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わずか11歳でヘボン塾に入塾。奴隷にも総理大臣にもなった男。

2015.09.04
高橋 是清
Korekiyo Takahashi 高橋 是清 1854-1936
異国で気軽にサインしたばかりに奴隷として売られてしまったり、この銀山は有望だと持ちかけられ、 信じて全財産を投じた挙げ句に破産したり、お酒好き遊び好きが高じて仕事を失ったり……
失敗を重ねた高橋是清の波瀾万丈の生涯。しかし、そのたびに救いの手がさしのべられ、その力を求められ、そして必ず成果を挙げて信頼に報いた。高橋是清の人生は深く心に残ります。

横浜の「ヘボン塾」で英語修行

高橋是清が生まれたのは1854年。ちょうど7隻の黒船が江戸に迫っていた年です。騒然とした世の中に、幕府の絵師・川村庄右衛門の子供として生まれました。でも2歳のときに江戸詰の仙台藩士、高橋是忠のところにもらわれていき、やがて正式に養子になります。是清の名も是忠の一字をもらって名乗ったそうです。
その後、仙台藩の命令で、横浜に出て英語の学習塾に入りました。それが、ヘボン先生が開いた「ヘボン塾」。ヘボン先生と奥さまのクララさんが初めて日本の土を踏んだのは1859年の10月。「ヘボン塾」はその4年後に横浜山下町の自宅に開かれました。
おさらいをしておけば、この「ヘボン塾」が改称、合併を経て1886(明治19)年に明治学院になり、翌年には今の白金キャンパスも開かれます。そういうわけで「ヘボン塾」こそ、明治学院の前身。そしてその塾生だった高橋是清は、私たちの大々々先輩にあたるというわけです。

一人で集めた9億円

ヘボン塾に通い始めた時、是清はまだ11歳でした。ここで2年間英語を勉強し、再び藩命で渡米したのが14歳。ホームステイ先の両親にだまされて奴隷として売られるという悲惨な体験をし、ようやく日本に戻ってみると、明治維新を経て仙台藩は消滅!書生や教官助手になってなんとか毎日を過ごしていたけれど、生来お酒が好きで遊び好き。放蕩の果てにその職も失ってしまいました。
それでも、いろいろな人が声を掛け、助けてくれるところが、是清の人徳なのでしょうか。そのつてで文部省や農商務省で仕事をし、その後のペルー銀山経営の大失敗を挟んで、日銀などに請われて活躍。副総裁にまでなりました。その頃に依頼されたのが、日露戦争遂行のための戦費を、海外で日本国債を売って稼ぎ出すという難事業。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』にも書かれた、今もよく知られているエピソードです。
それにしても当時のお金で約9億円という巨額の資金を、開国したばかりで、周囲の国からまるで信用のない日本の国債を売って集めたというのですからその交渉力の強さに驚きます。日露戦争が終わった後、日銀総裁として、また蔵相として、持ち前の「積極財政」で日本経済の礎を築き、昭和恐慌後の景気回復にも大きな力を発揮しましたが、一方でインフレ抑制のために緊縮策を唱え国防費を削ろうとしたことから、軍部には目の敵にされました。もちろん、彼はそれでひるむような人ではありません。それが1936年の二・二六の悲劇、高橋是清暗殺につながってしまうのですが……。

〝頼まれ仕事〞に取り組む

こんなにさまざまな職業に就き、次々と政府の要職を担った是清は、いつも人に何かを頼まれ、頼まれた以上はそれに応えようと懸命に努力する。そういう「受け身」の人でした。そしていつも笑顔で「一生懸命に事に当たれば、必ず道は開ける」と楽天的で、ただ〝頼まれ仕事〞に全力で取り組んだ。それが是清的生き方。
「これ頼む」と声を掛けてもらい、声を掛けてもらった以上はそれに報いようと全力を注ぎ、「どうもありがとう」という言葉を受け取る――このやりとりって、もしかしたら人が社会で生きるということの〝原型〞なのかもしれません。高橋是清は、そういう意味で、人生を大切にした人なのだと思います。

▲高橋是清が送ったヘボン博士追悼会を公務のため欠席する旨を伝える手紙

[参考]
「高橋是清自伝(上、下)」(中公文庫)
[画像出展]
国会図書館デジタルアーカイブ

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