チャペルが私達の学校を象徴するように、古い建築はその歴史と存在を伝え、威厳と風格を備えているようにみえる。横浜の根岸駅を降りると、道路を挟んだ向こう側は巨大な崖となっている。根岸森林公園へと向かうルートは2つほどあり、1つは山手方面から向かう方法、そしてもう1つがこの絶壁を不動坂、または石段を使って登って行く方法である。さらに案内板をたよりに公園へと進む。すると小高い丘の向こうに廃墟のような建築を発見する。かつての根岸競馬場の観覧席、一等スタンドである。根岸森林公園が日本洋式競馬の発祥である根岸競馬場であったことを、どれほどの人が知っているだろうか。また競馬場という言葉に何を連想するだろう。昨今はCMの影響など、男女を問わず競馬場へと足を運ぶ人も多くなったようだが、根岸にまだ在った当時の競馬場は、私達が考えるようなものと趣を異にする。明治時代、競馬場とは居留外国人達の娯楽であるとともに、一部の有産階級・文化人達の社交の場であった。当時のレースクラブ会員の記録をみると、西郷従道や松方正義など政界の著名人の名が並ぶ。まさにどれだけ優雅な遊びであったかは推して知るべし、である。その歴史を詳しく知るためには、公園に隣接された根岸競馬記念公苑内の「馬の博物館」を見るとよい。館内には競馬場であった頃の資料はもちろん、人と馬との交流によって生まれた様々な文物も展示され興味深い。さらに苑内にはポニーセンターも設けてあり、誰でも交流のできる「乗馬デー」や「にんじんタイム」も行われている。ところでこの競馬場、どうして公園へと変貌を遂げなければならなかったのか。そこまで至る背景には随分数奇な運命を辿っている。長年、競馬場は政財界の社交場として使用されてきたが、1943年(昭和18)には太平洋戦争のため海軍省に接収され、敗戦後は米軍によって使用されていた。その後一部接収解除を受け、現在は市の管理となる根岸森林公園に、残る部分が日本中央競馬会によって根岸競馬記念公苑になったのだ。かつて競馬場だった面影は、先ほどの古ぼけたスタンドしか残されていない。人々を熱狂させた栄光とは対照的に、図らずもそのような状態となってしまったわけだ。今なお近隣に米軍の住宅地は存在し、横浜は異文化との接点であったことを窺わせる。だが訪れて感じることは、かつて競馬場であったことを思わせるなだらかな地形の芝生広場であり、子供から大人までそれぞれの時間を満喫できる憩いの場であることだ。さて、春は花見で賑わったこの公園もようやく落ち着いてきた。新しく訪れようとする初夏の陽光は、新緑と呼べる木々達にゆとりを与えてくれる。キャンパスの雰囲気にも慣れ、ようやく自分の時間を作れるようになった新入生も、ぜひ行ってみてはどうだろう。散歩には少々きつい道のりだが、横浜の高台から受ける心地よい風は、きっと快く迎えてくれるに違いない。学生編集委員(白金通信2001年5月号)
http://www.city.yokohama.jp/me/kankyou/park/yokohama/kouen010.html