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「眼前の利に迷う」ことを戒めた志高き実業家にして茶人

2015.09.04
益田 孝
Takashi Masuda 益田 孝 1848-1938
「総合商社」という事業を新たに興し、弱冠29歳で三井物産の初代社長となった益田孝。
益田は現在の「日本経済新聞」の前身である「中外物価新報」を創刊した人物としても知られ、また鈍翁と名乗った晩年は「千利休以来の大茶人」と称された人でした。
何ともスケールの大きな日本人、益田孝。 彼もまたヘボン塾の塾生の一人です。

「眼前の利に迷う」ことを戒めた志高き実業家にして茶人

海の向こうを見詰め続けた少年

益田孝が生まれたのは、幕末の1848年(嘉永元年)。ペリーの黒船艦隊が浦賀に入港する5年前のことでした。幼名は徳之進。場所は佐渡です。数え年8歳まで佐渡で過ごしました。その後、1855(安政2)年に幕府が函館に奉行所を開くと、父親の鷹之助は幕臣として赴任、家族も移住します。
さらにその4年後、鷹之助は、江戸詰の外国奉行支配定役を拝命し、家族と共に江戸に入りました。外国奉行とは今でいう外務省。徳之進は外国語修習見習生となりました。
佐渡、函館、そして江戸。親子は、当時の日本で最も外国に近い場所で活動を続けていたことになります。それはおそらく、後の益田孝という人のキャラクターを決める大きな要素となったことでしょう。
実際、少年の目はいつも遠く海外に向けられていました。

日本の貿易総額の2割を担う

1862年、徳之進は外国語試験に合格し14歳で幕府の通訳官となります。わずか14歳で!その後は、麻布善福寺の米国領事館勤務を命ぜられ、初代公使タウンゼント・ハリスに接しました。また翌年には遣仏使節、池田筑後守の随員として渡欧、ヨーロッパの近代文明に間近に触れるという機会を持ちました。
この頃、徳之進はさらに英語の学習を進めるために塾に通います。それが1863年に開校した明治学院の前身「ヘボン塾」でした。
明治維新後は横浜の貿易商館に勤務、その後、井上馨と知り合い、請われて大蔵省に入省するものの、間もなく井上の下野に従って井上が設立した「先収会社」の副社長に就任します。そしてこの「先収会社」が、5年後の1876年に「三井物産」となり、益田は初代社長に就任しました。まだ29歳の若さです。
日本経済新聞の前身である「中外物価新報」を創刊するのもこの頃。国内外の物価の変動を日本内地の商人に知らせることが目的でした。この新聞がやがて「中外商業新報」となり、戦後は「日本経済新聞」と名前を変えて急速に発行部数を伸ばします。
さらに益田は、1888年に工部省鉱山寮からの三池炭坑の払い下げの獲得に成功、「三池炭坑社」を設立。やがて「三井鉱山」と名前を変えるこの会社は、産出する石炭を上海や香港、シンガポールなどに運び、三井物産の飛躍的な成長の原動力になっていきます。
三井物産は、当時の日本の主要な輸出品である石炭、米、綿花、生糸など300種類の製品を扱い、明治40年代には、日本の貿易総額のほぼ2割を占めるといわれました。益田孝の実業家としての絶頂期です。

「永遠の利」を追い続けた人

「眼前の利に迷い、永遠の利を忘れるごときことなく、遠大な希望を抱かれることを望む」
――益田孝本人の言葉です。
意外に聞こえるかもしれません。益田孝の歩みは、ただ「眼前の利」を追ったようにも見えるからです。しかし、そうではありませんでした。
思い出されるのは、益田が一流の経済人であると同時に茶人であり、日本古美術の熱心な蒐集家でもあったということです。それは決して、成功した実業家の晩年の手すさびといったものではなく、経営者として第一線で活躍している時代から愉しまれていたものでした。
明治の開国後、西洋文明の導入に熱心だった日本は、反面、伝統的な美術を軽んじました。安易に見捨てられ、海外に流出していこうとする日本の仏教美術などの多くを、私財を投じて購入し、あるいは茶の湯の伝統を愛し、茶室※の建立にも熱心に取り組んだのが益田です。
太平洋戦争の末期、日本各地で空襲をほしいままにした米軍が、小田原の早雲台益田邸を決して空襲しなかったのは、そこに集められている美術品の価値を知っていたからだともいわれます。
本当のコスモポリタンは、単なる海外崇拝者ではなく、愛国者であるとはよくいわれることですが、益田孝はその言葉の正しい意味で、コスモポリタンでした。ヘボン塾生として早くから英語と欧米の文化に親しんだ益田孝。実業の世界にあって「永遠の利」を求め、また、自国の文化への愛情を豊かに持ち続けることができたのは、少年の頃に出会ったヘボン夫妻の教えが生きていたからではなかったでしょうか。
1938(昭和13)年に益田は91歳で他界しました。しかしその「永遠の利」「遠大な希望」という言葉は、今も人々に何かを語りかける力を秘めています。
※茶室 倚松庵(総監修/益田鈍翁、横浜市鶴見区総持寺内)

[参考]
「鈍翁・益田孝(上・下)」白崎秀雄著 中公文庫
三井広報委員会「三井の歴史」
http://www.mitsuipr.com/history/meiji/mitsui.html
[画像出展]
国会図書館デジタルアーカイブ

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