伊藤邦武『偶然の宇宙』(岩波書店)には少しがっかりした。ジョン・レスリー流の「世界のアンサンブル仮説」に基づく「強い人間原理」の擁護に対しては、(他ならぬレスリー『世界の終焉』青土社、の「終末論法」ともども)イアン・ハッキングの言う「逆ギャンブラーのディレンマ」によってかなりのダメージを食わせることができることは、著者の指摘のとおりだろう。しかし著者はそこであえてレスリーの肩を持ちたいようなのだが、結局説得力なく終わっている。
ひょっとしたらベイジアンの考え方で「逆ギャンブラーのディレンマ」をひっくり返せないか、などと素人考えをめぐらすのだが、伊藤自身がベイジアン意思決定理論の検討もしていたはずではないか?(伊藤『人間的な合理性の哲学』勁草書房)
話題の酒井邦嘉『言語の脳科学』(中公新書)、チョムスキアンの現時点での到達点を知るためのよい啓蒙書ではないでしょうか。「統語論」と「意味論」の区別はたしかに常識に属するが、それがこれほど深い意味を持っていたとは知らなかった。乱暴に言うと「意味」は(動物や機械にも共通する?)普遍的な(それだけに社会に応じて多様な現れ方をする)現象だが、「文法」は人間に固有の(それだけにすべての人間において基本的に同じ)現象である、ということか。言い換えると、意味論は文化相対的だが、統語論は「普遍文法」というくらいで普遍的だ、と。言語学門外漢は言語を「シンボル操作の体系」くらいに考えているわけだが、実は言語とはもっと特殊なものらしい。
要するに脳は特定のプロセスで進化してきて、特定の機能を果たすように特化してきたきわめて特殊なシステムであって、テューリングマシン(コンピュータ)のような万能マシンではない、というわけだ。(コネクショニズムもこういう立場だと思っていたのだが、本書ではコネクショニズムの言語研究が痛罵されていて笑えた。)
しかし現代の認知科学の大勢はこんな風に、一方では世界の中での人間知性の特殊性、たとえば脳というハードウェア、更には人間身体との不可分性を強調する方向に、そして他方では人間世界の中での知性の普遍性を強調し、文化相対主義を見直す方向に行っているようで、伝統的な哲学や人文社会科学にとっては少々つらいところだ。(この伝で行くと、意識をソフトウェアと同一視し、「強いAI」の立場をとるデネットは、実は伝統的なサイドに立っているわけだ。つまり彼は知性の宇宙的普遍性を信じているのである。)
天神に宿を取る。周囲には巨大書店が目白押しというか、少なくとも横浜より書店環境がいい。西南の生協も明学よりまし。まず生協でドナルド・E・ブラウン『ヒューマン・ユニヴァーサルズ』(新曜社)を買う。オーソドックスな、つまり文化相対主義全盛時に訓練を受けた社会人類学者が、年をとってから考え直し、進化心理学などを勉強した成果。
2日続けてジュンク堂でしばしぼうっとする。ハンナ・アーレント『カール・マルクスと西欧政治思想の伝統』(大月書店)、小野紀明『政治哲学の起源』(岩波書店)を買ったが、ふと棚を見ていて『中世思想原典集成20 近世のスコラ学』(平凡社)が目にとまり(近世?)、ぱらぱらとめくって目を剥く。『インディアス破壊を弾劾する簡潔な叙述』のラス=カサスに、国際法先駆者のビトリア、それにスアレスなど政治・法思想史上の重要文献が目白押しである。(いや、そんなこといえばこのシリーズ全部そうなんだけど。パドヴァのマルシリウスとかソールズベリのジョンとか。)しかし、お高い。
博多ラーメンばかり食うもんじゃないな。