2003年7月

7月11日

 amazonでスペルベル&ウィルソン『関連性理論』(研究社出版)[bk1amazon] の関連書として紹介されていた石崎雅人・伝康晴『言語と計算 3 談話と対話』(東京大学 出版会)[bk1amazon] を図書館から借りて読み、驚倒。主たるテーマは語用論への計算論的接近だが、ブラットマン『意図と行為 合理性、 計画、実践的推論(産業図書)[bk1amazon] の行為の意図理論、更にその後のFaces of Intention: Selected Essays on Intention and Agency, Cambridge U. P.[amazon] 収録の論文における共同行為・共有意図理論までもがきっちりフォーマライズされて取り込まれている。あわてて「人工知能」「マルチエージェント」関連の文 献をいくつか借り込んでくる。

 しかし前々から思ってたけど、「理論社会学」というジャンルはおそらくもうだめだな。行為理論に関しては哲学、言語学、認知科学、人工知能、ロボ ティク スに水をあけられっぱなしだし、システム理論の方もルーマン死後はまったくぱっとしない。このままではたぶんゲーム理論とマルチエージェントシミュレー ションに占拠される、ということは経済学者、社会心理学者、人工知能研究者にお株を奪われる、ということだ。現に数理社会学会機関誌『理論と方法』とか見てるとずいぶんゲーム理 論関係が多いもんな。
 問題はただ単に「インフォーマルに提出した新アイディアを、あとからやってきたハードサイエンスの徒にフォーマライズされてもっていかれる」ということ ではない。パーソンズ以降、そしてルーマン以降、「理論社会学」はそもそも横取りされるに足るアイディア自体をもう長らく出していないのではなかろうか?  

7月8日

 くさしてるばかりでは能がないので、日本人がポストコロニアルだのサバルタンだのごちゃごちゃ言うならやはり石原保徳を読みましょう、と いうことであらためて『世界史への道』(丸善ライブラリー、[bk1、 amazon 前 編後 編])。

 新訳で出たイタロ・カルヴィーノ『見えない都市』(河出文庫)[bk1amazon] を入手、電車の中でめくる。

7月4日(7日、9月17日修正)

 崎山政毅『サバルタンと歴史』(青土社)が図書館に入ったので借り出してパラパラ。あんまりよくない、というか使えない本だ。同じテーマ を扱ったものなら岡真理『記憶/物語』(岩波書店)[bk1amazon] などの方がはるかに明快で読みやすい。その上で内容に対して苦言を呈すなら、岡に対してと同様の批判が成り立つ。ぼく自身のものとしてはここを、より明快で核心を突いたものとしては 内田樹のここを 参照されたい。他に崎山自体への感想として目に付いたのは伊勢田哲治のこ れ
  岡のように明解に書けないなら、つまりは理論的掘り下げや、ジャーナリスティックな論点の整理、あるいは素人への啓蒙の才能がないのなら、崎山は代表=代 行主義によるサバルタン的経験の横領の危険をあえて冒してでも、一次資料やフィールドに依拠した実証研究に邁進すべきだ。サバルタン研究によるサバルタン の横領への批判はもちろん必要だろう。しかしそういう批判をしてポイントを稼げるのも、そもそも批判対象たるサバルタン研究があるおかげだろう。となれば 安全圏からの批評ではなく、自ら手を汚しての研究をした上での自己批判こそがまっとうなサバルタン研究批判なのではないか? 
 それから崎山はいったい今世紀における社会主義の教訓をどう受け止めているのだろうか? CIAなどの介入によるアジェンデ社会主義政権潰しが汚い真似 であり、そのあとのピノチェト軍政がろくなもんじゃなかったのはそのとおりだろう。しかしではあのクーデターがなくアジェンデ政権が生き延びていたら、チ リはどうなっていただろうか? せいぜいよくてカストロのキューバと同じような状況に落ち着くのが関の山ではなかっただろうか? もちろん、もっと悪く なった可能性もある。
 関曠野なども言うように、社会主義、あるいはマルクス主義の運命には何と言うか、歴史の底深い悪意のようなものを感じざるを得ない。抑圧や搾取、暴虐に 抵抗するまぎれもない正義の運動が、マルクス主義の旗を掲げてしまった――掲げざるを得なかった? という事実。そして幸運にも(不幸にも?)勝ってし まった運動が、マルクス主義や社会主義、共産主義による社会再生を試みたがゆえに、時にかつて以上の地獄を実現してしまったという事実。この歴史の悪魔を 如何に祓うか、という難題は崎山に限らず、多くの左翼によって棚上げされてしまっている。もちろん「勝つ見込みのほとんどない闘いの最中に勝ったあとのこ となど心配している暇はない」かも知れない。しかしそういう言い訳が許されるのは、苦しい抵抗の現場にいる当事者(サバルタン?)であって、遠くにいるシ ンパの知識人には大いに気に病む暇も金もあるはずだ。
 資本主義とグローバリズムへの抵抗は時に短期的、局地的には正しいだろう。しかしその否定は、基本的には誤りだ。資本主義への抵抗を正当化しつつ、その 上で資本主義を基本的には肯定する思想が必要なんだろう。

7月3日

 中林真幸『近代資本主義の組織 製糸業の発展における取引の統治と生産の構造(東京大 学出版会)[bk1amazon] を店頭で見かけるが、衝動買いするには高すぎる。金が入って時間ができたら古本屋で買おうかな。講座派の学統に連なりつつ、歴史制度分析と計量経済史双方 の道具をもきっちり使いこなす豪腕の大秀才、今年の日経賞レースでガチガチの鉄板、サントリーも本命である。

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