いまや神林長平と並ぶ日本SF界の二枚看板の一方を担う谷甲州のハード巨編『パンドラ(上・下)』(早川書房)だけど、個人的にはあんまりおすすめしない。この評、またamazonの2005/1/21付「ミステリーファン」氏の評が非常に適確だと思うけど、なんというか、エイリアン像が非常に平板なのがファースト・コンタクトもの・侵略ものとしては致命的である。『終わりなき索敵』のときにも思ったけど、この人の資質に「異種知性体との接触」というテーマは向いていないんじゃないだろうか。
人間社会でのリアル・ポリティックスや、軌道上での空間戦闘の描写における、ディテールの細密さや重厚さ、また小説としての全体的完成度においては野尻抱介『太陽の簒奪者』(早川書房)をしのぎながらも、生命とか知性とかについての思弁を見る限り、少なくともファースト・コンタクトの話としては負けている。大体「進化すると知性が向上する」という前世紀的思い込みを今更出されてもねえ。
また人間社会の描き方にしても、たとえばそれこそレム的に、あるいはせめて『USA』『マンハッタン乗換駅』でのドス=パソス風に処理すれば、ずいぶん印象は変わっただろう。(フリッツ・ライバー『放浪惑星』(創元SF文庫)やジョー・ホールドマン『マインドブリッジ』(講談社文庫、絶版)はドス=パソス風SFの実例だろう。あと未訳だがジョン・ブラナー『ザンジバルに立つ』という大物がある。)
ミリタリーSFの第一人者だが奇想の力はないジェリー・パーネルが奇想力だけは有り余っているラリー・ニーヴンと組んでヒットを連発したように、誰か合作者を見つけては如何か。
スタニスワフ・レム『高い城・文学エッセイ』(国書刊行会)[bk1, amazon]はやはりすごい。「SFの構造分析」「メタファンタジア」「ウェルズ『宇宙戦争』論」「ストルガツキー『ストーカー』論」を読むと、レムがSFに求めていたものがなんだったのか、何ゆえの『虚数』『完全な真空』(ともに国書刊行会)だったのか、またなぜ小説が書けなくなったのか、がはっきりとわかる。(少なくとも初期の小松左京の問題意識もこれに似ていた。)以前翻訳されてた「メタファンタジア」を呼んでなかったのはかえすがえすも不覚。架空の歴史書の書評『挑発』がはやく読みたい。また『宇宙戦争』論と『ストーカー』論は内在批評というか「正しい謎本」にとっての完璧な模範である。
書き手であると同時に仮借なき批評家であり、己に課する基準があまりに高すぎた、といえばいえるが、レムは普通の意味での「眼高手低」ではない。ル・グインやディックさえ怒らせ、ボルヘスさえ切って捨てるレムを満足させる書き手など、SFはおろか、主流文学にもそうはいない。レムが目指す高みというのは、まさに常人には、ひょっとしたら個人には及び得ないようなレベルなのだ。
しかしレムの理想のSFは、あまりにも読者を選ぶ。それはステープルドンの年代記のように、普通の意味での小説、はっきりいうと「物語」の体裁をとることが難しい。しかし「物語」の体裁をとってないフィクションは、普通の読者には読みにくい。「いや最近は世界観そのものを楽しむ「データベース型消費」がある」というけど、レムの求めるSFでは、架空世界が単なるおとぎの国にとどまることがゆるされない。謎本やゲームの設定資料集のようにはいかない。
しかしぼくのように文学を楽しむ素養に欠けているせいで、なんとなくレムは敬遠していた読者には、理論家にしてメタフィクショニストとしてのレムはかえって親しみやすい。
なおトドロフの幻想文学論を罵倒しているのを見ると、「レムはSFに本気だったんだなあ」と思う。気持ちは分かるが、SF・ファンタジー評論は罵倒以前のレベルのものが圧倒的多数だからなあ。
あとサバルタンに関連して、以下のパッセージは痛烈である。