2003年8月

8月30日

 アントニオ・ネグリ『マルクスを超えるマルクス 『経済学批判要綱』研究(作品社)[bk1, amazon]、どーにもうざい。なぜこんなにうざいのか。前提とされているマルクス主義的教養が既に過去のものとなっているからか。そのことに無頓着に本書を流通させようとする連中のバカさ加減にむかつくからか。
 と思いつつ『コンクリート・アイランド』の前に読んどこうとバラード『クラッシュ』(ペヨトル工房、版元倒産)をめくっていてはたと気が付く。やっぱりネグリはおめでたいのだ。マルクス的プロレタリアートというのはドゥルーズは多分気づいていたんだろうが変態、倒錯者である。貨幣というフェティッシュにやられた変態がブルジョワジーだとしたら、機械というフェテイッシュにやられたのがマルクス的プロレタリアートだ。問題は、そんな機械フェティシズム(普通に言う「メカフェチ」なんてなまやさしいものじゃない)なんて凄いビョーキには、現実の、生身の人間はそうそうかかれるもんじゃないし、またかかりながらもそれに適応して生き延びることは相当難儀だ、ということだ。ドゥルーズ流に言えば「欲望する機械は壊れることによってしか作動しない。」だからほとんどの欲望する機械は生まれてはすぐさま壊れて消えていく。まれにほんの少しのものだけが、生き延びて再生産され、安定したパターンを形成して世界を変えていくのだが、そういう新種が登場するまでは無数の変種の屍が累々というわけだ。そして多分「機械フェティシズム」に適応して生き延びた新種は、もはや我々と同じ「人間」ではない「怪物」だろう。だから小泉義之は「怪物を肯定せよ」と言うし、ハンス・ヨナスは「人類を生き延びさせよ」とそれぞれ正反対の立場から言うのだ。
 バラードの70年代三部作というのは、この機械、テクノロジーへのフェティシズムについての先駆的分析だと言える。もちろんバラードが描いているのは、いまやほとんど我々の現実と地続きの世界だが、まだまだ過渡期だ。テクノロジーを新たな欲望の対象とする新種の「怪物」はまだこの地上には登場していない(そんなものが本当にありうるのかどうか自体実はわからない)。しかしこの「怪物」への予感はたしかにある。テクノロジーに魅入られて人間以外の何かに変貌しつつ、しかし「怪物」になりきれずじたばたする者たちが描かれている。
 本書を見ても、ネグリの「反人間主義」は残念ながら、とてもここまで及ぶようなものではないようだ。「政治主義」ってのは所詮「人間」の手の内じゃないか。

8月29日

 『地 図と磁石』更新。

 夏休み中ご多分に漏れず自宅のノートにMSブラストをもらって難儀する。まだ黙らせ方がわかっただけで駆除していない。つーかダウンロードサイト混み過ぎ。

 取り急ぎお勧め品をいくつか。竹内洋『教養主義の没落 変わりゆく学生エリート文化(中公新書) [bk1, amazon]、おしまいに珍しく(この人としては)直球の「教養の復権」への展望なんか語ったりして。
 山本弘文『武士と世間 なぜ死に急ぐのか(中公新書)[bk1, amazon]、非常に見通しよくすっきりしている。
 土井健司『キリスト教を問いなおす』(ちくま新書)[bk1, amazon]はボンヘッファー(反ナチ活動で死刑になった神学者)を読んだことない人ならまあ読んでもいいかな、と。(実は俺もボンヘッファー自体は読んでないか。)というか、たまたまキリスト教の中に生れ落ちてしまった人間が気にするべきことをいろいろ書いた本であって、キリスト者でない人間ももちろん同じ問題を共有しているわけだが、それと向き合うためにキリスト者になる必要はない。ボンヘッファーってそういう問題を提起した人ではないか。「反宗教 としてのキリスト教の奨め」みたいな内容は、なんか読んでてところどころやはりボンヘッファーを継承したハーヴェイ・コックス『世俗都市』(新教出版社、絶版)とかぶる。

 J・G・バラード『コンクリート・アイランド』復刊(大田出版)[bk1, amazon]はとりあえずめでたい。なんか60年代の『結晶世界』(創元SF文庫)とかいまだに読めないんだが、70年代の『ハイ-ライズ』(ハヤカワ文庫品切)は面白かった。

 医学都市伝説から印象深い二つのレビュー。ブラックジャックによろしく私のブッシュ!

8月7日

 『地図と磁石』更新

 古い本だがヴァレンティノ・ブライテンベルク『模型は心を持ちうるか 人工知 能・認知科学・脳生理学の焦点(哲学書房)[amazon] を地元の本屋で購入。相変わらずニューロがわからん、というか「回路」という考え方について一度きちんと勉強しなきゃいかんらしい。


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