就職活動のために故郷の沖縄に帰った。学業から離れ、文字通りのちょっと寄り道である。 梅雨どきとはいえ、沖縄の日差しは刺すように痛い。スーツのジャケットを片手に、会社訪問のため地元新聞社を訪れた。 「17日の普天間基地包囲行動を成功させよう!」 社内を案内してもらうといたるところにこう書かれた立て看板がある。やはり、基地問題がここでは一番のニュースなのだ。 復帰26年目を迎えた沖縄では現在、普天間基地の移設問題に対する市民の運動が活発化している。私が訪れた時は、普天間基地包囲行動に向けてマスコミが動き出していた。政府や本土の人々の関心を風化させないために、県民は必死である。 その5月17日、私は以前から一度は訪れようと決めていたキャンプシュワブに隣接する辺野古の集落へ出かけた。集落の前に広がる海には、ちょうどその日一万六千人の県民に包囲されていた普天間基地が移設される予定である。 ジュゴンの棲む海を見たい、ただそれだけの理由ではない。幼い頃から身近に存在していた普天間基地の「引越し先」をこの目で確かめておきたかったのだ。 私の通った小学校は、普天間基地のフェンスに隣接して建っていた。飛び立つ飛行機の爆音に授業は幾度となく中断され、ソフトボールをすれば、ホームランボールをジョギング中の米兵にとってもらうこともしばしばだった。体育館の屋根をかすめて発着する飛行機にドキドキしたのを、今でもよく覚えている。 「ここにもいずれ危険が訪れるのか…」 穏やかに、ただ青く美しい海をを眺めながら、この島の行く末を思った。キャンプシュワブ周辺は、予想に反して人の影もすくなくひっそりと静まり返っていた。移設反対の住民は普天間での行動に出かけていったのだろう。 このコラムを書くにあたって、私はできるだけ客観的に沖縄の現状を書こうと思っていた。しかし「思い」が溢れ出てしまう。 政治家でありながら、感情をあらわに、県民の「思い」を代弁した太田知事の気持ちが、いま少し理解できるような気がする。 学生編集委員(1998年7月号)