2003年2月

2月19日

 計量経済史家がよってたかっていろいろ言ってるNBERのカンファレンス記録Globalization in Historical Perspectiveが楽しい。とりあえず不平等化についてのLindert、Williamson、O'Rourkeらのペーパーやその他関連文献をネットで漁る。単行本[amazon]も今年中に出るようで。誰か翻訳せんかな。かつて産業革命についての数量史研究で名をあげたNicholas Craftsも最近はグローバリゼーション研究をしているのね。Krugmanの共同研究者Venablesと共同報告をしている。
 それにしても、かつては有力大学にしか置いてなかったようなWorking Paperがどこでも読める、ええ時代になりましたなあ山形はん。誰やIT革命はインチキだとかぬかしたんは。

 というわけでウソツキ小僧の山形浩生『たかがバロウズ本。』(大村書店)[bk-1amazon]、なぜか反グローバリズム弱小左翼出版社から出ております。(刊行予定のタルド著作集に期待大。)しかし何というか、研究史を踏まえ、テクストクリティークもやった上で言いたいことをきっちり言う、折り目正しくきちんとした文学研究のお手本になってるところがミソ。英訳すれば英文学の博士号は楽勝で取れる。しかしこれじゃあホントにあとにはペンペン草も生えませんな。テクストクリティークなどふっとばした(実は雑誌と単行本の異同のチェックは少しだけやったがあんまり意味がないと思ったので飛ばした)私ごときの仕事でもナウシカ研究を不毛の荒野にしてしまったわけですから、ここまで徹底的にやってしまってはもう日本のバロウズ産業の復興は望み薄だ。
 ちなみに私の同僚約一名が罵倒されてますが、まあしゃあないですな。

 それより何よりここ十年以上も噂されていたエドワード・P・トムスン『イギリス労働者階級の形成』(青弓社)の翻訳ですが、どうやら今度こそ本当に出るようですぜ。どうします。「約1,200ページ/定価20,000円+税」ですぜ。

2月10日(12日修正)

 試験が終わると入試。雑事に追われてとっぴんしゃん。

 永井均『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦(産業図書)[bk-1amazon]、「哲学教科書シリーズ」のうつくしいフォーマットをひとりでやぶってええんですかほんまにそれで満足ですかとゆーかせんせ『転校生とブラック・ジャック』(岩波書店)[bk-1amazon]にしてもそれほどまでにこのセミナー形式が気に入られたんですかとゆーかそれより『世間体至上主義の倫理学』が読みたいと思うのは私だけでしょうかとかいろいろ思うところはあるがとりあえず推奨。「利己主義」と「独我論」の同型性(同一性ではない、もちろん)の話がはっきり出されていて少し安心。

 若田部昌澄『経済学者たちの闘い エコノミックスの考古学(東洋経済新報社)[bk-1amazon]、猪瀬メルマガの連載をまとめたもの。経済政策思想史の入門書に好適。近々『東洋経済』に出る書評をも参照。

 前評判がヤケに素晴らしいアントニオ・ネグリ&マイケル・ハート『〈帝国〉』(以文社)[bk-1amazon]だが一読しての感想は「だめだこりゃ。」巷にひどい本ダメな本はいろいろあるので、それを基準にして考えるならばまずまずの本だがそういう相対評価じゃやっぱいかん。左翼再生の指針を提供するというその課題に照らして考えればやっぱり不合格。所詮はローティーの言う「文化左翼」に過ぎないし、それを差し引いても悪い意味でオーソドックスなマルクス主義者なんだ。そりゃネグリはいろいろ身体を張って頑張ってきた人だということは認めるが、それとこれとはまったく別だもんね。
 比較的マシなのは〈帝国〉概念を政治思想史と国際政治史の文脈の中で提起してくるところ。ポスト冷戦体制を「新しい中世(グローバル社会において統一的権威は確立しつつあるが、統合権力は成立していない)」と捉える議論より一歩進んで、すでに「帝国」が出現しつつある、という議論は、いわゆる「グローバル・ガバナンス」論あたりと対話できるレベルには達しているように思う。ネグリは政治思想史についてはプロだし、国際関係論にはネグリたちにもなじみやすいポストモダン左翼の潮流もすでに確立しているから、やりやすかったんだろう。
 反対にダメなのが経済分析。主流派経済学を完全になめていて、まともに勉強していないつけが回っている。クルーグマンやスティグリッツやせめてセンくらい、いやボールズ&ギンタスくらい読めとゆうに。反グローバリズムを批判して、対抗帝国=対抗グローバリズムの必要を説くまではいいが、そこから先がどうにもならない。「マルティテュード」のお題目を繰り返すばかりだが、それっていったい昔の「労働者階級の国際連帯」とどう違うんですか? 
 要するにポストモダンがどうのこうの言っても結局は非常に古典的なマルクス経済学の枠組みを出られていない。どういうことかと言えば、九分通り古典派経済学、徹頭徹尾「供給側」の論理しかないのだ。おまけに裏返しのシュンペータリアン(というかシュンペータが裏返しのマルクスなんだが)で、「危機が(究極的には解体に導くにせよ、当面は)資本主義の進化を促す」と本気で信じている。こういう左翼が転向したときに最悪の「市場原理主義者」になるんだって。
 ところで、古典派経済学とマルクス経済学のわずかな違いといえば要するに階級闘争論だ。日ごろの地道なルーティンワークはもとより、イノベーションにおいても、生産力の本来の担い手は労働者階級で、資本家はそれを簒奪しているだけ、資本家なしでもやっていけるはずだ、だから排除しちまえ――と。これはもちろん間違っているのだが、どこがどう間違っているのかが大いに問題だ。
 不確実性と情報の経済学の発想を援用すれば、以下のような議論が可能である。労働者はプロレタリアート=無産者だから、能力やアイディアはあってもそれを実現する資源(資金を含めて)が手もとにない。だから資源を提供してくれるスポンサーを必要とする。更に、新しい試みはしばしばリスキーであり、無産者はそのリスクに耐えられない。それゆえリスクを負担してくれる保険者が必要となる。資本家とは、その意味ではスポンサーにして保険者なのである――と。これだけじゃ金貸しと実業家の関係の話と区別がつかなくなる(というか、全然別の話というわけじゃないのだ)が、ネグリたちの議論のレベルに合わせるんならこれで充分だ。要するにプロレタリアート(労働者ないしマルティテュード)の潜勢力を実現するためには、ある種の媒介が不可欠であり、資本主義においてはそれを資本家が引き受けてきた。仮に資本家の追放が可能だとしても、媒介の必要性は消えない。たとえば、銀行から金を借りる代わりに協同組合金融を作る(マイクロファイナンスですな)とか、資本家に雇われる代わりに生産協同組合を作るとかいう風に。(指令型計画経済では潜勢力の実現はできない。指令型計画は不確実性を処理できない。)資本家の追放が革命ではなくカタストロフになっては何にもならないというに、どうもネグリたちはこの辺のデリケートな問題に無頓着すぎる。
 たぶんジル・ドゥルーズはもっとデリケートだったろうと思う。ネグリの「マルティテュード(多数者)」の概念はよく知られているようにドゥルーズの「少数者」の逆説的な継承であるし、またマルティテュードの潜勢力の極限とは要するにドゥルーズ&ガタリの用語で言えばプロレタリアートの「器官なき身体」である。しかしドゥルーズは「器官なき身体」についてもう少し両義的でリアルで醒めた考えをもっていたように思われる。なぜなら『アンチ・オイディプス』(河出書房新社)[bk-1amazon]によれば「器官なき身体」とはフロイト的に言えば「タナトス」、死の欲動のことでもあるし、『千のプラトー』(河出書房新社)[bk-1amazon]ではファシズムを癌のような悪しき「器官なき身体」として考えている。ドゥルーズらによればファシズムそれ自体も生産的な「欲望する機械」なのであり、それだからこそ恐ろしいのだ。こういう揺らぎ、多方向への思考の同時展開があるからこそドゥルーズは(たとえ『知の欺瞞』の批判が完全にあたっていたとしても)読むに値する。
 ところがネグリたちはファシズムを単にブルジョワ的反動と片付けているだけだし、更に看過しがたいのは、ジョルジョ・アガンベンの「剥き出しの生」(『アウシュヴィッツの残りのもの』(月曜社)[bk-1amazon]、『ホモ・サケル』(以文社近刊)、等)の概念を意図的に誤読し、収容所的な剥き出された裸の生と、肯定的なマルティテュードの力の実現を強引につなげていることだ。こんな風に正反対に我田引水するくらいなら最初からアガンベンを持ち出すべきではない。
 「剥き出しの生」は人として生きるに値する生ではない。人が生きるためには他人と、他の生き物と、生物無生物で織り成された環境が必要である。問題はその環境をどう編成するか、だ。たとえばマルクス的共産主義をあえて肯定的に解釈するならば、それは決して「剥き出しの生」を営むプロレタリアートたちの世界ではない。そうではなく、あらゆる財が(ローレンス・レッシグの言う意味で)「コモンズ」であるような世界だ。もちろん現実の世界では、マルクス的共産主義が全面的に実現することはありえない。しかし「コモンズ」なき世界もまた――「剥き出しの生」の荒野であれ、あるいはモノであふれているが、すべてのモノが私有財産であり、「コモンズ」が存在しない世界であれ――、人の住まう世界ではありえない。ネグリたちは「剥き出しの生」からありとあらゆる豊かなものがあふれてくることを夢想しているのだろうか? そんなことはありえない。

 まああれです、労働者階級の国際連帯とグローバリズムのもとでのマルクス主義の明日について考えるなら松尾匡『近代の復権』(晃洋書房)[bk-1amazon]の方がずっと勉強になるよ。何より読みやすい。


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