2002年1月

1月24日(2月20日修正)

 予告しておりましたweb連載、「稲葉振一郎の地図と磁石 不完全教養マニュアル」、ついに開始です。毎回トップのURLが変わってしまうというやや不便な構成のため、リンクはこちらに張っておきます。

 柴田正良『ロボットの心 7つの哲学物語(講談社現代新書)はロボット、心の哲学に焦点を絞り込んだ現代哲学入門書として非常に優れている。ダニエル・デネット『解明される意識』(青土社)デイヴィッド・チャーマーズ『意識する心 脳と精神の根本理論を求めて(白楊社)の前に読むにはちょうどよいだろう。しかしコネクショニズムの説明はもうちょっと何とかならないか。というか、わかりやすいコネクショニズムの説明というものを見たことがない。(個人的には多変量解析における変数空間の次元数の縮小と似ているように思う……という説明が常識的にわかりやすいとはもちろん言えないが。)

 関曠野『民族とは何か』(講談社現代新書)新書の鬼の点数は相当辛いが、どちらかというと良書だと思う。前著に対する宮崎哲弥の評がこれにもだいたい当てはまる。「プロテスタンティズムの倫理と民族主義の精神」論はあくまでも、彼なりの共和主義構想を開陳するための手段にすぎないんだよね。
 新書の鬼の批判は実証史家ならではもので、第2の批判などは関どころかウェーバー図式を援用する大半の「歴史社会学者」に当てはまってしまう。たいがいの社会学者はウェーバーがおおざっぱにデフォルメしたプロテスタント北・西欧イメージで「ヨーロッパ」をひとくくりにして、中・東・南欧だのカトリックだの正教だののことはきれいさっぱり忘れている(というかそもそも視野に入ってない)。(試みに佐藤俊樹『近代・組織・資本主義』ミネルヴァ書房、でも読んでみなされ。って品切れだよおい。他の点ではいい本なんだけど。)
 それでも関の本書は、現下の日本ナショナリズム批判としては中野敏男『大塚久雄と丸山眞男 動員、主体、戦争責任(青土社)よりも有効打を放っているとは言えまいか。中野とか、あるいは岡真理とかの論法にはゴリゴリのモラリズムの臭いが濃厚であり、政治的な知恵があまりにも欠けている。
 たぶん中野ならば関を「日本という自己同一的な主体をでっちあげることにこだわる加藤典洋と同断の輩である」と切って捨てるだろうが、中野や高橋哲哉なども、例えば小泉義之が示唆するごとく「自分の方でも『それを解体するため』と称して結局日本という主体をでっちあげる羽目になっている点で五十歩百歩だ」と言えまいか。実際、「日本という自己同一的な主体」が無根拠な妄想であることを力説しつつ、中野や岡や高橋には「ではいかにしてそれと手を切るか/それを無害化するか」という戦略が欠けている。それはつまり「人はなぜそのような無根拠な妄想に引き寄せられてしまうのか」についての具体的な把握が欠けているということでもある。それゆえ彼らの書いたものを読んでも、伝わってくるのは「無根拠であるにもかかわらずというかそれゆえにこそ強烈な呪縛力を持つ日本という同一性についての妄想の強力さ」だけである。となればそこから出てくる対抗戦略もただの根性論、精神論の域を出ない。あっ、これじゃ戦時中と一緒やんけ! 
 (加藤のことは知らないが)小泉ならば「日本なんて妄想は無根拠だし、見かけほど強力でも何でもない。」と言い捨てて、歴史的事例や文学作品の中にその具体的傍証を求めるだろう。そして関ならば「日本という妄想にはそれなりの根拠がある。ということは、それなりの限界もあるということだ。そして目指されるべきは、日本という妄想自体の拒否ではなく、その無害化である。」というかもしれない。
 ちなみに、関は本書でベネディクト・アンダーソンアントニー・スミスなどのナショナリズム論をサーベイしているが、政治思想を論じるところでは先行業績やライバルに言及していない。しかし、問題意識や発想法において相当にハンナ・アーレントマイケル・ウォルツァーと呼応し合うものがある、と付言しておこう。


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