99年12月

12月31日

 性懲りもなく駆け込みで追加。
 ヘーゲル『イェーナ体系構想』(加藤尚武監訳、法政大学出版会)。ついに出た。旧全集版を底本にした『イエナ実在哲学』(尼寺義弘訳、晃洋書房)もすでにあるが、こっちの方が新全集版に依拠している上に、はるかに長い間の労苦の結晶であってレベルが高い仕事である。
 なお監訳者加藤氏によれば、未定稿のこれが実は、ヘーゲルが書いたものの中で一番きちんと練られて完成度の高いものなんだそうだ。『法の哲学要綱』『エンツィクロペディー』は口頭での補足を前提としたまさに講義要綱だし、『精神現象学』『大論理学』もろくに推敲されてない荒い書き物にすぎない、とのこと。とすると今までのヘーゲル研究って何だったんでしょうか、とか素人は慨嘆したくなるのであります。

 本館の方で熾烈な論争が開始されたのかもしれない。火元になった小野善康・吉川洋編著『経済政策の正しい考え方』(東洋経済新報社)自体は議論のネタに値する本だとは思わないが、小野善康『景気と経済政策』(岩波新書)や吉川洋『転換期の日本経済』(岩波書店)はよい本なので、関心がおありの方はそれらやあるいは中島隆信・吉野直行『公共投資の経済効果』(日本評論社)などを参照しつつ、これをじっくりと検討されたい。
 この論争、噛みあうものになるかどうかちょっとまだ予想はつかない。当初の山形氏の小野氏への噛みつきはどうも誤読というか不当なパラフレーズというかフライング臭いと思われたのだが、その後のこれなどを見ると、特に経済学と政策提言の関係についてそれなりに興味深い論点が出されてもいる。(ただし「パンクの原因と修理とは関係ない」というアナロジーはいただけない。明らかにカテゴリーミステイクというか不適切な比喩である。)
 本格的なコメントはまだ差し控えたいが、少し思うところを述べる。山形氏がいうとおり、理論的に「よい公共投資を」との指針を提示することは簡単だが、では具体的に何が「よい公共投資」なのか、誰がそれを判断するのか、はまた別の問題であり、これはこれで、というよりこちらの方がはるかに解くのが困難な課題である。これに対する解答を小野氏が提出できないことに山形氏はいらだっているが、私見ではこれは無い物ねだりである。少なくとも今日の主流派の理論経済学は、そのような課題に答えられる科学ではないし、それに答えることを目指した科学でさえない。この場合責められるべきは特定の経済学者ではなく、経済学という学問全体である。この点についてはこちらをも参照していただきたい。要するに「よい公共投資」とは、シュンペーター的イノヴェーションにのっかること、に他ならない。
 ただその上で、この程度のことは言ってもよいと思う。まず第一に、「よい公共投資」とは具体的には何か、は未知なる未来に属することなので容易にはわからないが、「悪い公共投資」やあるいは「(害はないが)役に立たない公共投資」とは具体的には何か、は既存の知識の範囲内でおおむね適切に判断できるだろう。その上で、「悪い公共投資」を避けてせめて「(害はないが)役に立たない公共投資」の範囲内でことを納める、という選択はありうるのではないか。つまり私は「穴を掘って埋めるだけ」でも十分に意味はあると考える。少なくともその間生み出された雇用は、あとに役に立つ資本を何も残さなくとも、雇用された労働力の陳腐化を防ぐだろう。この点につきここのWed Oct 28 19:15:31 JST 1998 From いなば をも参照のこと。
 第二に、仮に情報通信関連社会資本への投資が「よい公共投資」だとしても、そのような判断が可能であることの根拠は、結局は、この分野に関して日本が後発国である、ということに他ならない。その場合結局事態は故村上泰亮がその産業政策論・開発主義論でで語っていたものと構造的にほぼ同じものになるわけだ。

12月2日(3日修正)

 暇などないといいながら吉川洋『転換期の日本経済』(岩波書店)を読了。ええ、私、吉川洋氏に正直余りいい印象は持ってないんだけど、これは勉強になるいい啓蒙書だと思います。最後の「ケインズ的成長理論」が何だかよーわからんとは思ったが。

 まあそれより今頃高見広春『バトル・ロワイアル』(太田出版)だのあるいは映画化された貴志祐介『黒い家』(角川ホラー文庫)だのパラパラ見てるわけですがどーも気になることがひとつ。
 始めに申しておきますがどちらも優れたエンターテインメントだと思いますよ私。特に『バトル・ロワイアル』については森山和道氏和智正喜氏の言うとおりむしろモラリッシュなマンガ的な健全ジュヴナイルと評価するものであります。猛反発したとの噂の審査員諸氏とはまた別の理由でホラー大賞落ちて当然と思う。ホラーじゃねえよこりゃ。
 気になるというのはそんなことじゃねえ。どうせもうみんな知ってるだろうからネタを割るけど、『バトル・ロワイアル』での(クラスメイト中での)最凶の敵桐山和雄とか『黒い家』の殺人鬼菰田幸子とかのキャラ造形である。前者は何となく、そして後者はもうストレートに近頃はやりのと言うよりもはやゲップが出てしまう「サイコパス」なのだ。
 『リベラリズムの存在証明』で思いがけず刑罰理論に手を出してしまって、たくさん宿題を背負ってしまった身として犯罪学・刑事政策学を仕込んでいるところなんですが、まあ以前から興味もあったしいろいろ考えるところがあって。そいでこういう「サイコパス」イメージの商品化、一人歩きちゅうのはマズイぞ、と思うのです。
 地道な刑事政策の立場からすれば、あくまでも突出した少数例である凶悪異常犯罪が世論、公衆の犯罪観を作ってしまうという現実は非常に危険なのであるが、昨今の少年法改正とかあるいは例の保安処分どーたらとかいった論議はまさにそういう歪曲そのものなのだ。ラベリング理論以降の犯罪学をリードする「社会的絆理論」の提唱者トラヴィス・ハーシの著作(ハーシ『非行の原因』森田洋司・清水新二監訳、文化書房博文社、マイケル・ゴットフレッドソン&ハーシ『犯罪の基礎理論』松本忠久訳、文憲堂、後者は訳が悪いので注意)など読んでいると(断っておくがハーシはどっちかというとヒューマンでもラディカルでもない)もう犯罪というのは散文的で平々凡々な現象なのだなあと思い知らされる。アーレントとは違った(しかしおそらく無関係ではない)意味で「悪の凡庸さ」ちゅーものを感じます。
 更に、私にハーシの存在を教えてくれた頼藤和寛『賢い利己主義のすすめ ポスト・モラリズム宣言』(人文書院)の中では、こう書かれている。

「これまでサイコパスと特定されてきたのは凶悪犯罪者だけだから、氷山の一角なのかも知れません。そしてその一部から、研究者がサイコパスの特徴を抽出してきたわけで、それにはサイコパスの本質以外に、過激な攻撃性・逸脱性・触法性も混入してきたでしょう。そうした非本質的部分を欠くサイコパスなら、有能な経営者や外科医として表面的に適応して成功した一生を送るのかもしれないなあ。
 むしろ、そんな隠れサイコパスこそが純型なんで、切り裂きジャックや大久保清などは、むしろ「基本プラス嗜虐性・発情過多・行動力」のために連続犯行に及んだのだという見方もできますね。」(182頁)

「これまでサイコパスの基本ユニットと名付けてきた共感困難とか情操欠落とかは、それ自体としては決して邪悪なんかじゃないわけです。たとえてみれば色盲や難聴と同じことで、そのことだけではハタ迷惑でもなければ本人の責任でもない。彼らは社会に適応しようとすれば常人以上に意識的に努力しなければならない、という意味では立派なハンディキャップド・パーソンです。」(185頁)

 まあ『バトル・ロワイアル』も『黒い家』も露骨にストレートに「「サイコパス」イコール邪悪な怪物」イメージを垂れ流しているわけではない(この点ジョナサン・ケラーマンよりはずっとましだ、しかし現役の医者だったケラーマンにも言いたいことはあるだろうが)が、安易に「サイコパス」ブームにのっかっている感がなきにしもあらず、である。それにもうなんかエンターテインメントのネタとしても陳腐で興ざめ、なんですな個人的には。もうハンニバル・レクター博士には何やっても勝てんでしょう、てな気分であります。
 まあこの辺の異常犯罪趣味の危うさを糾してくれる好著には他に春日武彦『心の闇に魔物は棲むか』(大和書房)てのもありますね。


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