クロニクルからナラティヴへ
ー創作された真実ー

                   マイケル・ワトソン

はじめに
 『平家物語』における虚構と史実の問題は江戸期以来長く論議されてきた。『参考源平盛衰記』の校注者は『平家物語』の諸本を『吾妻鏡』などの歴史書と比較検討し、叙述されている事柄や人物の信憑性に疑いがあると考えられる時に「吾妻鏡ヲ按ズルニ…ヲ疑フベシ」とか「…ニ誤リ有リ」とか「…恐ラク非也」などと注している。このような注を施す態度には歴史的真実に対する近代的姿勢の萌芽が窺える。現代に至っては、現存する史料との比較検討の研究はより一層綿密となり、細部に至るまでの史実との齟齬が明らかにされつつある。このような学問的努力が今後も続けられねばならないのはもちろんだが、一方歴史的真実というものは相対的なものであり、当時の人々が持っていた「歴史」や「真実」の概念がどのようなものであったかについての問いかけが要求される。「歴史」には何が書かれることが期待されたのか、そしてどのような「真実」が「歴史」に期待されたのか。このような問題を考える一環として西洋における類似した作品について考察してみることもあながち無駄ではないであろう。
 現在歴史の概念は近代的学問の基準に則って定義されている。歴史記述には文学性よりも客観性が要求される。歴史書に載せられる事柄は個人的嗜好に左右されず公正に選択されると同時に正確でなければならず、また記録や口承によって証明されるものでなければならない。しかし中世のヨーロッパにおいてはギリシャ・ラテン以来、歴史学者は洗練された言葉や文飾を駆使した修辞に富む文章が書け、史実を想像される細部に亘るまで生き生きと再現描写することが期待された。また歴史家には公平さは求められていず、むしろ推量や批評の能力が要求された。「起こったに違いない」或いは「起こったかもしれない」と歴史家が信じていた事柄やその真実を、想像力によって補って描くことが歴史家の使命であったとさえ言える。即ち歴史書に求められたのは事実はもちろんだが、想像力によって「創作された真実」でもあった。
 史実と虚構に関する近代的先入観を一度取り払ってみよう。厳密に言えば、現代においてすらこの史実と虚構の区別は必ずしも明確ではない。「創作された真実」とは歴史家の裁量に任された立証されたわずかな事実から完璧かつ信頼にたる創作された物語である。これを虚構という言葉で表わすのは、正確さに欠けると私には思われるのである。この言葉にはどうしても近代的概念が伴う。中世において歴史を語り、叙述した側には近代的意味において把握される虚構の意識はなかったのではないかと考えるのである。それは「真実」を述べるという意識であり、空想された作り事を述べるという意識とは一線を画するものであったのではないか。想像力は「真実」の「創作」のためのものであった。あまりうまい言いまわしではないし、誤解を生じるかもしれないのだが、以上のような点から「創作された真実」という言葉を用いる。
 この論文においては史実に則って書かれたとされる中世ヨーロッパの作品と『平家物語』を比較し、軍記物語の修辞技法は近代概念で把握されるいわゆる虚構に奉仕するのではなく、想像され「創作された真実」に奉仕するということをみていきたい。そしてこの「創作された真実」の存在こそが無味乾燥な史書(クロニクル)を、まさしく物語(ナレティブ)へとたかめている。 [...]


「クロニクルからナラティヴへー『平家物語』と『アルビジョワ十字軍の歌』『平家物語 研究と批評』山下宏明編(有精堂)1996年6月
["Chronicle to Narrative: Heike monogatari and La Chanson de la Croisade Albigeoise], in Heike monogatari kenkyu to hihyo, ed. Yamashita Hiroaki (Tokyo: Yuseido, 1996), pp. 195-218.
For a copy of this article please contact:
Michael Watson, Faculty of International Studies, Meiji Gakuin University,1518 Kamikurata-cho, Totsuka-ku, Yokohama 244, Japan


back to bibliography | index (E) (J)| e-mail: watson[at]k.meijigakuin.ac.jp