2005年1月

1月28日

 うまくいったらいよいよ来月末には『オタクの異伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界(仮)』(太田出版)が出ます。それで現在関係各位は悪戦苦闘の真っ最中。装丁・レイアウトはミルキィ・イソベだよ。対談に張り付いた膨大な注を処理するための異様に凝ったレイアウトに組版・印刷会社が泣いてるよ。
 まだ一向に題名が決まらないがまず絶対この題にはならないであろう『所有・市場・国家 自然状態のエコロジー(仮)』(ちくま新書)はとりあえず220枚まで来たけど今月脱稿はまず無理だよ。
 という風に忙しいから今回は流すよ。そのためのはてなだよ。

 いまや神林長平と並ぶ日本SF界の二枚看板の一方を担う谷甲州のハード巨編『パンドラ(上・下)』(早川書房)だけど、個人的にはあんまりおすすめしない。この評、またamazonの2005/1/21付「ミステリーファン」氏の評が非常に適確だと思うけど、なんというか、エイリアン像が非常に平板なのがファースト・コンタクトもの・侵略ものとしては致命的である。『終わりなき索敵』のときにも思ったけど、この人の資質に「異種知性体との接触」というテーマは向いていないんじゃないだろうか。
 人間社会でのリアル・ポリティックスや、軌道上での空間戦闘の描写における、ディテールの細密さや重厚さ、また小説としての全体的完成度においては野尻抱介『太陽の簒奪者』(早川書房)をしのぎながらも、生命とか知性とかについての思弁を見る限り、少なくともファースト・コンタクトの話としては負けている。大体「進化すると知性が向上する」という前世紀的思い込みを今更出されてもねえ。
 また人間社会の描き方にしても、たとえばそれこそレム的に、あるいはせめて『USA』『マンハッタン乗換駅』でのドス=パソス風に処理すれば、ずいぶん印象は変わっただろう。(フリッツ・ライバー『放浪惑星』(創元SF文庫)やジョー・ホールドマン『マインドブリッジ』(講談社文庫、絶版)はドス=パソス風SFの実例だろう。あと未訳だがジョン・ブラナー『ザンジバルに立つ』という大物がある。)
 ミリタリーSFの第一人者だが奇想の力はないジェリー・パーネルが奇想力だけは有り余っているラリー・ニーヴンと組んでヒットを連発したように、誰か合作者を見つけては如何か。

 スタニスワフ・レム『高い城・文学エッセイ』(国書刊行会)[bk1, amazon]はやはりすごい。「SFの構造分析」「メタファンタジア」「ウェルズ『宇宙戦争』論」「ストルガツキー『ストーカー』論」を読むと、レムがSFに求めていたものがなんだったのか、何ゆえの『虚数』『完全な真空』(ともに国書刊行会)だったのか、またなぜ小説が書けなくなったのか、がはっきりとわかる。(少なくとも初期の小松左京の問題意識もこれに似ていた。)以前翻訳されてた「メタファンタジア」を呼んでなかったのはかえすがえすも不覚。架空の歴史書の書評『挑発』がはやく読みたい。また『宇宙戦争』論と『ストーカー』論は内在批評というか「正しい謎本」にとっての完璧な模範である。
 書き手であると同時に仮借なき批評家であり、己に課する基準があまりに高すぎた、といえばいえるが、レムは普通の意味での「眼高手低」ではない。ル・グインやディックさえ怒らせ、ボルヘスさえ切って捨てるレムを満足させる書き手など、SFはおろか、主流文学にもそうはいない。レムが目指す高みというのは、まさに常人には、ひょっとしたら個人には及び得ないようなレベルなのだ。
 しかしレムの理想のSFは、あまりにも読者を選ぶ。それはステープルドンの年代記のように、普通の意味での小説、はっきりいうと「物語」の体裁をとることが難しい。しかし「物語」の体裁をとってないフィクションは、普通の読者には読みにくい。「いや最近は世界観そのものを楽しむ「データベース型消費」がある」というけど、レムの求めるSFでは、架空世界が単なるおとぎの国にとどまることがゆるされない。謎本やゲームの設定資料集のようにはいかない。
 しかしぼくのように文学を楽しむ素養に欠けているせいで、なんとなくレムは敬遠していた読者には、理論家にしてメタフィクショニストとしてのレムはかえって親しみやすい。
 なおトドロフの幻想文学論を罵倒しているのを見ると、「レムはSFに本気だったんだなあ」と思う。気持ちは分かるが、SF・ファンタジー評論は罵倒以前のレベルのものが圧倒的多数だからなあ。
 あとサバルタンに関連して、以下のパッセージは痛烈である。

 戸田山和久『科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる(NHKブックス)[bk1, amazon]、相変わらずの軽妙な入門書だが、『思想』2003年4月号の「自然主義」論文に続く形で、「科学的実在論マニフェスト」としての性格を持っている。「パラダイム」という言葉がごく自然に使われ、「社会構成主義」批判も行われている割には、クーンの「ク」の字も出てこないのはご愛嬌。
 おおざっぱに要約するとまず(1)観念論(社会構築主義はその現代版)・反実在論・実在論の間の異同をはっきりさせ、現在の科学哲学の主流を反実在論とした上で、実在論へのコミットを明言し、続いて(2)実在論にも非常に強くそれゆえ隙の多い「法則実在論」とナンシー・カートライト、イアン・ハッキングらの「対象実在論(介入実在論)」の区別があることを示した上で、後者を推し、最後に(3)論理実証主義以来の悪しき伝統としての、科学理論を文(命題)の集合体=公理系とみなす「文パラダイム」を批判して、むしろそれを公理系の作るモデルとみなす「意味論的パラダイム」を提唱する。
 野矢茂樹を意識して鼎談形式をとっているあたり、好みは分かれるだろう。個人的には塚本テツオ君がフランス現代思想オタクにはどうしても見えなかったです。

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