2005年7月
7月13日
忙しい。まず校務が若干あるが、これがなんとも厄介である。それ以外にも今月は他所でいろいろと人前に出てお話しなければならない。
第一回目は7月8日、また一橋経研で吉原直毅氏のお座敷(規範理論研究会)に呼ばれて、ちくま新書の構想についてしゃべる。ちなみに目次は;
『所有・市場・資本』(仮)目次
プロローグ 自然状態からの社会契約
「社会契約論」のビッグネームたち/「自然状態」のエコロジー
T 「所有」論
1 戦争状態と所有
ホッブズが考えた二つの国家/ロックが描いた戦争状態とは?/ロックとホッブズ、それぞれの所有論/「エコロジカルな条件」に自覚的なロック/通説に収まりきらない『リヴァイアサン』/ホッブズをロック的枠組みで捉えれば?/ホッブズ的自然状態とは何か/ロック的パースペクティブの射程/ホッブズとロックの議論を整理する
2 国家の存在理由とは?
人間が社会を作る理由――ヒュームの場合/ヒュームによる国家出現のシナリオ/ヒュームはロックをどう批判したか/庶民を国家の成員とは見なさなかったロック/土地もち市民と庶民と国家/ヒュームにとっての国家に従うべき理由/契約・約束を可能にするコンヴェンション/人は社会秩序をどう捉えてきたか/ヒュームの「コンヴェンション」を解読する/コンヴェンションの具体例から分かること/ロックとヒュームの真の対立点とは?/ヒュームによる社会契約論批判のポイント/利益の有無を重視したヒューム
3 私的所有への批判の矢
ルソーにとっての「自然状態」とは?/ルソー「契約論」の二つのフェーズ/二つの批判の矢/アダム・スミスの応答
U 「市場」論
1 交換から分業へ
「交換」が生じる条件とは?/「分業」の誕生/「比較優位」という考え方/「交換」に第三者はいらない/「互酬」「再分配」「交換」という三つのメカニズム/交換をめぐる「おはなし」/交換に先立つ言語的コミュニケーション
2 交換の果ての市場
契約理論の二つのタイプ/市場は自然状態に戻れるか?/人と人を出会わせる仕組み/価格メカニズムがはたらく条件
3 市場への不安と懐疑と反発と
分業の不利益をも論じた『国富論』/市場経済をめぐる二つの不安/人がリスク回避的である理由/「不完全情報」という問題/日本の「長期雇用」に見る合理性/ギャンブルと市場競争の違い/市場経済は弱肉強食の世界?
V 「資本」論
1 「資産」とは何か?
市場での取引はすべて売買か?/「お金を借りる」とは、どういうこと?/売買と賃貸借の違い/「消費財」と「耐久財」/「大きいもの」ほど貸借の対象になる/「大物」でも誰かが所有している
2 「資本」のつくられ方
労働・資本・土地を商品と捉えたアダム・スミス/「資産の市場」という考え方/「資本」はどのようにして生じたか?/「略奪による市場経済」論/社会契約による市場ヘの移行――あるアナロジー/「市場的取引=売買」観のデメリット
3 「所有」の変容と株式会社
株式会社という面妖な代物/債権者と資本家の立場が逆転する?/資産としての企業組織/「所有」という複雑な出来事
W 「人的資本」論
1 マルクスの労働問題観
マルクスの歴史・社会理論を解く/「疎外された労働」という視角/「人的資本」と「労働力」の違い/二つの「過剰人口」論/「階級」としての労働者が生まれるまで/資産としての「労働力」を考える
2 「労働力=人的資本」論
ロック的国家と労働力/アレントの「労働/仕事/行為」図式/「知的所有権」の成立条件/「労働力=人的資本」を再考する/アレントの「仕事」論の弱点/「家畜の延長線上に労働者を置く」/プリンシパル―エージェント関係/
3 拠点としての「所有」
内と外の「セーフティーネット」/市場社会の二つの雇用形式/ロックの言う「庶民」は「半人前」だった?/財産権の主体としての労働者/修正後のロック的筋書き/「労働力=人的資本」を財産と見なす思想/「所有」の概念を見失ってはならない/「労働力=人的資本」は単なる欺瞞ではない
エピローグ 法人、ロボット、サイボーグ――資本主義の未来
法人企業とは「資本家なき資本」?/「株式会社=株主のもの」とは言い切れない/生身の人間としての国民と「国体」/国家を「人造人間」と呼んだホッブズ/自律型知能ロボットをめぐる社会科学的SF/ロボットと人は神の前で平等である/自律型ロボットが奴隷制を復活させる?/ある人の身体はその人の財産か?/人間がサイボーグ化する可能性/人間改造の行き着く果て/マルクス主義への二つの視座/「ポストヒューマン」への動き
参考文献
レジュメは;
稲葉振一郎『所有・市場・資本』メモ (規範理論研究会用) 20050708
1 所有と社会契約
a 自然状態
自然状態についてのエコロジカルモデルの基本発想は、Kennichi Sakakibara & Koichi Suga, "State of Nature and Property Rights Systems"(『早稲田政治経済学雑誌』355号、2004年)のそれとある程度共通している。
Sakakibara & Suga(2004)は単一財(コーン)経済のもとで、各プレイヤーが「生産、留守番、空き巣」の戦略集合を持っているとの想定の下で、単一財の初期賦存パターンと生産性というパラメータの変化に応じて、ゲームのナッシュ均衡がどのように変わるか、を考える。結果は、[生産性/財の初期保有量]がある臨界値を超える場合(つまり生産性が十分高い場合)にはナッシュ均衡は全員が生産に従事するロック的な自然状態、つまり「自然法のある無政府状態」となり、それを下回る場合には生産が行われず、各人は空き巣に走るか、それに備えて留守番するか、のどちらかとなるホッブズ的な自然状態、つまり「戦争状態」となる、というものである。
更にSakakibara & Sugaはこのゲームの動学化を図る。すなわち、世代交代と遺産相続という契機を取り入れることによって、時間の進行につれて各プレイヤーのコーンの初期保有量が増大していくようにした上で、均衡の経路を探る。結論としては当然、[生産性/財の初期保有量]が時間の経過につれて低下するのであるから、最初ロック的な均衡から出発しても、いずれこの比率が臨界値を割り、ホッブズ的均衡に移行する、ということになる。
ここで当然、今ひとつの動学化のシナリオが考えられる。すなわち、時間の経過によって起きる変化として、遺産相続、あるいは資本蓄積による財の初期保有量の増大、ではなく、生産性の上昇、としてみる、というものである。この場合はストーリー進行は完全に逆転する――といってみたくなるが、そう簡単ではない。出発点がロック的均衡にあれば、この均衡が時間を通じて安定的に持続する、ということになるが、ホッブズ的均衡からスタートすればどうなるか? そもそもホッブズ的均衡の下では、生産は行われない。生産が行われない状況下で、生産性が向上する、などということを想定する意味があるのか? という疑問が生じる。もちろん不確実性などを加味したよりリアルなモデルをつくれば、ホッブズ的自然状態下でも少数の逸脱者が生産を行い、生産性を上げ続ける、というシナリオもかけるかもしれないが。
生産性上昇と資本蓄積、双方の契機を取り込んだモデルはかなり複雑なものとなると予想される。拙著では生産性の変化という契機についての記述的説明しか取り上げられていない。
b 国家形成
拙著とSakakibara & Sugaとの第二の相違は、次の点にある。Sakakibara & Suga(そして先行業績たるOkada & Sakakibara, "The Emergence of the State - A Game Theoretic Analysis of the Theory of Social Contract ", The Economic Studies Quarterly 42 (4), 1991; Okada, Sakakibara & Suga, "The Dynamic Transformation of Political Systems through Social Contract: A Game Theoretic Approach", Social Choice and Welfare 14(1), 1997)においては、ロック的自然状態=秩序あるアナーキーの下では国家は不要であり、よって形成されないと考え、ホッブズ的自然状態の下では国家が有用となり、よって形成されうる、と考える。拙著ではロック的自然状態の下で、不確実性の克服のために(原)国家が形成される、というシナリオのほうがホッブズ的自然状態下での国家形成よりももっともらしいシナリオである、と考える。すなわち、ホッブズ的自然状態の下では国家形成は、望ましくはあってもそもそも不可能ないし困難であり、ロック的自然状態の下では国家形成は、ホッブズ的状況下ほどの切迫した必要性はなくとも、実現可能性という点ではより高い、とする。(全体としてはホッブズの「獲得」シナリオ、あるいはヒューム的構想が一番もっともらしい、というと身も蓋もないが。)なおノージック(1974)の最小国家導出シナリオも同様に解釈できよう。
ところで、拙著の、あるいはノージックのシナリオをフォーマルなモデルに落とし込むとしたら、どのようにしたらよいだろうか? この場合、やはり国家は一種の保険事業者としてモデル化すべきだろうか?
c 関係の非対称性
やや誤解を招く言い方をすれば、拙著では社会関係をとりあえずその根底においては非対称的なものとして捉えている。すなわち、ホッブズにおいては「設立」論よりも「獲得」論を、そしてロックよりもヒュームを、より「リアル」な認識を提供してくれるものと評価している。
大体の場合国家は征服によって設立されるものであり、企業にも発起人が存在する、ということである。ただし、対称性を志向する(とおぼしき)契約論的なパースペクティブが無意味であるわけではない。征服者による統治は、臣民による明示的か暗黙にかの承認なくしては存続し得ない。ここで契約論的視角が意味をもつ。
ただし普通の意味での契約は、たとえそれが非対称的(通常、契約には申込側と受諾側との非対称性がある)であっても、単なる事後的な承認とは質的に異なるものではある。すなわち、契約における非対称的なプロセスは、基本的には実行に先立つ計画の段階におけるものである。理想的な契約による事業においては、契約成立後の事業の実行においては、契約者間の関係はかなりの程度対照的になっていることが期待されよう。
「計画」と「実行」が区別される、とは、社会的に言えば、公共的なコミュニケーション空間が自立すること、を意味する。
2 市場・資本・人的資本
議論の順序として、まず最初に、「市場」とは独立に「所有」の議論を完結させ、その前提の上に「市場」論を立てる。その上で特殊なタイプの財産(商品)、「売買」されるよりはむしろ「貸借」される特殊な財産として資本(資産)、そしてこのような資産の取引の仕組みとしての「資産市場」(本源的生産要素市場)の議論を最後に立てる。
これは広義のポランニー主義(たとえばある解釈の下での宇野理論、また金子勝の「セーフティーネット」論)の、合理的選択理論からする批判的再構成として考えることができる。
なおここでももちろんいくつかの問題が残る。
ひとつには「人的資本」と「労働力」との異同である。本当にこれを等値してよいのだろうか?
いまひとつは、証券化の問題である。法人企業の株式はもちろんのこと、土地や知的財産に対しても、様々な証券化の技術が開発されてきている今日、やはり今日の市場経済は「売買」中心の社会に移行していく傾向があるのだ、とは言えないだろうか? 一応拙著では「株式・社債は法人企業の存在を前提としており、それを根底的に掘り崩すものではない」と論じているが。
「ロック的自然状態とノージック的自然状態とは有意に違う」と吉原氏に言われて戸惑う。後半の論点はあまり掘り下げられなかった。終わった後の酒席で少し議論になる。「フローではなくてストックということか」「ストックも消耗するではないか」云々。
なお研究会の音声記録もあります。関係者の許可があればここに上げてもいいけど、重いな。
ちくまの担当石島氏、そして太田出版の落合氏と高瀬社長が来る。酒席で高瀬社長が吉原氏に「そんなことで搾取と格差をちゃんと問題にできるのか」と詰め寄る一方で、肩入れしている生協運動について「あいつらホント全然分析がなくて勘だけでやっててどうしようもないんです、ひとつ先生『おまえらの生き延びるべき道はこうだ!』ときっちり理論的に教えてやってください」と頼み込む。下げたり上げたり大変。
高瀬社長は28日にも乗り込んできて立岩氏にやはり協同組合関係で仕事を頼み込むおつもりとか。
10日には学士会館のカフェで、上京した立岩真也氏とNHK出版の大場氏、加納氏とで28日の打ち合わせ。立岩氏、昼食の学士会館オリジナルカレーに「いかにも学士会館」とコメント。
終わった後、ひとり神保町に。空いていた小宮山書店で、安かったのでいろいろ買い込んでしまう。ポパー『客観的知識』、シュムペータ『租税国家の危機』、ウェルズ『神々の糧』(銀背はいつの間にこんなに安くなった?)、カー『ナショナリズムの発展』、藤田省三『全体主義の時代経験』、ポレツキー『絶滅された世代 あるソヴィエト・スパイの生と死』。
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