2004年11月

11月26日(12月8日補足)

 昨日のに少し補足する。ぼくが言いたいことは以下のとおりだ。小泉義之の言う意味での「変身」がない限り、あるいは人間を受け継ぐ別の「怪物」が出現しない限り、コミュニズムは無理だ。身体―機械としての人間の基本的なスペックを根本的に変えるか、あるいはそのおかれた環境の方がやはり根本的に変わらない限り、コミュニズムが支配的な仕組みになるような社会は実現しえないだろう。
 なお「別館の別館」の方に石塚良次さんがコメントしてくださったのでついでに言うと、大川『マルクス』と大庭健『所有という神話 市場経済の倫理学(岩波書店)が共有しているダメさを列挙してみる。
 まず第一に新古典派経済学、特に「法と経済学」の所有論をまったく勉強していないこと、第二に、これと関連するが民法学の議論をやはりまともに勉強した形跡がないこと。
 第三に、ある意味理論的な不勉強以上に問題なのは、現実の「所有」なるものの複雑怪奇な実相をまともに考慮に入れていないこと。たとえば農業史や開発経済学をちょっと勉強すれば、世界各地の様々な農地制度、土地所有制度の多様さ複雑さに眩暈がしてきて、少なくとも「私的所有/共有/公有」程度の雑駁な図式では何もわからないことくらいはわかるはずだ。
 第四に、所有と市場の関係についてまともに考えた形跡がないこと。たとえば「所有なき市場」は不可能、とは言わないまでも非常に不自然な代物でしかありえないが、「市場なき所有」は十分に自然である。私的所有と市場とは互いに密接な関係にあるが、イコールではない。
 そして第五に、市場のみならず所有もまた、それ自体が人と人、そして人とものとを結びつける仕組みに他ならないということがよくわかっていないこと。所有と市場は「人々が囲む食卓のように、人々を互いに引き離し、かつ互いに結び付ける」アレントの意味で「公」的な仕組みなのである。

11月25日(26日修正)

 大川正彦『マルクス いま、コミュニズムを生きるとは?(NHK出版)、せっかくいただいといてなんですが――ダメだよこれ。全然ダメです。前の『正義』(岩波書店)[bk1, amzaon]の方がずっといい本、ましな本だ。あの本は北田暁大『責任と正義』(勁草書房)と並ぶ「負け犬リベラリスト宣言」として大変貴重な本だったけど、そこで踏みとどまらずに「コミュニスト宣言」しちゃったらだめだよ。「いや、してない」と言うかもしれないけど、結構誘惑を感じてるじゃない。そんなものは決然と撥ね付けないと。当初予定されていた「幸福な奴隷は自由を望みうるか?」がテーマだったら、ひょっとしたらすごく面白いものになったのに。(もちろんそれではそもそもマルクス論にはならなかったかもしれないが。)
 具体的に言いますよ。延々と基本的なことを確認した(もちろんそれは悪いことじゃない、というか入門書として必要なことだ)挙句に、本書で最終的に問われるもっとも肝心な問いは、ぼくの考えるところでは、これだ;  そしてそれに対する答えは――  うーん、なんだかただの精神論、根性論のような気もするが、ではよく考えたとしていったいどうなるか、考えてみよう。〈働く身体と苦しみ痛む身体の二重性〉というのは結局どういうことかと言えば、人間はものをつくると同時に、ものを消費して生きざるをえない、ということだ。大川のいうのとは違って「働くこと自体が楽しいから報酬はいらない」などということはありえない。いくら働くこと自体が楽しくったって、身体は消耗するから何らかの報酬が、消費して気力体力を回復するための何かが必要となる。
 消耗するのは何も働いたときだけじゃない。何も有用なものをつくらない、単なる遊びのときだって、消耗する。大体遊びと労働の区別自体流動的だ。それ自体が楽しいものであるような労働は、同時にいくぶんかは遊びだし、遊びは消耗するけど、まさに楽しみを生産するという意味でいくぶんかは労働だ。そして更に重要なことは、働きもせず、かといって遊びもせず、何もしていない時にも人間は消耗し、生を維持するための糧を必要とする、ということだ。消耗と苦痛はイコールではないが、苦痛を覚えるときは普通消耗している。そして厄介なことに、苦痛を覚えていないとき、楽しんでいる時でさえも、そして既に見たとおり、何もしていない時にも消耗する。〈受苦的存在としての人間〉というのはこういうことだ。肝腎なことは、働かない/働けない人間はいても、消耗しない人間はいない、ということだ。――あれ、こう考えるなら〈受苦的存在としての人間〉という視座を大切にしてきたのは、まず何よりも、マルクスがあれほど馬鹿にした功利主義者たちだ、ということにはならないか? 
 実際問題として、功利主義は市場主義とイコールではない。功利主義者たちにとっては市場だろうが計画経済だろうがなんだろうが、目的達成のための手段にしか過ぎない。実際社会主義を支持した功利主義者だってたくさんいる。そして市場経済を支持したからといって、市場で稼ぐ能力をもたない者の幸福を無視したりはしない。彼らの幸福の実現のためには市場が役に立たないとなれば、他の手段に訴えることを功利主義者はまったく躊躇しない――やっぱり功利主義者の方が、マルクス主義者よりよっぽど〈働く身体と苦しみ痛む身体の二重性〉という視座、あるいは〈受苦的存在としての人間〉という視座を大切にしてきた、ということになるじゃないか。
 やっぱりマルクスには、あるいは百歩譲ってもマルクス主義は、それこそ山之内靖がしつこく言ってきたとおり、〈受苦的存在としての人間〉という視座が相対的に欠けていたんじゃないか。そしてマルクスが俗物呼ばわりして嫌った功利主義のほうにむしろそういうセンスがあったとするならば、この欠落は偶然ではなく、何か確固たる理由があるんじゃないか――ぼくはそう考える。
 より具体的に言えば、仮にマルクスに〈受苦的存在としての人間〉という視座があったとしても、それは不徹底であったか、あるいは偏ったものであったのではないか、とぼくは考えるのだ。もちろんマルクスの考える新しい「社会的人間」は〈働く身体〉に偏っていたとは思う。しかしまったく〈苦しみ痛む身体〉としての側面が無視されていたとは思わない。つまりそれは「集合的身体」として、他人の痛み苦しみ(そして喜び楽しみ)をもわがこととして感受しうる身体としてもイメージされていた。マルクスが重視する受苦性とは、そういう類的な共感能力ではなかったろうか。しかしそのような感受性は、自然必然的に備わった受動的性質というよりは、訓練によって獲得される積極的な能力という側面が強いのではないか。
 20世紀のコミュニズムが「排出と大量殺戮」してきた「無用な者」たちは、必ずしも「うまく働かない身体、能力をもつ以前の無能な身体たち」だけではなかったのではないか。「ブルジョワ分子」として粛清された篤農家や企業家、そして知識人たちのように、どちらかといえば有能な、しかしマルクス的な意味での「受苦へのまなざし」を十分に身体化できなかった(と見なされた)者たちもまた、まさに新しい「社会的人間」になれない「無用な者」として「排出と大量殺戮」されてきたのではなかったか。
 つまりあれですよ、単純に言ってしまえば、人間性というものはそう簡単には変わらない、という、マルクスの言う意味でのコミュニスト的な受苦性なんかよりもより、もっとずっと根本的な意味での受苦性です。ピーター・シンガーがマルクスを批判したバクーニンに肩入れしたり、あるいは「ダーウィン主義左翼」なんて口走る時に気にしてるのもこれ(『マルクス』雄松堂出版[bk1, amazon]、『現実的な左翼に進化する』新潮社[bk1, amazon])。あるいは小泉義之『生殖の哲学』(河出書房新社)[bk1amazon]で考えているのもこの問題。もうはっきり言ってるもの。「たしかに人生観や政治観や社会観程度のものなら変えることは簡単ですが、本当の意味での変身は、私たちには無理です。」(120頁)人間が人間のままでコミュニズムが要求する「社会的人間」になることは、ぼくは無理だと判断する。そのことの理由は不十分だけど、『経済学という教養』で既に言ってある。

11月23日

 立岩真也『ALS 不動の身体と息する機械』(医学書院)[bk1, amazon]、いつも思うのだが、立岩さんはタイトルのつけ方(本書もそうだが、本書の原型となった『現代思想』の連載「生存の争い ――医療の現代史のために」もまた見事だ)をはじめとして、ことばのひねり出し方が非常にうまい。文章も非常に巧みである。とは言え、普通の意味でのうまい文章ではない。たとえばアドルノを引き合いに出してよく言われるような、「安易にわかられる・わかった気になられることを避けるために、わざと難しく書く」というやり方をとっているようにも見える。ただこのアドルノを引き合いに出して正当化されるような文章とは、立岩さんの文章の難解さは少しばかり違う。事柄自体が複雑で手におえない、そういう主題を、丹念に、できるだけその事柄の複雑さ、難しさそれ自体をわかってもらえるように、愚直に書く、ということを目指しているように思われる。立岩さんが難しいことを書いている場合には、問題は本当に難しいか、あるいは立岩さんの思考がまだ不十分で、問題についての見通しをまだきちんとつけていないか(率直に言えば、『自由の平等』の場合はこちらに当たると思う。この本で言われていることのうち、わかりやすくかつ有意義な部分は既に『私的所有論』で言われてしまったことであり、それを超えること、特に所有レベルには還元しきれない、市場レベル固有の問題については、立岩さんの思考はいまだに十分煮詰められていない)のどちらかである。少なくともそこには、俗流アドルノ派的なこけおどしはない。立岩さんは本当に慎重に、事態を正確にあらわし、かつ読み手にもそれがわかってもらえそうな表現をつねに探している。
 そして本書であるが、タイトルの巧みなことはもちろんだが、その中身の文章がある種(悪い意味ではなく)文芸作品と呼べるものになっていることに注意を喚起したい。とはいえ本書は、これまでの立岩さんの単行本とは違い、実証的な調査研究のモノグラフとしても読めるものになっている。ご本人は「実証研究としてはとっかかりに過ぎない」と謙遜しておられるし、ある意味でそれはそのとおりなのだが、日本の医療社会学の現状から言えばやはりパイオニア的な意味をもつだろう。
 本書はALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者や家族、その他関係者の証言を公開された文書を中心に集め、分析したものであるが、本文の過半はまさにその引用そのものからなっている。「ベンヤミンみたいだ」という感想をあえて口にするのはあまりにかっこ悪いことだが、立岩さんの手で見事に配列されたこの引用そのものが、その圧倒的な量の迫力もあるが実に読ませる。もちろん「読ませる」だけではなく、この国における「安楽死」についての通念を裏切るファクト・ファインディング――それはこの間市野川容孝が執拗にこだわってきた問題でもある――もまたそこから浮かび上がってくる。
 ぼくが現在日本でもっとも信頼している左翼知識人というのは、実は立岩さんなのだが(あと決して全幅の信頼を置いているわけではなく、結構ひやひやしながら見守っているという感じなのが小泉義之さんである。『現代思想』11月号での二人の対談はとても面白い――ことにピンカー『人間の本性を考える』が出たばかりの昨今というタイミングで読むならば。)、それはなぜかというと、まずはもちろんこのような研究者、書き手としての誠実さによる。そして第二に、そこから浮かび上がってくるそこはかとない――内田樹の言い方を借りれば――「とほほ」感である。自信がない、というのではない。何ごとか正しいこと、正義を語ろうという人は、つまるところ「権威」を打ち立てなければならないのだから、自信がなければ困る。しかし同時に何ほどかの「とほほ」感がないのも、やっぱりこまりものだ。
 「誰にでも間違いはあり、無論自分も例外ではない。それを認めることによって責任逃れをするつもりはないが、やはりひょっとしたら俺は間違っているということもありうる……」立岩さんはそういう気分を確実に読者に届ける力があるように思う。それは問題の複雑さ、手に負えなさをきちんと読み手に伝えようとする姿勢にあるのではないか。

 『自由の平等』をくさしたついでに一言。本書はリバタリアニズムならびに古典的リベラリズムの分配に対する消極論を批判することを目的のひとつとしている、とぼくは読んだ。ぼく自身としては、それより前にやっておくべきこと、つまり古典的リベラリズムが分配に関する消極主義をとることで何を守ろうとしているのか、それは守るに値するのか、は必ずしも自明ではないので、それを確認しておく必要がある、と思った。『リベラリズムの存在証明』はとりあえず、古典的リベラリズムの土俵の上にとどまる限りで何が言えるのか、を考えた本だったが、それは立岩さんも言うとおり、あまり成功しているとは――何か新しいことを提示できたとはたしかに言えない。それはひとつには、古典的リベラリズムが守ろうとするものの核心に、まだ十分に触れていなかったからではないか。
 リフレ論争のおかげで「ケインズ主義」についての考え方が根本的に改まったがゆえに可能になったことなのだが、『経済学という教養』でやろうとしたのは、権利論的なスタンスをとっていた『存在証明』の時よりもやや「功利主義」寄りの方向にシフトすることによって、古典的リベラリズムの核に対して、別な角度からアプローチしなおそう、ということである。それは"Teking Paretian Liberal seriously"とでも言うべきスタンスとなった。そして「平等・対・不平等」という軸よりもより根本的な対立軸として「弱肉強食・対・共存共栄(含むパレート効率的競争)」を重視すべきだ、という提案がなされたわけである。(付言すると橋本努の「成長論的自由主義」の問題提起もほぼ同じことを言っていることになるはずである。と言うより、おそらく橋本くんの方が早い。)
 そう考えると『経済学という教養』は、『自由の平等』の出鼻をくじいた仕事である、とうぬぼれていいのかもしれない。もちろんそんなことはぼくは意識してはいなかったが。しかし立岩さんのことを全然意識していなかったわけではない。ぼくが考えていたのは、立岩さんの予告している『停滞する資本主義のために』の出鼻をくじく、と言うよりもその本の出版を不可能としてしまうことであった。もちろん悪意でそうするわけではない。立岩さんに前向きな形でしかし根本的に考え直してもらうこと、プロジェクトをあきらめるのではなく、重大な針路変更をしてもらうことこそが本意である。ぼくの介入が成功したならば、おそらく『停滞する資本主義のために』という題名の本は出ない――とはいえ本は出てもらわなければ困る。ただしその本のタイトルは、もしぼくの目論見がうまくいっていれば、まったく別のものになっているはずだ。
 ……そのためにもちくま新書のほうを頑張らないと。

11月18日

 T・H・マーシャル『社会学・社会福祉学論集 ――「市民資格と社会的階級」他――(相川書房)[bk1, amazon]、戦後社会学における、ラルフ・ダーレンドルフとかラインハルト・ベンディクスなんかの非アメリカ的近代化論者(つうか比較歴史社会学者)たちにとっての心の師、要するにシティズンシップ論の元祖マーシャルの、これまた元祖シティズンシップ論、実はもう6年も前に翻訳されてたんですねえ。知らなかったでしょう。シティズンシップ論文だけなら、そのまた5年前に、トム・ボットモアの補論付きで、法律文化社から出されたんですけどねえ。しかし法律文化社もあれですけど、それ以上に「相川書房? 何それ?」とか思った方もおられるでしょうねえ。福祉・保育系の地味な本ばっかり出してる、地味な本屋なんですねえ。実はこの版元、マーシャルの主要著作全部邦訳出してるんですねえ。知らなかったですねえ。何つうか、真面目に宣伝すれば、福祉関係者以外にももっと売れるし、読まれるべきはずの本、古典というか基本図書のはずなんですがねえ。(といっても今日びダーレンドルフもベンディクスも古本屋でないと手に入りませんけどねえ。)同じ福祉系でも、東大出版会を戦慄せしめたという噂もある、商売上手のミネルヴァ書房あたりなら、うまく売ってくれるんでしょうがねえ。

 クリス・ソーンヒル『現代ドイツの政治思想家 ウェーバーからルーマンまで[bk1, amazon](岩波書店)、とっても役に立ちそうな本だ。

 仲正昌樹『お金に正しさはあるのか』(ちくま新書)だが、梶谷懐さんのこの書評はよい。

11月11日

 目の回るような忙しさ――というほどではないはずなのだが、元来無能なのでてんてこ舞いである。とりあえず100枚ほどまとめた原稿を二つ、それぞれの担当さんに見せてご機嫌をとる。
 ちくま新書の自然状態論は一体どんな結末になるのかほとんど検討がつかない。当初の予定の『経済学という教養』補論というよりは、『片隅の啓蒙』姉妹編という感じになりそうである。『大航海』の苦し紛れの原稿を書き直しているような、それと『存在証明』の間違いを訂正しているような感じだ。
 太田出版の長谷川裕一本には担当の落合さん(あの業界の核弾頭落合美砂をだまくらかして無茶な企画を通した私を誰か誉めて)が下働きの若い衆を見つけてくださったので少し肩の荷が降りる。

 昨今自分でも大切に思っていたものが二つ(スーパーファミコンからPS2への移植で大幅な劣化という神業を成し遂げた『重装機兵ヴァルケン』と、いわずと知れた『デビルマン』)ほど、心無い手によって汚されてしまったらしいのだが、それを悲しむというよりは祭りを面白がっている自分がいる。つくづく、汚れた大人になりました。

 個人的には講談社現代新書のリニューアルがなんとしても気に入らないのだが、とりあえず永井均『私・今・そして神 開闢の哲学[bk1, amazon]は買わないわけにはいかない。で、これを読んで鈍いぼくにもようやく、永井が何をしようとしているのかが少しわかってきた。ぼくを含めた永井のファンの多くは、やはり永井哲学を一種の実存哲学として読んできたのだと思う。永井もまた、そう受け取られることは仕方がないと観念しつつ、仕事をしてきた。ところがどうやら『マンガは哲学する』以降、少なくとも永井自身は、ひとつの壁を越えた、と、つまりわかる奴には自分の目指すところがわかるはずのところに――少なくとも自分を実存哲学と誤読する者に対して、自信をもって「あんたの間違い」と言えるところにたどりついた、と思うようになったらしい。それがぼくには『転校生とブラックジャック』の時点でもなおわからなかった。しかし本書を読むとかなりはっきりとそれがわかる。いや、永井哲学が十分に理解できた、というのではない。しかし少なくともそれが〈私〉の実存を巡る苦悩などとは基本的にはまったく別の何かについての、もっとドライで醒めた、しかし眩暈のするような思考遊戯であることはわかった。おもわず佐々木能章『ライプニッツ術 モナドは世界を編集する(工作舎)[bk1, amazon]もつまみ読みしたりして。

 大塚英志『物語消滅論 キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」(角川ONEテーマ21)[bk1, amazon]、クソ、どんどん先に行きやがる。こちらができることは結局、後追いして荒いところを詰めるくらいになってしまうのか? 

 積ん読をいくつか。
 大森琢磨『サフォーク・システム フリーバンキング制か、中央銀行制か(日本評論社)[bk1, amazon]は19世紀アメリカはマサチューセッツに自然発生した商業銀行間の信用システムが、ハイエク的フリーバンキングだったのか、それとも自生的中央銀行システムだったのか、という問いを主に後者の線で追究していく。
 大沼保昭『在日韓国・朝鮮人の国籍と人権』(東信堂)[bk1, amazon]、思わず衝動買いしたがどうする。
 久しぶりで訪れた高円寺の都丸書店で購入したレオナルド・ベネヴォロ『近代建築の歴史』(鹿島出版会)[bk1, amazon]はとりあえずおうちに置いときましょ。


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