2000年4月

4月14日追記

 火曜日には私、普段あんまり連ドラとか見ないんだけど、ついフジテレビの新番組の『ショカツ』とか見てしまったのですよ。ほら、例の「Real Police Story」とか銘打った奴。同時に原作小説も角川から出ていて、それをちょっと立ち読みしたから気になってたんですが。原作者の佐竹一彦氏はもと警視庁の警部補だったという触れ込みだし。で、新聞の番組案内を見るとなんかちょっと違うぞ、と。だってどっちも新米の3ヶ月研修の話だけど、原作の方の主人公は、巡査として数年勤め上げたノンキャリアの普通の警官なのに対して、テレビの方は東大法学部出の新人キャリアじゃないの! 何ですかこれ? 
 で、テレビの方見てみました。まず、いったい何がどう「Real Police Story」なのかがよーわからん。いや、クサしているわけではないです。警官だったこともサツ回りの記者だったことも刑事警察や法務関連の研究をしたことも刑事警察のご厄介になったこともないし警官の知り合いもない身としては、現実の刑事警察なんか知るわけないんだから、そういう意味で「リアル」かどうかは判定しようがない。ま、一般視聴者なんてみんなそんなもんでしょ。そういう視聴者に対して「これがリアルだ」と突きつけるためには、いったい何が必要か? 
 そういうリアルな警察ドラマの先駆者としては、最近のヒット作『踊る大捜査線』が引き合いに出されることが多いんですが、見てないのでよくわからん。でも伝え聞くところから判断するに、要するに息苦しい階層組織でありかつある意味普通の地味な行政サービスである警察というものを描いていたから、ということでしょうか? 
 しかしここで忘れてはならないのは(でもたぶんみんな忘れているはずだ)『ジャングル』というドラマである。全然成功せず途中で路線変更したりしたあげくに消えたんだけど、要するに、日本で初めて、いわゆる「モジュラー型警察小説」の文法を――現実の警察の業務においてそうであるように、複数の事件が同時進行し、かつひとつの事件が延々何週間も続く、というドラマトゥルギーを採用した画期的作品だった。同時にこれはまた、主人公格の鹿賀丈史演じる、仕事よりむしろ家庭を優先しつつなお毅然として恥じない所轄の管理職他、(必ずしも劇的な秘密というわけでもない)私的な問題を抱えた生活人としての刑事たちを描こうとしていた。
 しかしこれにはまた実はお手本があって、それが80年代アメリカテレビドラマを代表する作品として一時期のエミー賞をかっさらいまくった『ヒル・ストリート・ブルース』である。アメリカのとある(架空の)中小都市の警察署を舞台にして、弁護士と秘密の愛人関係にある署長を中心に、実直なハゲ中年だが家に帰れば10代の妻が待っている内勤の巡査部長とか、どう見てもこんな奴に銃を扱わせること自体が間違っている情緒不安定で無能なSWAT隊長とか、その他人種も性格も様々の私服刑事、制服警官たちと彼ら彼女らを取り巻くコミュニティの人々を描いていた。本作は「警察ドラマにソープ・オペラ(『ペイトン・プレイス』とか『ダラス』『ダイナスティ』とか、最近では『ビバリーヒルズ』とか『メルローズ・プレイス』とかの要するに連続メロドラマのことだな)の文法を持ち込んだ」とされているが、後のテレビドラマにかなりの影響を与えている。(なお『ジャングル』『ヒル・ストリート・ブルース』については和智君に聞きましょう。)
 たとえばオーストラリアの人気ナンバーワンドラマはご当地もの(人気番組の大半はアメリカかさもなきゃイギリスのものなんですよ、ハイ。『ポケモン』や『エヴァ』もやってるし)のBlue Heelers(余談だが主演女優のLisa McCuneはこれのヒットのおかげで無名の若手から一躍人気ナンバーワン女優に出世、予定していたハリウッド行きを取りやめたそうな。人気が出ても出なくてもみんなハリウッドを目指すというか、人材流出の国の悲しさである)だが、これはヴィクトリア州の(架空の)田舎町の小さな警察署(人員は10人にみたず、刑事の数はたった一人、Bossの階級はsenior sergeantだから警部補でさえないかもしれない)のお話で、「ほとんど毎週犯罪が起きるという点を除けば現実の警察の姿に非常に近い」と評されているが、モジュラー型のドラマ作りこそしていないものの、設定といい雰囲気といい、あくまでもコミュニティの一部としての警察、職業人、生活者として警察官を描くという点では、明らかに『ヒル・ストリート・ブルース』を意識している。
 あるいは、これは個人的な思い入れが強いのだが、80年代に『ヒル・ストリート・ブルース』に次ぐ人気を勝ち得、「初めて(警官といわず)普通の働く女性の姿をブラウン管上にリアルに描きだした」として、フェミニストドラマとしても評価された『女刑事キャグニー&レイシー』なんてものもある。これはニューヨーク市の所轄の刑事課を舞台に、まさに普通の生活者、職業人として二人の主人公とその同僚たちの姿を活写していた。
 たとえば、コンビの片割れレイシーは二人の子持ちだが、ドラマの進行の最中に乳ガンにはなるし、それが直った後は今度は久々に妊娠して、大きなお腹を抱えて仕事してやがて産休に入って女児を出産して、と大わらわ。そしてもちろんドラマはそれを(一時的に一人で仕事をする相棒キャグニーの姿とともに)延々何ヶ月も追っていくのである! またレイシーは夫共々リベラルで、時々デモに参加したりもして、一度などは地元の所轄(勤務先とは違う)にパクられてブタ箱暮らしを余儀なくされる。コンビのもう一人キャグニーは、いささかヤッピー志向のある共和党支持者で独身の恋い多き女であり、果断で有能で、病気、出産とキャリアの中断の多かった相棒より一足先に昇進するが、やはり警官だった父親のアル中死をきっかけに自らもアルコール依存症となり、レイシーに伴われて自助グループの門を叩く……とまあ、こういった具合である。(『キャグニー&レイシー』についてはこちら。)
 さて、以上のごとき「リアル」な警察ドラマが「リアル」と評されるその理由は、普通の――とはいかなくともまあ一種の役所というかカイシャとしての警察、そして職業人として、生活人としての警察官を描いている、というところである。たとえそこに描かれた姿が現実の警察の姿からは遠いものであっても、以上の条件を満たしていればそれは「リアル」と評される可能性が高いだろう。まあそれはまさに視聴者のナルシシズムに訴えていると言えなくもないが、『キャグニー&レイシー』が警官にとどまらない普通の働く女性一般に通じうる普遍的なものを描いたと評価されたことに見るごとく、視聴者たちにとっての他者としての警察の現実ではなくとも、視聴者たち自身の足下の現実をきちんと描いたものになる可能性もなくはない。
 さて、このような意味ではテレビドラマ版の『ショカツ』はまったく「リアル」ではないように見える。主人公たちには(今のところ)生活感がないし、描かれた世界が現実の警察に近いかどうか、なんてこちらには判断のしようがない。不祥事相次ぐ中、近頃きわめて評判の悪いキャリア制度を中心に、官僚機構としての警察組織の抱える問題をテーマにした、と読めなくもないが、それにしたって同じことだ。(単純な告発主義をとっていないあたりはむしろ評価できるが。)
 ただ、主人公のキャラ造形は、生活臭の問題を除いても、まさに「リアル」ではない。TOKIOの松岡昌弘演じる新人キャリアの羽村は、まだ机上の知識しか持たない割にはあまりにも賢く有能で「能吏」という言葉があつらえたようにはまる。あくまでも遵法主義だが、法律を守ることを自己目的化しているのでは決してなく、そもそも何のためにいちいち法律や規則を守らねばならないのか、について自分なりの目的合理的に明解な理由付けを持っている。まさにある種の「官僚の鑑」で、『ケイゾク』の柴田純(中谷美紀)とは全く別の意味で「こんな新人キャリアいねーよ」ってな感じだ。(警察キャリアに知己はいないが、中央官庁のキャリアの友人はいる――まっとうな連中だがこんな超人ではない)これに対して田中美佐子のたたき上げ部長刑事九条は、ハードボイルドに出てきそうな一匹狼のはぐれデカで、独断専行、隠密主義、目的のためには手段を選ばず、同僚や上司たちに疎まれ――というよりはっきりと憎まれている。つまり何というか、どちらもマンガ的な超人キャラなのだ。
 だがその一方で、この二人のキャラにはたしかにある種のリアリティがある。マンガ的リアリティというか、説得力というか、キャラ立ちしているのだ。キャリアとはぐれデカのコンビなんて、まさにキャリアはぐれデカの大沢在昌『新宿鮫』シリーズの鮫島を二つに割ったみたいに聞こえるが、私にとっては鮫島よりこの二人の方が圧倒的に魅力的な、説得力のあるキャラクターである。
 となればこう考えた方がいい――テレビ版『ショカツ』は『ジャングル』『ヒル・ストリート・ブルース』の路線をではなく、むしろ純然たるファンタジーとして居直った『ケイゾク』のそれを継ぐものなのではないか、と。ここでのRealはたぶん、リアリズムの「リアル」の謂ではない。

4月14日

 一昨日は何年ぶりかで神保町に行って来ましたが、いやほんと懐かしい。地上げを挟んでのこの20年間という長い時間の間にも、あくまでも地べたをはいずる目からするとほとんどその街並みが変わっていない。そういう印象を受けます。
 仕込んできた本。アラン・マクファーレン『再生産の歴史人類学 1300〜1840年 英国の恋愛・結婚・家族戦略』(北本正章訳、勁草書房)、大沼保昭『人権、国家、文明――普遍主義的人権観から文際的人権観へ』(筑摩書房)、毛利建三編著『現代イギリス社会政策史 1945〜1990』(ミネルヴァ書房)。どれも去年と今年のものですな。
 『イギリス個人主義の起源――家族・財産・社会変化』(酒井利夫訳、リブロポート)、『資本主義の文化――歴史人類学的考察』(常行敏夫・堀江洋文訳、岩波書店)で日本でもおなじみのマクファーレン著は、歴史人口学のケンブリッジ・グループが明らかにしてきたような、中世後期以降のイングランドのマルサス主義的家族戦略・人口動態を、別の視角から描き出す好著。「近代家族」の特異性や新しさを強調する潮流に対する解毒剤としてどうぞ。
 大沼著は日本きっての「人権派」国際法学者による包括的な人権論だが、「人権NGO」の人権リポートの安易さ、恣意性、独善性を鋭く批判していたりして思わずにやり。
 毛利編著は毛利単著の『イギリス福祉国家の研究――社会保障発達の諸画期』(東京大学出版会)の続編として。

 エリック・ホブズボーム『市民革命と産業革命――二重革命の時代』(水田洋・安川悦子訳、岩波書店)も複数見つけたがバカげた値段にムカついたので買ってない。原著は今でも教科書として山と積まれて売られて使われているというのに、岩波なぜ復刊しない。何考えとるんじゃコラ。何のための「同時代ライブラリー」やねん。あ、もうつぶれたのか。なら「岩波現代文庫」。いや、「岩波文庫」でもいいくらいだ。

4月10日

 岡真理『思考のフロンティア 記憶/物語』(岩波書店)はよい本だ。岡氏は現代日本のフェミニスト論客、そしてポストコロニアル批評をやっている人の中では随一の存在だが、本書ではこの間氏がいくつかの批評的論考で取り組んできた問題、言うなれば「ある種の(あるいはすべての?)出来事については、それを経験していない他人はその当事者に成り代わって語ることは決してできないし、そもそも当事者の語り(ないしはその不在)を聞き取って理解することさえできないかもしれない。にもかかわらず、それでもなお他人は、当事者の語り(ないしはその不在)を聞き取って理解せねばならず、時には当事者に成り代わって語りさえもしなければならない」ということについて、わかりやすく意を尽くして論じられている。たとえば、

「その身を切り刻むような証言だからこそ、唯一無比の証言であり、それゆえにそこには、何人にも否定し得ない〈出来事〉の〈真実〉が語られているのだと、もし、私たちが語るとすれば、それは、私たち自身が、苦痛を伴わない証言では〈真実〉が十分に語られていない、と信じていることになりはしないだろうか。これは、拷問の論理、ではないだろうか。」(32頁)

といったパッセージの鋭さと誠実さは疑いえない。
 だがある種の違和感を感じないでもない。たとえばかつて『ショアー』との対比においてスティーヴン・スピルバーグ『シンドラーのリスト』がさかんに批判されたことをおぼえておいでの方も多いだろう。凡庸な俗物を主人公とした、しかし結局は感動的でヒロイックでヒューマンな物語をホロコーストを舞台にしたてあげることによって、『シンドラーのリスト』は実際にはホロコーストという〈出来事〉の唯一無比性を隠蔽、抹消することに荷担しているのだ、というのが、そこでの論点だった。そのような批判のあり方に私はずっとある種の違和感を感じていた。が、その正体はよくわからずにいた。
 たとえばここで、まずはこのような批判(決してスピルバーグのための反批判ではないが)が可能である。すなわち「そのような批判もまた、〈出来事〉の唯一無比性という物語をもてあそぶことに堕してはいまいか」と。これはたとえば小泉義之氏が提示した疑義(小泉『弔いの哲学』河出書房新社、なおこちらも参照)であろうし、本書での岡氏の議論は、その水準はたしかに踏まえている。しかしそれでもなお、今度はスピルバーグの新作『プライベート・ライアン』を俎上にのせて見事な手並みでそれを解体する岡氏の批評は、結局かつての『シンドラーのリスト』批判の反復となってしまっていることはたしかだ。
 スピルバーグのナイーヴさ、徹底したリアリズムによって戦場の恐怖をリアルに再現できるという思いこみのナルシスズム、それによって与えられる感動なるもののいかがわしさ、それは戦争を娯楽として消費するだけで戦争という〈出来事〉そのものからはかえって目を背ける役にしか立たない、という批判はもちろん正しい。だが、先のパッセージを書き得た岡氏ならば、次のことに思いを及ぼせないはずがない――すなわち、そのようなスピルバーグ批判もまた一種の知的な娯楽として流通しえるし、現にしているのだ、ということに。
 ではどうすればよいのか? どうすればスピルバーグを正しく批判し、かつ彼の陥った罠に足を取られずにすむのか? 私はここで、すくなくとも、スピルバーグを敵に回すべきではない、と思う。敵として断罪するのではなく、敢えて言えばむしろ同志的批判をすべきなのだ、と。
 間違いを犯さないためには沈黙するのが一番だ。沈黙とは厳密な意味での沈黙であり、『シンドラーのリスト』も『プライベート・ライアン』も作らないどころか、そもそもそれらへの批判さえも行わないことだ。どちらにせよ〈出来事〉の暴力性から人の目を背けさせる危険とは無縁ではありえないのだから。たぶん『ショアー』のクロード・ランズマンはそのあたりでぎりぎりの選択を行ったのだろう。そしてランズマンほどの覚悟もなく、さりとて黙っていることも問題あり、と思うならば、どうすればよいのか? 
 言うべきこと、というよりなすべきことは二つ。『ショアー』に拮抗しうる質の仕事、すなわち、「〈出来事〉を隠蔽する物語の拒絶」を「『〈出来事〉を隠蔽する物語の拒絶』という物語」に堕するぎりぎり手前で、なおかつエンターテインメントとして行うことは可能だ、と主張すること、それ以上に実際に作ってみること。あるいは、「この世は生きるに値する」という〈幸福〉を、「〈幸福〉の物語」に堕する一歩手前で示すことはできないか、試みてみる、ということ。たぶん、そういうことだ。


インタラクティヴ読書ノート・別館

インタラクティヴ読書ノート・本館

ホームページへ戻る