文部省に提出した「大学院文学研究科フランス文学専攻設置趣旨」のうち、冒頭の「設置理由」の全文を補足しつつ引用しておきます。これは本専攻を設置することになった事情を公式に提示したもので、いまここで何が必要とされているか、どのような方針をとるべきか、ということを端的にかつラディカルに語っているからです。
1)大学教育の現況と大学院
近年、中等教育の目的が見直され、その多様化や全般的な教育内容の軽減がはかられている。それは近年の社会の変化に対応する措置だが、そのためもあって大学入学者の基礎的な知識レベルは、旧来にくらべて低下する傾向にあることは否めない。その一方で大学は、学生の就職活動の長期化などにより学部教育のための時間を奪われ、専門性の高い研究教育は大学院にゆだねられる傾向にある。そうした教育体制全体の変化にともない、大学院は従来のように特定領域の専門研究者を養成するだけでなく、学部段階以上の専門知識とその運用能力を身につけて、広く社会に活躍する人材を供給するためにも必要になっている。そのような人材の養成はまた、次項に述べる情報化社会への対応としても欠かせない。
2)情報化社会
社会全体の変化を見るに、世界のグローバル化と情報化が同時進行し、人間が対処しなければならない知的情報は、ますます増大するとともに複雑化している。データとして処理しうる情報そのものは、進化いちじるしいコンピュータが扱ってくれるとしても、その情報処理は適切な見識による選択と判断によってコントロールされなければならないし、新たな付加価値を生み出して有効な情報を発信してゆくのは、それぞれの分野で高い知的素養をもつ人材である。この事情は、科学技術部門でも文化的部門でも変わらない。また産業社会の成熟は、たんに物財の生産だけでなく、社会の文化的資産の豊富化を求めており、情報化とあいまって、文化的事業の拡大発展による社会の複合的な「豊かさ」の形成が求められている。そのために文化的領域での高度な研究教育の担うべき役割は大きい。
3)テクノロジーの時代の非科学的・反省的知の要請
テクノロジーがめざましく進展し、人間の生存条件を日々更新していく現代に、もっとも重要になるのは、人間がその変化に適切に対処していくための世界観・人間観をつくりなおすことである。テクノロジーは人間にさまざまな恩恵をもたらすが、同時にさまざまな問題も生み出しており、いまや人間のステイタスをさえ変えつつある。一例として、遺伝子技術やクローン技術は、人間とは何か、生命とは何かという問いをあらためて突きつけ、人間はこの問いに現代的な解答を見出すことを求められている。その要請に応えるのは、物理的な有効性を基準に人間の概念さえ突き崩してゆく科学的知ではない。あるいはまた、科学的方法にならって人間を客観的対象として扱ういわゆる人間科学(社会学、心理学等)のみではない。 古来、人間は、みずからが何であるかを、経験を言語化することを通じて表現し、自己の把握としてきた。あるいは想像力によって未知の世界を表現し、それによってまた可能な自己を構想してきた。これこそが広い意味での「文学」(さらに広くは「芸術」)と言われる領域の営みである。テクノロジーが物質的領域であらゆることを可能にしていく現代であるからこそ、そのような人間の根本的営みとしての「文学」を、人間の自己表象の営みとして捉えなおす必要がある。生命科学は生命と非生命との境界を越えてゆく。そこには「人を殺してはいけない」という命題はない。その命題が意味をもつのは科学の領域ではなく「人間」の領域である。その領域の知的探求としての文学研究は、新しい21世紀に向かってますます重要な意義をもつゆえんである。
4)文化複合化の時代の文学研究
3)に述べたのは「文学」と文学研究一般の特質についてだが、それは実際にはそれぞれの言語を通して具体化される。そして各国の文学のありかたは、国家や言語の歴史的・地政学的なありかたとつねに密接に結びついている。これまでのわが国における文学研究は、明治以来の西欧知識とその精神の研究をモデルとして、言語習得と組みあわせた一国単位の歴史的文学研究である傾向が強かった。しかし近年の世界のグローバル化のなかで、文化は複合化の度あいを強め、その現状が逆にこれまで一国単位でとらえられてきたものの複合性をも明るみに出すことになった。それとともに、狭義の「文学」と他の知的芸術的表現領域との相互浸透も進んでいる。このような現代の知的探求の条件を踏まえた、新しい構えをもつ研究教育の創出が求められている。 ところでフランスはヨーロッパという歴史的な文化複合体の中核にあり、諸文化の混合や受容によって世界的な文学・芸術の形成を果たしてきたばかりでなく、20世紀には、グローバル化する世界に先駆けて非ヨーロッパの諸文化をいちはやく認知し、同時に20世紀世界の意味創造の活動を多方面にわたって主導するような、さまざまな知的貢献を果たしてきた1910年代末から30年代にかけてのダダ・シュルレアリスムとその周辺の芸術的・思想的運動、第二次大戦後の実存主義、構造主義、ポスト構造主義などの思想潮流の展開、また個別諸学においては、フェルディナン・ド・ソシュールを源とする言語学の創始、マルセル・モースからクロード・レヴィ-ストロースらにいたる社会学・人類学の方法確立、ジャック・ラカンらに代表される精神分析学の深化、フェルナン・ブローデルはじめとするアナール派による歴史記述の枠組の根本的転換、さらにはそれらと連動した文学・芸術のあらゆる分野における新しい創造と批評・研究の試み等々、多くの重要な方向づけがフランスに生まれ、現代文化の形成と進展に寄与しつづけてきた。その成果はいま世界で共有され、知的文化的「現代」をかたちづくっている。そうした意味で フランス文学の研究は、単に一国の研究にとどまらない現代世界の文化研究へとあらかじめ開かれており、この領域には現代の要請に応えうるような斬新な研究を生み出す可能性に富んでいるのである。