2004年9月

9月29日

 田中ユタカ『愛人〈AI-REN〉』(白泉社)第5巻)[bk1, amazon]、熱心な支持もあってか、雑誌連載終了後2年を経ての完結。傑作か? というと疑問も残る。が、間違いなく誠実な良作である。いわゆる「セカイ系」、あるいは「萌え」美少女マンガにおける現時点での到達点かもしれない。もちろん一般読者に受け入れられる普遍性をも備えている。
 雑誌連載時の最終話のことはもうよく覚えていないのだが、かなり変わっている。あまりにもご都合主義と疑問の多かった「呪い」の抗体の話が消滅し、「呪い」とともに人類が生きていくことになったのは、理にかなった変更である。ただ4巻までの話との整合性が、これによって少し損なわれた感じがする。テーマ的には『ナウシカ』や『寄生獣』の重力にやはり引き寄せられたか、という感じがしなくもない。ただし「呪い」の後の世界の肯定を、理屈によってではなくよりはっきりとした感情をこめて描くことにおいて、本作はやや前進している、といえよう。
 この点からしても、連載時の、死者の霊(?)たるイクルとあいの再会、によってではなく、遺された子どもの満面の笑み、によって全巻が閉じられることになったのも、正解ということになろう。

 スティーブン・ピンカー『人間の本性を考える 心は「空白の石版」か(NHKブックス)上[bk1, amazon]・中[bk1, amazon]・下[bk1, amazon]、今回はかなり早い翻訳。しかもこれまでと違い、注と文献も一応訳してある。反省したのか。

9月21日

 河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス 治安の法社会学(岩波書店)[bk1, amazon]、犯罪と一口に言っても交通事犯から財産犯、凶悪犯とそれぞれまったく違う、という基本から出発し、統計的な「検挙率低下」説のトリックを暴きだして、少なくとも凶悪犯罪に関する限り日本で発生件数の増大も検挙率の低下も起きてはいない、と主張する。暗数推定に「犯罪被害者統計」を利用するなど、玄人には当たり前なのかもしれないが素人にとっては「ああなるほど」と思わせる指摘満載で結構説得力あり。で、問題はにもかかわらずなぜ「安全神話崩壊」、つまり客観的にはそれほど悪化していないはずの治安について、人々は主観的に大きな不安を抱くようになっているのか、について、「社会全体のゾーニングの解体」仮説ともいうべき解釈を提出している。悪所がなくなり、ヤクザが弱り、かわって住宅街で悪ガキのへたくそな引ったくりが増えてくる――というわけだ。
 関連書とはいいがたいが、中嶋博行『罪と罰、だが償いはどこに?』(新潮社))[bk1, amazon]も非常にシンプルだが面白い。
「どうせ大部分の犯罪者は更正しない。だからといって厳罰化したところで、犯罪防止にはならないし、刑務所がパンクしてしまう。となれば、犯罪者を罰するとか更正させるとかいうことは刑事政策のマクロ的目標としては二の次にして、被害者救済をメインにしてはどうか? つまり民刑分離を止め、付帯私訴による損害賠償請求を大々的に復活して制度化しては? 刑務所は民営化して生産性の高い工場に変え、そこでの労働によって被害者への賠償をさせては? そして賠償が終わらない奴のためには債務者監獄を復活させては?」
 昔似たようなことはぼくも考えたことがあったのだが、二つほどの難点があると思ってそこで少し思考が止まっていた。ひとつには、障害などのせいで責任能力がない、とまではいかなくとも支払能力がない場合にはどうするか? という点。もうひとつは、それだと結局、支払能力の差によって不公平が生じるのではないか、金持ちの犯罪者の方が貧乏人の犯罪者よりも有利になるのではないか? という点。この点についてもちろん本書もそれなりに考えている。
 しかし実際、民刑分離以降の近代的刑事司法は、本来的に被害者には関心がないのだ。刑罰は復習によって被害者を癒すためにではなく、将来の犯罪への抑止のためにある、というのが『リベラリズムの存在証明』でのぼくの結論である。で、それでは被害者は確かに救われない。「修復的司法」という考え方もあるが、万能ではないだろう。とするとどうすればいいか? 本書はその問題についてのひとつの解答例だろう。
 残る論点はもちろんある。民刑分離にはもちろん問題はあったが、それなりに理由もあった。損害賠償とは別に刑罰というものが必要になる理由が。中嶋の提唱する民刑並行のシステムにおいても、その二つの区別が失われて、一方が他方に解消されるようなことがあってはまずいはずだ。

 昨年暮れに地味に出た澤田康幸『基礎コース 国際経済学』(新世社)[bk1, amazon]であるが、ちょっと変わった本だ。著者は国際経済学畑というより、経済学のPHD持ちとはいえどちらかというと開発学畑の人という印象を受ける。これまでの業績も途上国における債務危機・通貨危機と、農村エリアにおける人的投資や貧困削減というあたりがメインである。
 そういう人が書いただけあって、本書は国際貿易論、国際金融論、開発経済学、という三つの分野への入門を1冊でカバーしようという、最近では類書のないものになっている。クルーグマンらの空間経済学の紹介もあってその意味でも野心的だが、単にもりだくさんというだけではなく、全体を通じて一本の線を通そうとしているという印象を受けた。
 そういう観点から見ると書のツボは「第1部・国際貿易論」では「7.国際的な生産要素移動と貿易の利益」、「第2部・国際金融論」では「11.経常収支の決定理論」、そして「第3部・開発経済学」では「16.債務危機と通貨危機」、ということになる。まず7章で国際資本移動をミクロ的な視点から異時点間の貿易と解釈し、11章でマクロ的な視点で経常収支と結び付けて「貿易黒字・赤字自体は必ずしも病理ではない=国が債務を抱えていること自体が直ちに問題なのではない」と論じ、それを踏まえた上で初めて、16章で「ではどうして途上国において債務危機が起きてしまうのか」を解いていく、というわけだ。
 「応用経済学からマクロが消えてしまった」というウッドフォードの慨嘆にかつて強い印象を受けただけに、開発のマクロ経済学をちゃんと説明してくれる教科書が出てきてなんだかほっとする。(しかしそれにしても国際マクロってややこしくてわからん。小野モデルだとわかりやすいが何だかシンプルすぎて逆に不安だ……。)

9月6日

 増田悦佐『高度成長は復活できる』(文春新書)[bk1, amazon]を読み、少し頭を抱える。角栄以後の国土計画、中央と地方の「格差是正」が諸悪の根源だというのは一理あるが、まあそれこそ「構造」レベルの話で、90年代不況とは別の問題のような気がする……。

 佐藤卓己『言論統制 情報官・鈴木庫三と教育の国防国家(中公新書)[bk1, amazon]を読む。快著である。貧窮から身を起こし、総動員・翼賛体制下の言論・出版統制をリードした知識人軍人の、一次史料を駆使した評伝。やむをないこととは言え、かえすがえすも2・26前後期と終戦前後期の日記の喪失が悔やまれる。

 もうじき最終第5巻が出る田中ユタカ『愛人〈AI-REN〉』(白泉社)をまとめ読み。
 最悪のタイミングだった。例の事件と思いっきりダブる。


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