2001年11月

11月12日

 語学に弱い私が最近読んでいる洋書は、Pierre Rosanvallon, The New Social Question: Rethinking the Welfare State, Princeton University Press,である。著者ロザンヴァロンはフランスの政治社会学者で、日本では経済思想史の好著『ユートピア的資本主義』(国文社)が翻訳されているのみ、英語への翻訳もまとまったものとしては本書が初めてだが、フランスのみならずヨーロッパ近代の政治史・政治思想史ならびに現代の労働社会・福祉国家を扱った一連の著作でその筋では知名度は高く、ことに1981年のLa Crise de l'Etat-providence, Edition du Seuilはよく知られている。(ならなんで誰も訳さない? 俺のにらむところ、邦訳出版計画は絶対にあったが、訳者の怠慢でつぶれた、という感じだね。)
 1995年に原著、2000年に英訳が出た本書はいわばその続編であり、既にいくつかの論文や書評で紹介されてきたが、リスクのあり方の変容という視点から、今日の福祉国家が理念レベルでの再編成を迫られている、と論じている。すなわち、従来の福祉国家の根幹をなす社会保険による連帯は、リスクの平等――病気にせよ失業にせよ人々が同じ程度のリスクに直面している――の想定の上に成り立っていたが、今日の展開、たとえば遺伝子診断の発達は医療保険において、また失業の長期化。固定化や社会の不平等化は失業保険において、この想定を掘り崩している、と。ちょうどこれは立岩真也なども強調するポイントであるが、非常に重要である。
 「リスク」をキーワードにする現代社会論ではたとえばウルリッヒ・ベック『危険社会』(法政大学出版局)あたりがメジャーだが、こちらの方が具体的に面白い論点を提起しているのではなかろうか。小田中君(高井君でもいいや)、何だったら出版社は俺が探すから、前著もろとも翻訳してくれい。

 高島俊男『漢字と日本人』(文春新書)はひょっとして日本語を素材としたポストコロニアル批評の傑作ではなかろうか。日本の漢字熟語の中に、古典古代中国のみならず近代西洋に対する植民地根性がこれほどまでに刻印されていたとは、私不明にして理解していなかった。しかしながら著者は言う:
「漢字は、日本語にとってやっかいな重荷である。それも、からだに癒着してしまった重荷である。もともと日本語の体質にはあわないのだから、いつまでたってもしっくりしない。
 しかし、この重荷を切除すれば日本語は幼児化する。へたをすれば死ぬ。」(245頁)
 これこそまさに「ポストコロニアル」状況であろう。

11月10日

 6日で38歳になった。もはや香山ピエール(リカちゃんのパパ)やホーマー・シンプソンより2歳も上という状態である。ゼミ生がプレゼントにマグをくれ、娘が「はっぴーばーすでーでぃあとーちゃん」と歌ってくれたことだけが救いか。
 昨日はロッキング・オンで山形浩生と対談。『SIGHT』の冬号に載せる「2001年べすと・ぶっくす・おぶ・びじねす・あんど・さいえんす」という無理がありまくりの企画に駆り出された。真面目にやりましたよ、ええ。中身は見てのお楽しみ。紙面の都合で切られたネタで面白いものがあれば、紹介します。
 実は依頼があったとき「もう一人、自然科学畑のプロを呼んで3人で」と提案したのだが、担当氏に却下されたのである。かくして「黒木玄論壇(?)デビュー計画」はまたしても流れたのであった。しかしいずれは黒木も「bk-1新書の鬼」小田中直樹高井哲彦も人生裏街道に引きずり込んでやると私今なお画策中。興味のある方はご連絡ください。
 終了後山形とネパール料理屋で軽く呑む。「あんたの新教養主義の具体化はねえ」とくだを巻く。簡単に言うと、「あんたはともかく俺の解釈する「新教養主義」というのは具体的には小松左京『日本沈没』でタスクフォースのリーダーになる情報科学者中田、更にその原型であるヴァン=ヴォート『宇宙船ビーグル号』の主人公、情報総合学(怪しげな!)者グロヴナーにある。個人レベルでは、何でも知ってるなんて不可能で不必要なことはせず、必要なとき必要な知識をどこでどうやって得るか、それをどう組み合わせるか、のノウハウを体得していること、また社会レベルでは、個人がそう立ち回れるためのインフラができていること、だ。しかしそれは難しい。下手をすれば個人になまじの専門家以上の力量を要求することになってしまう。しかしそれが本当に必要なのは、逆に素人、一般人なんだ……。」

 さて新書の鬼おすすめの平田オリザ『芸術立国論』(集英社新書)に目から鱗。そうか、劇場とはメディア(であるべき)だったんだ。考えてみれば佐野眞一『だれが「本」を殺すのか』(プレジデント社)のメッセージも「書店、出版社、図書館はメディアである(べきだ)」というものだよな。そしてメディアというのはインフラなのだ。

11月5日

 岡田斗司夫『フロン 結婚生活・19の絶対法則(海拓舎)が最近どうしても気になる。何かとてつもなく見当違いの批判のされ方をしているような気がするのだ。典型的なのはたとえば彦坂暁によるものだ。たしかに、「『家庭から夫をリストラせよ』という岡田のご託宣は単なる夫の責任回避の言い訳に転じがちなのではないか」という危惧自体はもっともである。しかし、ではどうすればといいというのか? そもそも、普通に考えれば家事・育児を模範的にこなしてきた「理想的夫・父親」の部類に属するはずの岡田がこのような提言を行うことの意味を、こうした批判はまじめに考えているのだろうか? 
 そもそも「夫リストラ」云々は本書の趣旨からすれば枝葉末節とは言わないまでも系論に過ぎない。では本論は何かと言えば、まず第一に「家庭とは子供、老人、障害者その他要保護者をサポートするという機能を負ったシステムである」(その系論として「子供のいない夫婦は法的に「結婚」していようと「同棲」に過ぎず「家庭」を構成しない」という主張が出てくる)。そして第二に、「上記の機能にあわせて家庭を効率的にマネジメントしていかねばならない」、この二点に尽きる。この二点を踏まえずに本書にあれこれコメントする論者はすべて外しているというか、問題外である。
 例の「夫リストラ」提言は言うまでもなく、家庭経営の効率化の要請から出てくる。家庭も経営体である以上、意思決定系統を統合して、責任の所在をはっきりさせねばならない。つまり「誰がボスか」をはっきりさせておかねばならないのだ。もちろん、日常生活の雑事をこなすにおいては、機械的な分業よりも弾力的な対応が望ましいだろう。しかしクリティカルな局面における決断や、全体のトーンを決めるグランドデザインの策定においては、その主体は一元化しておくことが望ましい。もしそれを夫婦で完全に対等に話し合って決めようというのであれば、夫婦の間で十分な意思統一、意見の一致が見られなければならない。しかしそのコストたるや、並大抵のものではない。
 彦坂が体現しているような批判は、言ってみれば資本主義的な企業に対して「経営が民主的ではない」と文句をつけるようなものだ。しかしながら、資本主義社会においてほとんどの労働者自主管理企業がうまくいかなかったか、あるいは「普通の会社」になっていったこと、あるいは旧ユーゴスラヴィアのいわゆる「自主管理」の末路の持つ意味を考えれば、そのはらむ問題性というか甘さは明らかだろう。別に子供(あるいは要介護老人・障害者等)を抱える家庭は、直接には、誰と競争しているわけでもない。しかしこのような家庭の多くは、日々サバイバルをかけた苦闘のさなかにあり、大きなストレスにあえいでいる。マネジメントを効率化しなければ、精神的にも物質的にもやっていけないのだ。
 「夫婦は対等であるべきだ」なんてのは、理念としては、いまさら言うまでもなくあたりまえのことである。問題はその要件をクリアした上で、なおかつ効率的に、ストレスの少ない形で家庭を運営していくにはどうすればよいか、である。その問題を考慮に入れない『フロン』批判を、私は認めない。そしてその課題は、実は社会主義崩壊後の資本主義批判と同程度に困難な代物なのだ。(その筋の方は、労働者管理を否定し、株式市場も認めてしまったジョン・E・ローマー『これからの社会主義 市場社会主義の可能性(伊藤誠訳、青木書店)のことを想起されたい。)

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