「ニッポン言論のタネ本15冊+α フーコー『監獄の誕生』」『論座』2002年6月号

稲葉振一郎

 権力論のフーコーは、かつてのマルクスの占めていた位置、左翼というか批判的知識人の最大のよりどころになってます。彼の仕事は後戻り不能の通過点を記すというか、人の書いたものを読み、自分でも書くような人間なら誰でも踏まえておかなきゃいけないような、人類共通の遺産に違いないです。まず第一に、学問というものは、永遠不変の真実をニュートラルな立場で見つめる営みなんかではなくて、固有の利害とか偏りから逃れられない権力だということ。そして第二に、しかしもちろんこの偏り、権力から無垢な場所など、人間世界のどこにもないということ。というより、人が生きる現実世界は、それ自体が権力によって作られているということ。とりわけ、人の主体性というものこそが権力の産物だということ。こういうことを言ったのはフーコーが初めてじゃないですが、それでもこういう問題意識が「常識」になるにあたって一番貢献したのはやっぱりフーコーでしょう。

 でもその「常識」がどれほどぼくたちの中に骨肉化してるかというと、心許ない。ここでお話したいポイントは二つです。第一に、ことに日本において気になるのは、学者の世界に限っても、法律学とか経営学、はたまた工学といった実学の世界でフーコー派が目立たない、ということです。(半分ゲイジュツである建築や都市計画なんかは例外でしょうか。フーコー自身が歴史研究の対象とした医学なんかはどうでしょう。)
 実はフーコー派といわず左翼全般が実学の世界から逃走してる(いや、まったく他人事じゃない)感じはあって、アメリカではそういう状況に対して哲学者リチャード・ローティーが警鐘を鳴らしてるし、例の「サイエンス・ウォーズ」なんてのも、もともとは生真面目な左翼の自然科学者であるアラン・ソーカルによる非実学系(つーか文系? ソーカルも非実学の基礎的な物理屋さんだったか)口先サヨク批判だったんです。もちろん左翼が実学から逃げてるだけじゃなく、実学のエスタブリッシュメントの方でも左翼をパージする傾向が明らかにあるから、左翼の根性ナシだけを責めてもしょうがないんですが、それにしても左翼知識人の多くがローティーの言うカルチュラル・レフトになって、大学のポストを確保した上で、優雅な象牙の塔から、地べたで泥臭いビジネスにいそしむ輩を「権力」として糾弾するという構図はいかにもまずい。
 もちろんいわゆるカルチュラル・スタディーズにいそしむ文化左翼は、洗脳装置としての主流文化の権威主義や通俗文化の商業主義に果敢な闘争を仕掛けているつもりなんでしょう。しかし実際のところは、社会の不満分子を「非実学文系知識人」という無害な主体に改造して体制内化する権力装置に、ほかならぬ文化左翼業界自体がなってしまってる、ということではないですかね。
 つまり何かフーコーから間違った教訓を得てしまった人が多いような気がします。「実学は権力の一部だから距離を取れ」みたいな。そうじゃなくて、素直に読めばフーコーの『監獄の誕生』は、権力の一部としての実学の批判的分析のお手本なんだから、早分かりして実学から手を引くんじゃなくて、まずもっと馬鹿正直に真似をして、権力に荷担する科学技術の実証的批判をやるべきだった。欧米ではそういう馬鹿正直な継承が、行政法、社会福祉、あるいは会計制度や経営管理など、さまざまな分野について蓄積されています。  その上でひねくれるとしても「実学から距離を取れ」じゃやっぱりダメなんです。まず第一に「距離をとる」なんてこと自体できっこない。完全に役立たずな、権力から無垢な「虚学」などという安全圏は実はない。ブンガク、文化だって先ほど触れたような意味では立派に役に立つ権力であり、その意味「実学」なわけですから。
 そして第二に、いままでのことを逆に言えば、普通の意味で「実学」、実務的な科学・技術をことさらに忌避する必要もないわけです。「官僚にならないために、技術者にならないためにフーコーを読む」なんてのは間違ってます。そうじゃなくて「まともな官僚になるために、まともな技術者になるために、フーコーを読む」でなければならない。

 そしてお話ししたい第二のポイントは、少し抽象的になりますが、そういう意味でのフーコーの読み方の指針、であります。フーコー権力論に対してかつてマルクス主義が健在だったころによくなされた批判は「フーコーの言うとおりだったら人間の主体性さえも権力の産物だってことになる。じゃあ一体、権力に対する抵抗はどこからやってくるんだ? フーコーは口先では「権力への抵抗」を口にするけど、その根拠がどこにあるのか全然論じてないじゃないか!」というようなものです。で、実はこの批判、疑問に対するしっくりくる回答を提示してくれている人はあんまりいないんです。にもかかわらずマルクス主義がぽしゃったおかげで、相対的にフーコー権力論のステイタスが上がっている。これは不健全ですから、何とかしなきゃならない。
 このようなフーコー批判はもちろん、自分を反権力、権力に抵抗する側に置いているからこそ出てくるわけです。そしてこういう批判者は(1)反省能力が極度に欠けている場合「フーコーは私のような反権力の存在を説明できないからナンセンス」と否定して終わり。これは問題外ですが、普通は(2)「たしかに自分でも気づかないうちに体制に荷担してしまっている危険が常にあることは認める。しかし気をつければそのような落とし穴をまぬかれる方法があるはずだ(ないと困る)。だけどフーコーはそれを教えてくれない!」という不満をもらす、でしょう。
 ここで発想の転換が必要です。自分をまさに権力者の側においてみるんです。フーコー的な意味では誰だって多少は権力者でしょ、それも飼いならされた左翼の「批判という名の荷担」なんてややこしい形でなく、もっとストレートに。例えば職場で、部下や取引先に対して、あるいは家庭で子供に対して。あるいは一念発起、体を鍛えようとかタバコをやめようとかしてみた場合。そうすれば見えてくるじゃないですか、そこにある「抵抗」とその主体が! 言うことを聞いてくれない他人が、意思の弱いもう一人の自分が! 
 支配権力に抗する「人民の権力」を標榜したマルクス主義の悪が明らかになって以降、批判的な正義の立場に立つためには「反権力」に徹するか、せいぜい「権力の極小化」を言うにとどめておくしかない、という雰囲気がありました。しかしフーコーの権力論が示唆するのは、別の問題の立て方――「権力・対・反権力」ではなく、「権力の謙虚でエレガントな使用・対・権力の傲慢で野蛮な使用」ではないか。最近ぼくはそう考えています。権力を振るったときに生じる、自らの無意識と身体を含めた「他者」からの「抵抗」に対して謙虚であること、その意味をそれぞれの現場で具体的に考えていくこと。これが今日、フーコー権力論を読む意義ではないでしょうか。

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