2004年12月

12月8日

 今年の『SIGHT』は版型も縮んで『このミス』と同じになり、書評で丸1冊の『別冊SIGHT 日本一怖い! ブック・オブ・ザ・イヤー』[bk1, amazon] になってしまったことはみなさんご承知のとおりです。それにしてもなぜ私たちだけがシコシコ真面目に原稿書いてるんでしょうか。

 貴戸理恵『不登校は終わらない 「選択」の物語から〈当事者〉の語りへ(新曜社)[bk1, amazon]、悪い本ではない。先行研究のサーベイは同時に「不登校」をめぐる言説の知識社会学的分析としても読めるし、インタビュー調査も個人が手弁当で行ったものとしては(修論として書かれたという時間的制約のことを考えても)、一応の水準に達しているといってよい。「不登校」を扱えば一定の売上げが期待できるであろう今日の出版状況にかんがみれば、十分に商品価値がある本だ。
 いろいろ嫌味を言われそうな、不登校者を〈サバルタン〉と捉えることにも十分な理由がある。(本来「サバルタン」の概念自体が、そういう融通無碍なものなので、変に神秘化したり特権化してありがたがるものではない。)対抗言説としての「明るい不登校」の主体的な選択、という物語では掬い取れないリアリティを多くの不登校者は抱え込んでおり、そのリアリティは往々にして結局のところ語れない――当事者自身にさえ語りえない、語れるようになった時には、既にそのリアリティを過去に対象化していて、既に〈当事者〉ではなくなっているのだから――という指摘は、たしかにもっともである。
 しかしながら考えてみるにそのような意味での〈当事者〉=サバルタンの語りの「不可能性」とは、いったいどのようなものであろうか? それはたとえば「パラダイム論」でいうところの「不可共約性incommensurability」と類比的に考えることができるのではないだろうか。ということはつまり、「不可共約性」の概念を強くとりすぎることに対するドナルド・デイヴィドソンの批判のアナロジーが、これに対しては有効になるのではなかろうか。大変に難解だが以下の引用が参考になるだろう;

 もって回った言い方だが「互いに「互いに分かり合えない」ということは分かり合えていなければ、そもそも「分かり合えた」とか「分かり合えない」とか言うこと自体に意味がない」ということだ。サバルタンがサバルタンとして現われるためには、そもそもその「語りえなさ」がそれとして認められ、理解されなければならない。「わけのわからなさ」にもいろいろな種類がある、ということだ。
 別の角度から迫ってみよう。東浩紀のブリリアントなデビュー作「ソルジェニーツィン試論――確率の手触り」(『郵便的不安たち♯』朝日文庫[bk1, amazon]、所収)ではこう述べられている;  これもまた(全てに当てはまるとはいえないが)サバルタンと相通じる「語りえなさ」にかかわっている。もちろんここでの問題はラーゲリを、あるいはソルジェニーツィンを特権化することではない。東も言うように「僕たちの日常生活もまた、実際はそのような「根源的」な問いに支えられて成立している。ただ、一般的には、「非根源的な」答えによるある種の錯覚が、問いを露呈させないだけの話なのだ。」直接に語りえるのは、その「錯覚」のレベルだけである。しかしながらソルジェニーツィンが賭けているのは、あるいはそこに東が読み取ったのは、その「錯覚」で「非根源的」はあるが有意味な問いと答えの向う側の、「根源的な」、しかし答えを持ちようがない、その意味では無意味な問いである。
 貴戸のいう「不登校の語りえなさ」とはそのようなものである。「不登校に理由はない、それは語りえない」とは、この「根源性」のレベルにある。それはそのとおりだ。しかしながらそれを裏返せば、この「根源性」とは無意味であるということ、そしてまた「非根源的」なレベルにおいてはいくらでも有意味に語れてしまう、ということでもある。と言うより、有意味な言葉でもって語れるのは「非根源的」なレベルだけだ。その語りを通じて「根源的」なレベルの無意味な「語りえぬもの」を示し、伝えるという課題は、この間大塚英志が強調してきたように、基本的に文学の課題なのではないだろうか。だからこそ「サバルタン・スタディーズ」はまずは文学研究として登場してきたのである。
 だがそのような「文学」としてみたときには、まさにこの「語りえぬもの」をめぐって苦悩する証言をたくさん収録しながらも、貴戸のこの作品は残念なことに迫力不足なのである。そしてそれは貴戸だけの弱点ではない。かつて蓮実重彦は『表層批評宣言』で「批評は論理をもって文学たらんとする背理を背負っている」と述べたが、単なる有意味性の水準にとどまる狭い意味での学術的な作業にとどまるならば、決して「サバルタン・スタディース」は「語りえぬもの」を示すことができず、せいぜい「語りえぬもの」にぎりぎり迫った優れた文学作品へのガイドをするのが関の山だ。(ちなみにサバルタン・スタディーズの徒ではないが大塚英志の戦後文学・サブカルチャー批評は、ひいきめに見るならば「フィクション作者としての自分自身は結局二流で、そのような文学作品を作り出せずにいるが、にもかかわらず、と言うよりだからこそ、文学というものは社会的に有意義で必要なのだということが、誰よりもよくおれにはわかるのだ」と論じることによって、単なる読者ガイドの域を超え、屈折した形でそれ自体文学作品になりえているように思われる。これに対して戦後思想史をめぐる小熊英二の仕事は、きわめて有意義なものではあるが、しかしそれ自体で文学になっているとは言いがたい。むしろそれはきわめて優れたエンターテインメントである。)「語りえぬもの」について語りさえすれば、「語りえぬもの」を示せると思うのは、大きな間違いである。
 ここで想起するのが、最近脚光を浴びつつある内藤朝雄『いじめの社会理論 その生態学的秩序の生成と解体(柏書房)[bk1, amazon]である。この本は徹頭徹尾、「非根源的」な、答えのある問いの水準、有意味性の水準にとどまろうとする。その結果臨床的な提言さえも禁欲し、あくまでもマクロレベルの制度構想の提言に自己限定する。しかし逆説的にもそのような禁欲を通じて、かえって本書は一種の文学作品となりえている。この本の一行一行には、生身の人間としての著者内藤の恨みつらみがこもっている。頁のむこうから狂気が押し寄せ、その毒気は読む者をして反吐戻させずにはいない。一言で言うと「電波ゆんゆん」な本であり、笑いながらその毒を中和することなくしては正気を保って読めない。かくして内藤の本書は見事に「語りえぬもの」を示すことに成功しているのだ。

 最後に蛇足になるが、貴戸の政策提言のうち最後の「終わらない不登校を生きる」、つまり不登校サブカルチャーを社会の中で自立させていき、その中で生き続けるという選択を積極的に打ち出すという戦略についてコメントしたい。もちろんそれは「あり」だと思う。近代以前、学問を含めた芸道というものはそういうものだった。師匠に弟子入りし、お月謝を払ったり下働きをして師匠の生活を支えながら芸を磨き、やがて免状をいただいて自分も師匠として弟子を取り……という仕組みで生き延びてきた。「不登校」もまたそのようなサブカルチャーとなることはある種必然でもある。しかしながらそれは結局のところ「不登校」もまた一つのエスタブリッシュメントとなり、今以上にはっきりとした抑圧を生み、そこからの脱落者を生むことを受け入れる、ということだ。つまりそれは貴戸が警戒する「明るい不登校」のヘゲモニーを許すことによってしかありえないのではないか。(今でさえ「フリースクール不登校」があるというではないか。)もちろんそれもまた仕方がない。ただしここで厄介なのは、「不登校」運動はどちらかというとラディカリズムであり、ただ単に「学校という場所がいやだから他の場所を求める」という運動であるというよりは、「学校社会は体制=全体社会レベルのヘゲモニーであり、そのヘゲモニーに反抗する」という運動である、ということだ。つまり、それ自体エスタブリッシュメントとなった「不登校」運動がそこから脱落者を生んだとき、その脱落者を回収する運動はどこからやってくるのか、ということだ。「不登校」の更なる下層に積極的に自らを位置づける何かが登場してくるのか、それともむしろ「不登校」の敵側がそこでてぐすね引くことになるのか。


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