2004年1月

1月23日

 20日にはまたまた国立の吉原直毅氏の研究会に行く。立岩真也氏に会いに行ったようなもの。
 テーマは『自由の平等』(岩波書店)[bk1, amazon] であるが、出たばかりでみんなまだ読んでなどいない。またそもそも難しいし、分析的にいえばまともな論証といえない飛躍の多い話だし、であまり盛り上がら ない。(インパクトという点ではやはり『私的所有論』に及ばないと私は思う。)が2次会の酒席ではなぜかみんな俄然調子が出てくる。毒も吐く。そこでつい 「そもそも『自由の平等』という題名自体が根本的に間違ってる、『平等主義と誤って呼ばれているなにものかについて』にすべきだ」と迫ると「いやぼくも 『平等』はいやだと言ったが岩波に押し切られた」と立岩氏。やはり岩波ダメだ。

 最近亀和田武が朝日読書面のコラム「マガジンウォッチ」で書いていたように、かつてはキチガイのカルトだった保守論壇が徐々にだが成熟してきて目 配りも バランスもよくなってきている今日、逆に「リベラル」メディアの方がかえって目配りもバランスも悪くなってきている。この観点ではまだ総体としては「リベ ラル」優位だがいつ逆転しないとも限らない。大塚英志や金子勝が登場するようになってきたあたりから注目していたが、たとえば『諸君』の12月号な んて大笑いだ。大月隆寛の妬み嫉み全開の駄文はご愛嬌だが、油断するといつ当の小熊英二本人が連れて来られて「正統保守思想としての戦後民主主義」につい て語らせられないとも限らない。
 とは言え裏モノ日記1 月19日の唐沢俊一ほどには楽観できない私である。17日には「平和を願い、人類が愛につつまれることを望む多くの反米反戦派の心の底に、“こいつら、早 く攻撃を受けて死ねばいい”というドス黒い期待が渦を巻いていることであろう。」などと書いているが、ところがどっこい、反対側にも同じことを考えている 奴らがいるのだ。たとえばここを参 照。今日びバランスのとれた意見というのは、たとえば朝日の論潮に載っていた加藤朗の「イラクに行く自衛隊の使命はアメリカへの義理だけ果たして無事に 帰ってくること」だろうが、どうもこういうよい意味での事なかれ主義は軽々と踏み越えられていきそうだ。
 ブッシュや石原はもちろんのこと、こいつらに比べればぬるめの小泉だって油断ならない過激な革命屋なんだ。唐沢さん、甘いよ。

1月13日

 稲葉振一郎『経済学という教養』(東洋経済新報社)[bk1 amazon]。

 ポール・クルーグマン『嘘つき大統領のデタラメ経済』(早川書房)[bk1 amazon] であるが、これほどまでにコラムニストとしてのクルーグマンが切迫した危機感、そして使命感に駆られているとは思っていなかった。おそらく彼自身もこんな ことになるとは思ってもみなかっただろう。同時代の証言としてきわめて有意義であるし、また彼のような天才ではないにしても「こっちもやらねば」という気 にさせられる。
 また既によく指摘され彼自身も認めるところの、本書の方法論の価値、「ワシントン・サークル」(日本でいえば「記者クラブ的ジャーナリズム」か?)の外 にいるにもかかわらず、ではなく、その外にいるからこそ、つまりマル秘のニュースソース、ディープスロートからの極秘情報なんかに頼らないからこそ、真実 を的確に見抜けるのだということは、どれほど強調しても強調し足りない。ホント日本の新聞の政治経済記事なんか見てると「分析」の欠如にほとほと絶望す る。
 そう言えばかつての旧ソ連研究、クレムリノロジ―の世界でも似たような逸話があったそうな。クレムリンの密室政治に関する予言をバリバリ的中させてきた とある碩学が「あなたのニュースソースは?」と問われて「プラウダ」とこたえたとか。

 小熊英二『清水幾太郎』(御茶の水書房)、立ち読みだけの感想で書くのはよろしくないのだろうが、しかし(これまでの小熊本がいず れも お値打ちお買い得感が高いせいもあろうが)1000円の金を出して買う気には到底なれないのだ。ひょっとして小熊の最も悪いところが端無くも出てし まったのではないか。
 そもそもうすっぺらいブックレットとはいえ、1冊丸まる清水の不毛さを淡々と説明するだけでは、読み物として成立しない。 大冊『民主と愛国』の中でなら、吉本隆明や江藤淳への冷たい、鼻も引っ掛けないあしらいもそれなりのバランスをもって成立しうるが、これで は「じゃあなぜこんなつまらない奴についていちいち説明しなきゃならんのだ?」という後味の悪さだけが残る。
 それに吉本や江藤のように今日なおある程度読み継がれている書き手にならともかく、ほぼ完全に「過去の人」と化した清水相手にこういう冷淡な書き方をす るのは気の毒、というか逆効果である。吉本や江藤に対して冷淡に振舞うことは、「敢えて」無視・軽視するわけで、それ自体ひとつの雄弁な振る舞いとして意 味を持つ。しかし既に忘れられつつある「死んだ犬」清水についてそんなことをして、いったいなんになるのやら? 「へー、そう?」でしまいではないか。
 我々に共通の師匠であるところの見田宗介の「相手をその低みにおいてではなく、その高みにおいて乗り越えること」という訓えを持ち出すのは野暮というも のだろう。結論的に言えばたぶん、吉本も江藤も清水も不毛で矮小で凡庸でネガティヴな存在なのだろう。しかしこ こでも論じたように、アーレントの「悪の凡庸さ」ではないが、不毛で矮小でネガティヴなものの力、たとえばルサンチマンの力というものがれっきと してあるのだ。現在までの小熊の方法では、それには迫れないのではないか。
 それに言うまでもないことだが、小熊の射程の中に置くならば、吉本も江藤も清水もいずれも、いくぶんかは「戦後民主主義」の内部の当事者たちである。彼 らの不毛はいくぶんかは、戦後民主主義の不毛でもあるはずだ。
 小熊についてはむしろ、現在準備中であるというアメリカ研究の刊行に期待したい。10年前の大学院の紀要『相関社会科学』第 4号に「市民と武装:アメリカ合衆国における「武装権」試論」なる非常にブリリアントな論文が掲載されている。


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