2003年4月
4月21日
大塚英志『物語の体操 みるみる小説が書ける6つのレッスン
』(朝日文庫)[bk-1、amazon]、やっぱり素直にすごいとか思ってしまうわけですよ。これにせよ続編『キャラクター小説』にせよ、物語を批判し物語に抵抗する力を養い、物語の向こうにある(かもしれない)文学を憧憬する、という逆説のために書かれつつ、順接的に正面からの小説マニュアルとしても通用する、というものになっている、というのは。
ま、こういうマニュアルで小説の書き方覚えるやつがぞろぞろ出てくるのは気味悪いし、むしろこういうマニュアルは本来の物語への欲望とか文学とかを抑圧する力をもってしまうのではないか、という疑問も根拠ありですが、現状はそういう抑圧されるべき「本来」の「天然」の力自体が衰弱しているのかもしれないし。著者のマニュアルは、たしかに元気いっぱい「天然」の「野生児」には抑圧的にはたらくかもしれないが、著者の想定している読者は彼らではなく、かといってマニュアルを器用に使いこなすことにだけは長けた優等生でもなく、気力体力もなく器用さもない最低の子供たちに、とりあえずマニュアル練習を通じて最低の体力と技術だけをつけさせよう、というのが趣旨なわけで。
飯田隆『言語哲学大全III 意味と様相(下)』(勁草書房)[bk-1、amazon]はやっぱり電車・バスの中で読むのはつらい。
4月15日
金子守『ゲーム理論と蒟蒻問答』(日本評論社)[bk-1、amazon]を著者からご恵投いただく。なぜ俺に?
ゲーム理論と経済学の今日を憂い明日を拓こうとする快著。つーか社会学とか哲学の人も必読。しかし経済学素人にとっては要注意本でもある。何より、これを読んで安易な反経済学(「そーか経済学ってゲーム理論ってやっぱダメか!」)に走らないように(自戒自戒)。
4月14日
山下範久『世界システム論で読む日本』(講談社選書メチエ)[bk-1、amazon]、近代化論も(世界システム論を含む)従属論も共有する「日本特殊論」を壊そうという試みらしい。いまさらという気がしなくもないが、さて、お手並み拝見。
4月10日
大内弘『可能性感覚 中欧におけるもうひとつの精神史』(松籟社)[bk-1、amazon]、ムージル『特性のない男』から説き起こし、ライプニッツ可能世界論や地球外生命論争、SFまで射程に入れて広い意味での「ユートピア」精神史をつむいでいく。緻密ではないが楽しい。現代哲学の「可能世界論」にパンピーが求めて得られないものって要するにこういう話なのだな。一応「可能世界論」の主戦場ってまだ意味論だし。(ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』にもちょっぴり可能世界論が使われていたが本質的には不必要だった。)David Lewisの可能世界実在論が翻訳されないかな。
舞城王太郎『九十九十九』(講談社ノベルズ)[bk-1、amazon]、なんですかこれはいったい。清涼院流水は承知の上なんですか。でしょうけど。でも少なくともギャグとしては清涼院より面白いです。とりあえず最後まで読んでみます。
4月9日
小泉義之『レヴィナス 何のために生きるのか』(NHK出版)[bk-1、amazon]を読む。『弔いの哲学』(河出書房新社)[bk-1、amazon]以降論証抜きの断言体が増えてきて、それが『なぜ人を殺してはいけないのか?』(河出書房新社)では完全に裏目に出て、『ドゥルーズの哲学』(講談社現代新書)ではトホホなところまで落ちてきていた小泉だが、今回はどうか。
90年代の「他者論」ブームの立役者としてのレヴィナスの読まれ方を拒否しようという問題提起はきわめてまっとうである。しかし「単独者」の方向にではなく「人類」という絆の根拠付けのためにレヴィナスを読むという試みは、どれほど成功しているのか? 特定の「誰か」についてではなく「人」一般について性急に問いを一般化させてしまったがゆえに『なぜ人を殺してはいけないのか?』は失敗したのではなかったか? もちろん『全体性と無限』(国文社)[bk-1、amazon]が繁殖論で締めくくられているということの意義はどれほど強調しても足りるものではない。そして繁殖を考える以上「類」の問題は避けて通れないが、なおたどられねばならないステップは多そうである。こうしてみるとレヴィナスはハンス・ヨナス、立岩真也などとあわせて読み直されねばなるまい。
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