2003年10月

10月30日(11月3日修正)

 新著『経済学という教養』の初校ゲラを突っ込みました。なんとかの 知る人ぞ知るリフレ本ブーム仕掛人(にして同時にミスター規制緩和三輪芳朗の 担当でもある)N氏(いや別に伏せる必要はないんだけど、断りなく書いちゃアレだし)の編集によって、東洋経済新報社から、やろうと思えば年内には出せま す。問題は販売戦略ですな。年末は一杯出て埋もれる危険が……。

 小田中直樹『ライブ・経済学の歴史 〈経済学の見取り図〉をつくろ う(勁 草書房)[bk1, amazon]、 類書がなかったわけではない。学史プロパーというより経済史家の手になる、編年体ではなくテーマごとの章立てというものなら猪木武徳『経済思想』(岩波書店)があったが、しかしはっきりいってこっちの方 が面白いから、四の五の言わずにとにかく買え。
 「素人の素人による素人のための経済学史」は同時に「教養としての経済学入門」にもなっているのだ。
 言うとくが、うちのサイトにあった『経済学史講義ノート』は営業の観点から閲覧不可にします。

 田中秀臣・野口旭・若田部昌澄『エコノミスト・ミシュラン』(大田出版)[bk1, amazon] については、これに 付け加えることはな 〜んにもございません。

 『世界』の2ch論文ですっかり有名というか心ならずも岩波文化人の仲間入りをさせられた観のある北田暁大の新著『責任と正義 リベラリズムの居場所(勁草書 房)[bk1, amazon] で すが「俺がこういう本を書きたかった!」というと誉めすぎですか? まあ欠点はいろいろある。「リベラリズム」と言いながら経済政策論はない(だから本来 の意味での福祉国家論もない)し、リベラリズム論にとってのアキレス腱というべき国際関係論もないし。でも俺の『存在証明』と共通する問題系を俺よりはる かに厳密な形で追究してくれているのは非常にありがたい。社会学的・ポストモダン的規範理論をきちんと批判しかつ救済するというのは非常に重大なテーマで すね。
 まるまる一項を費やしてなされている『存在証明』の最小国家導出過程論の検証については、改めてコメントさせていただきます。

10月9日追記

 たった今中西洋『日本近代化の基礎過程 下 長崎造船所とその労資関係:1855〜1903年(東京大学出版会)[bk1, amazon] が届く。いやな予感はしてたんだが……『日本近代化の基礎過程 別巻 三 菱会社の生成・展開・解体:1871〜1885年の刊行が予告されています。
 下巻の「補章 近代日本の<人・企業・国家>」だけだったら、素人も読む甲斐がじゅうぶんあると思います。図書館に入れてもらおう。つーか これだけ別冊にして売らんかな。

10月9日

 仕事で必要があって『大航海』の「ゲーム」特集を見たら三浦俊彦の エッセイがフランク・ティプラーのオメガ点理論(Frank J. Tipler, The Physics of Immortality: Modern Cosmology, God and the Resurrection of the Dead, Random House[amazon], 日本語文献としてはデイヴィッド・ドイッチュ『世界の究極理論は存在するか』朝 日新聞社[bk1, amazon]、 参照)を扱っていて激面白かったので、『論理学入門』(NHKブック ス)[bk1, amazon] を読んだり三浦俊彦の世界から論文をダウ ンロードしたり。ナニ、イアン・ハッキングの「逆ギャンブラーの誤 謬」論による人間原理批判は誤ってるだと? 少なくとも伊藤邦武『偶然の宇宙』(岩 波書店)のハッキング理解も、それを援用してのジョン・レスリー『世界の終焉 今ここにいることの論理青土社[bk1, amazon]) 批判も、かなり不適切なようだ。
 ついでにドイッチュのページもみる。相変わらずブッ飛んでます。「量子計算理 論」を支える「量子コンストラクター理論」ってなんだあ?

 別にエドワード・サイードが死んだからというわけではなく、知識人 論を復習しようと思った際にふと思い出したので『知識人とは何か』(平 凡社ライブラリー)[bk1, amazon] を買う。「知識人はアマチュアである」んだそうだやっぱり。

 ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生(以 文社)[bk1, amazon] もついに出ましたな。しかし何でみんなネグリとこの人を並べて論じるんや。格が違うと思う。
 しかし「回教徒」の概念にはあやうさもあるな。大体(実際にアウシュヴィッツでされていた言葉遣いとはいえ)ネーミングが悪い。それからこれはインコミ 前々号の鼎談で斎藤環が言ってたことにも通じるが、これって一種の 「動物化」だよね。だから「動物化」論と相通じる危うさがある。つまり冷静に考えれば「動物化」それ自体は良いとも悪いとも言えないということ。つまり、 「動物化」してもしなくてもその人次第という世の中では、ある個人がマターリ「動物化」することを誰も責められない。ただし、みんながみんな「動物化」し たら社会が成り立たなくなるおそれがあるので、全然問題にならないわけではないけど、そこはそれ、問題の構造は少子化とかと一緒ですよ。
 収容所は人を無理に「動物化」させていたわけだが、レッシグなどが問題としているような現代の管理社会の状況下では、多くの場合人は自ら選んで「動物 化」しているのではないか。たしかに、社会の全面的な「動物化」はまずかろう。だが他方で、「動物化」した方がいい人、するしか生きる道のない人もこの世 にいるのではないか。「動物化」させる権力を批判することが、そうした人々の居場所を無くすことにつながっては、やはりまずいのではないか。
 そいえば正高信男『ケータイを持ったサル 「人間らしさ」の崩壊(中公新書)[bk1, amazon] のテーマも結局は「動物化」だよね。

10月1日

 ということで避難所をつくりまし た。ご利用ください。

 先に翻訳に苦言を呈したチウェ『儀式は何の役に立つか』の訳者安田雪の新著『働きたいのに… 高校生就職難の 社会構造』(勁草書房)[bk1, amazon] をせっかくだから読んでみると、意外に(というと失礼か)良書。
 本来今は亡き四谷ラウンドから出るはずが、版元倒産の憂き目にあったところを勁草が拾ったということで、関係各位の努力をまずは多としたい。しかしなが らおそらく本来一般書として出される予定だったわけで、文体もジャーナリスティックだし字も大きい。しかし価格設定がいつもの勁草、つうか人文系学術教養 書の相場に準じてしまっているのが惜しい。どうせなら勁草向けに学術書っぽく書き直すべきだった。(あるいは思い切って安くするべきだった!)きちんとし た調査を踏まえているようで、インタビューやアンケートの解析はあるが、著者の売りである「ネットワーク分析」が少なくとも表立っては用いられていないよ うに見えるのもちょっと気になる。
 だが主張は明解である。要するに多くの高校生は真面目に働こうと思っているし、企業の方でも働いてほしいと思っている。にもかかわらずいろいろな事情で (その辺は本書を直接みてあげてください)ここには不幸なすれ違いがおきているのだ。そのすれ違いを減らすには、両者ともコミュニケーションスキルを磨く ことはもちろんだが、それ以上のきちんとした政策的対応が不可欠である――ん? これってあれじゃないの、チウェのテーマであるcommon knowledgeの問題そのものじゃないか! お互いに認識が共有されているだけでは不十分で、その認識の共有についての認識自体がまた共有されていな ければならない――って。「さびしいのは、おまえだけじゃない」ってか。
 あちこちセンチメンタルな記述が目立つのは好悪が分かれるところだろう。ぼく個人はあまり悪印象は持っていない。まあでも「人は他者の痛みを知ることな しにより良い社会を目指せず、社会学は暗闇を見つめずに光を探すことはできないのだろう。」(224頁)とか書かれると「そらあんた、なんでも一緒や」と 突っ込みたくなる。
 たとえば、以下の記述を読んでどう思われるだろうか? 
「労働経済学や経営学が重視するのは、結果として労働市場に参入してきた者のもつ技能や資質と、労働に対する報酬のバランスだけである。
 しかし社会学は異なる。(中略)人々を様々な職業に結びつけ、その社会的地位と報酬を一時的にせよ甘受させ、社会に埋め込んでいくしくみとその功罪を問 うことにこそ、経済学も政治学も倫理学もが担いえぬ、社会学の存在意義がある。」(223-4頁)
 これを読んだら「経済学や経営学を馬鹿にするな!」と怒り出す人もいるかもしれない。まあそういう怒りにも一理はあるだろう。ここには社会学者にありが ちな、経済学帝国主義への反発の裏に隠された社会学全体主義とでもいうべきものがにおわないでもない。(「経済学は所詮人間の一面しか見ない。社会学こそ が人間の全体をつかむのだ!」)しかしぼくがここに読むのはむしろ、著者の深い孤独感である。そう、おそらく著者自身もcommon knowledgeの欠如に悩んでいるのだ。同じことで悩んでいる人間が、経済学者にも経営学者にも政治学者にも倫理学者にもいることを知らない(頭では わかっていても実感できない)のだ。だから皆さん、著者に言ってあげてください。「あんたはひとりとちゃうで」と。


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