1943年、東京に生まれる。O型。幼いころから「見ること」が好きだったらしい。書物だけでなく美術、 映画、庭園、漫画などを好んでいたが、町を歩くこと、旅をすることにも心ひかれていた。小学生時代には 、将来、画家か考古学者か園芸家か天文学者になることを夢みていた。 中学時代には映画館通いをし 、高校時代には町をさまよった。そのころには建築家か映画作家か旅行家になろうと思っていたが、結局、 東京大学の文科2類に入学し、文学部フランス文学科に進んだ。20歳のころに詩人・美術批評家の瀧口修造、作家・仏文学 者の澁澤龍彦という二人の先人と出あい、かつ親しくつきあったことが、その後の行動に多少とも影響をお よぼした。それで大学時代には小説やエッセーを試作していた。 卒業論文は「アンド レ・ブルトン序説」。これがきっかけになって、アンドレ・ブルトンとシュルレアリスムをめぐる文章を発表 しはじめた。大学院に進んだが、いわゆる大学闘争の時代に入るころで、講義はほとんどなかったように記 憶する。その間にも町をさまよい、文学者、芸術家、映画・演劇・舞踏関係者たちとのさまざまな出あいを体 験した。研究らしきものと翻訳の仕事をつづけながら、アルバイトでなんとか自活していた。 修士論 文は「シャルル・フーリエ序説」。博士課程のあいだに何冊か翻訳書を出し、論文や批評やエッセーのたぐい も発表できる態勢ができてきたので、そのまま「筆一本」の生活をはじめるつもりでいた。ところが、以前 からの父親の病気がいよいよ悪化し、家族の生活を支える必要が生じてきたため、一念発起して大学に勤め ることにする。1970年春に東京大学人文科学系大学院博士課程を中退し、27歳で明治学院大学文学部フラン ス文学科の専任になった。 はじめはさほど自分に向いた仕事だと思っていなかった。いわゆるアカ デミズムがまったく性に合わなかったせいもある。けれども、このフランス文学科というのがアカデミック なところではないということが、一年ほどしてわかってきた。学部の学生諸君とのフランクな人間関係が可 能だった。彼らとの出あい・つきあいによってこちらも得るところがあると感じたときから、研究、批評、 紀行、エッセーなどの執筆活動と大学の仕事とを、両立・連続させることができるようになったようだ。 P.S. その後、2000年にこのフランス文学科の大学院課程が開設されることになったとき、多少のため らいはあったが、芸術や思想を扱う「モデルニテ」コースで中心的に動くことを引きうけた。大学院のゼミナールでの活動も、以上に述べたのとほぼ同 じ方針にもとづいている。(この点については、大学院の項を参照。) |