「泉岳寺」というとあなたは何を思い浮かべるだろうか。都営地下鉄浅草線を利用したことのある方ならば、駅名として耳にしたことがあるかも知れない。白金キャンパスの最寄り駅である高輪台駅から僅か1駅、キャンパスから歩いても15分程度のところに泉岳寺はある。慶長十七年(1612)門庵宗関和尚(今川義元の孫)に請うて徳川家康が外桜田の地に建立したこの寺は、寛永の大火による焼失の後、毛利、浅野、朽木、水野、水谷の五大名の尽力によって現在の高輪の地に移転された。以来、諸国の僧侶が参学する学寮として、また曹洞宗「江戸三ヶ寺」として栄えた。当時は大名のみが檀家となれる寺であったという。この寺を一躍有名にしたのが、元禄15年12月に起きた出来事である。時代劇の好きな方ならご存じかと思うが、ここ泉岳寺は君主への忠誠心とそのドラマチックな運命で有名な赤穂四十七士ゆかりの地なのだ。毎年12月14日の討ち入りの日に行なわれる義士祭には、4、5万人の参拝者が訪れるというから、忠臣蔵ファンの聖地といっても過言ではないだろう。元禄14年3月、幕命にょり勅使参向の饗応の正使を命ぜられていた赤穂城主浅野長矩公は、時の指南役高家筆頭の吉良義央の処遇に不満を持ち江戸城中において刃傷に及んだのをき っかけに切腹を命じられ、その死後泉岳寺に葬られた。それが、この寺を歴史ドラマの一舞台としたのである。長矩公の家臣大石良雄は同志46人とともに、辛酸の末主君の復讐を遂げ、吉良公の首を主君の墓前に供えた。その首を洗った井戸は今も泉岳寺境内に残っているし、その直後に寺僧が吉良家へ出向いた際にとつた「首請取状」や、四十七士が討ち入り時に身に付けていた遺品の数々が境内の義士館に展示されている。元禄16年2月、関係者に討ち入りの顛末を報告して廻った寺坂吉衛門を除く46人は、幕命により切腹し息絶えた。本来ならば公儀に異議をとなえた不逞の輩としてひっそりと葬られるはずの屍は、彼らの強い遺志が生かされて君主の側らに眠ることとなった。なお、寺坂も83年の天寿を全うした後、ここに加わっている。筆者が取材に訪れたときも、多くのファンが線香を手にその墓をお参りしていた。ともかく境内いたるところに四十七士ゆかりのものがあふれているのであるが、そのほとんどが雨風による劣化に悩まされている。大正12年の関東大震災直後に建て直しされた義士館もその老朽化が顕著なため、吉良邸討ち入りから300年を迎える2001年をめどに新義士館に建て直される計画である。99年のNHK大河ドラマが赤穂浪士を題材とする「元禄繚乱」であることも手伝って今後泉岳寺を取り巻く環境は目まぐるしく変わることだろう。より歴史ロマンを感じてみたいという方には改築前に訪れることをお勧めする。参道を賑わす仲店を冷やかして、店の主人と赤穂浪士談義に花を咲かせるのも、江戸の風情を感じるには十分粋な味わい方であると思うのだが…。学生編集委員(白金通信1999年1月号)
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