的に基本的な一首となっていると書いているものです。『古今和歌集序聞書』は「ほのぼの」の「義」として4つあげることからはじめています。1,輝き、微光(一般的な意味)2,若さ3,寿(普通、慶祝の意味、長寿だがここでは皮肉と取られているか、あるいは単なる間違いか、「命のあだなること」の意味として使われています)4,微風。そして「寿」(無常という理解)を取り上げて、かなりの分量を費やして歴史的、語源的寓意的解釈について説明を加えています。これが注釈者によれば19歳で死んだ(実際は42か3で没)天武天皇の息、武知皇子を称える為に詠まれたとの主張を説明しています。19歳とすれば、壬申の乱(672年)と上手く合致し、武知皇子はその英雄であったので、もっともらしく思われたのでしょう。おもしろいことに、他流の別の読みでは、「島」が「四魔」などと記されるのは『古今和歌集仮名序口伝』(拙論Allegories of Desire p. 33を参照して下さい)でも同じです。ともあれ、この注釈書では、各用語の定義と語源的、歴史的寓意的解釈は他の流派と自分たちの流派とを区別するのに用いられたようです。
思いますに、宗祇、常縁頃になると、歴史的、語源的寓意的解釈の大半は淘汰されており、「義」は単にはっきりしない用語の定義を意味して、彼我の区別の一助となっていたのではないでしょうか。一方「杜若」などの謡曲や Meishukushuなどのテキストに表れていますように禅竹は明らかに『古今和歌集序聞書』と毘沙門堂注の系統に明るかったようです。Noel Pinningtonが指摘しているように、深層において和歌(と能)と仏教的リアリティーは用語の語源的な寓意によって立証され得る立場を本文に反映し、禅竹は「義」をこれらの系統の用法と同じように使っているとはいえるでしょう。
この議論に遅れてきて参加して、申し訳ありません。でもどうしても一言のべたかったのです。
Susan
Susan Blakeley Klein
Associate Professor of Japanese Literature,
Director of Religious Studies
Department of East Asian Languages and Literatures
University of California, Irvine
編集者注:Klein, Susan Blakeley.
Allegories of Desire : Esoteric Literary Commentaries of Medieval Japan
(Harvard-Yenching Institute Monograph Series, No. 55). Cambridge, MA: Harvard UP, 2003
ISBN: 0674009568
Date: Mon, 15 Sep 2003 11:14:47 -0700
From: "Susan B. Klein" <sbkl...@....edu>
Subject: [pmjs] Re: Buddhist hermeneutics and Kokinshuu
Niels Guelbergが提起していた中世ヨーロッパと日本の宗教解釈学の方法における類比に関してですが、今後も考究してみたい問題です。リストのメンバーの方々が言及して下さった拙論Allegories of Desireにおいてざっと論じているので見ていただけますが、表面的に見る時間しかありませんでした。
Jacqueline Stoneの著書(Original Enlightenment and the Transformation of Medieval Japanese Buddhism)の議論についての Keller Kimbroughの言及を指示します。特に第三章(The Culture of Secret Transmission)、秘伝伝授文化の中世の発展についての組織的また理論的な理由とそれに付随するJacquelineが言うところの仏教テキストの「観心スタイルの解釈」が扱われていますが、これらは私が和歌の “etymological allegoresis”(「語源的寓意的解釈」)と呼ぶところの議論の基礎を形作っているものです。(用例は前のメールを御覧下さい)。
第四章 (pp. 158-168)で、Jacqueline Stoneは天台宗における観心スタイルの解釈の方法について分析しています。そうして、和歌の解釈へのその使用に関する私の分析と併用すると、中世ヨーロッパの聖書からでたテキストの同じような解釈やその解釈方法を支える世界観などの比較分析をしよう、とする人にとってはとても良い出発点となるでしょう。
Susan
Susan Blakeley Klein
Date: 2003.9.17 15:07:38 Asia/Tokyo
Subject: [pmjs] Re: "gi" / lexical query 'senshaku'
スーザン
為顕流テキストに遡ってみることを提案してくれてありがとうございます。
「義」についての御論感謝します。またLewis Cookの返信も、これら難解なテキストを読解する道を開いてくれました。
この問題がまた、再提起されたので、毘沙門堂注における「義」について私が最近理解していることに手短に立ち戻ってもよいでしょうか。『古今集序聞書』においては「義」は和歌の文法的な意味、あるいは意図された(或いは説明可能な)意味を指さない…と仰いましたが、毘沙門堂注においては「義」はかなりしばしば前者の意味で使われます。以下用例です。
『古今集』55番歌(素性法師)
見てのみや人にかたらむ桜花手ごとに折りて家づとにせむ
KKS 55:
mite no miyabito ni kataramu sakura hana tegoto ni orite iezuto ni semu
how can we convey what we have seen, to people in the capital? let us
each break off a branch of the flowering cherry, and bring it back as a
gift(目で見たものをどのように都の人々に伝えたらよいのでしょうか。桜の花枝をそれぞれ折って、土産として持ち帰りましょう。)
毘沙門堂注は「家づとといふは、ふつうのみやぎの義なり…」と注しています。ここでは「義」は「家づと」という言葉が、秘伝的な意味ではなく、どう定義されているか或いは説明されているかを述べています。「家づと」は万葉集(3709)にもでてきます。新羅の使節のうたですが、「家へのみやげ」として毘沙門堂注は単に言葉の意味を注しています。ふつうのみやぎ…特別な物ではない?万葉集3709番歌では拾い上げた浜辺の貝殻を言っています。毘沙門堂注は言葉の微妙な意味を伝えようとしているかもしれませんが、それ以上の何か寓意的な解釈を述べているのではありません。
毘沙門堂注は二つの任務を果たそうとしているようです。409番歌のように寓意的意味の秘伝的説明をする一方、他の多くの和歌の場合、忘れないように単に一般的な知識、定義、歴史的事実とか言語的意味とかを注記しています。「義」の意味はそのどちらの任務を果たそうとしているかによって変化します。
毘沙門堂注におけるこの二つの注記の仕方(開放性と秘伝性)は時に葛藤しあいます。前者は受け入れた意味を、曖昧さを限定し明確にし、固定することを模索します。後者は可能な意味の、おそらく終わりのない流れの中に解き放たれます。毘沙門堂注は普通の『古今集』にも、そして寓意的に解釈される普通ではない『古今集』にも関心があります。よって、そこでは「義」は注釈によって何をしようとしているのかによって、違った意味を持ちます。比喩的に言えば、毘沙門堂の一部は生け垣に吊されて、綺麗に刈り込まれていますが、他の部分は月に向かって口を開けているジャングルのエキゾチックな花です。毘沙門堂注だけが、二重人格者的なのでしょうか。
Lewisは、「解釈された」或いは「解釈の産物」であるより以上の他の「義」とは何か、と書いていました。少なくとも毘沙門堂注においては、開放された(秘儀的ではない)「義」は、定義を固定する為ということを意味すると私は思います。これは「解釈」ではなく、それに先んじるものです。一般に受け入れられていた本文を再生し保持しようとする企てです。そしてそれが解釈の足掛かりとして使われることが可能となります。
Tom
From: Janick Wrona <janick.wr...@...tford.oxford.ac.uk>
Date: 2003.9.17 18:37:39 Asia/Tokyo
Subject: [pmjs] Morpheme boundary in KKS 55 (digression from Howell's query)
Howellさんの「義」についてのメールに関しての脱線をお許し下さい。でもその『古今集』55番歌の引用をとても興味深く読みました。
mite no miyabito ni kataramu sakura hana tegoto ni orite iezuto ni semu
how can we convey what we have seen, to people in the capital? let us
each break off a branch of the flowering cherry, and bring it back as a
gift(目で見たものをどのように都の人々に伝えたらよいのでしょうか。桜の花枝をそれぞれ折って、土産として持ち帰りましょう。)
この語句の分割は、少し違うのではないでしょうか、おそらく
mite nomi ya fito ni kataramuで、意味は
'Having only seen it, can we convey it to people?'
(見ただけで、これを伝えることが出来ましょうか)
となるのではないでしょうか。
こちらがそうらしいと思ったのは、そうじゃないと、随分と変わった関係詞、「ての」というのが、残ってしまうと気付いたからです。古語に「ての」というような関係詞が存在しないと思いますが、現代日本語にはあるようです。ただ古語では思いつきません。それから意味的語用論的には、「みて」と「みやびと」の関連がおかしくなります。日本語の関係詞構造で、関係詞とその形容される語との関連は薄いのではありますが、このようなケースは不可能だとかなり確実に言えます。
All the best
Janick
--
Janick Wrona
Hertford College
University of Oxford
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