「宮崎駿の世界(下) ハッピーエンドの説得力」『産経新聞』2002年4月10日(大阪版夕刊)

稲葉振一郎

 宮崎駿のアニメはしばしば「元気ないい子ちゃんしか出てこない」「能天気なハッピーエンドばかりだ」といった批判を浴びる。また宮崎自身には「最近の若い人は、子供たちに見せようと思ってアニメを作っていない」という趣旨の発言がある。ここから「正しい子供向けの勧善懲悪アニメを作る宮崎駿」というイメージが簡単にでっち上げられる。しかしそう速断する前に、仮に「元気ないい子ちゃんしか出てこない」「能天気なハッピーエンドばかりだ」としたら、なぜそうなるのか、また宮崎が「子供に見せたいもの」とは具体的になんなのか、についてよく考えてみる必要がありはしまいか。
 宮崎アニメを「いい子ちゃん向け」とくさす奴でも、マンガ版の『風の谷のナウシカ』までをそうそしる勇気はあるまい。作者自ら「クリスマスの奇跡映画」と自嘲するアニメ版とは違い、どこにも清浄で罪から解き放たれたユートピアなど存在しない、と結論し、凛としたヒロインの内なる業(ごう)と闇を描いたマンガ版『ナウシカ』を「大人の鑑賞にも堪えるシリアスな芸術作品」と賞賛するであろう。
 ではマンガ版『ナウシカ』はハッピーエンドではないのか? 人間の生はつらく短く、そしていずれ人類そのものも滅亡するとしても、なおこの世は生きるに値する、との結論とともに、生き残った登場人物すべての、そして読者の背を押したこの物語はやっぱりハッピーエンドだろう。そしてこのような意味での「ハッピーエンド」の力への信頼は、アニメ版の『ナウシカ』はもちろん、一見能天気な冒険活劇たる『ルパンIII世 カリオストロの城』『天空の城ラピュタ』、そして最近作『千と千尋の神隠し』にいたるまで、宮崎の全作品を貫くモチーフなのではないか。これこそが宮崎が「子供に見せたいもの」なのではないか。
 ハッピーエンドという形式はしばしば「子供っぽい」「ご都合主義」と批判される。しかし逆にハッピーエンドとは物語に課せられたきつい制約、語り手にとっての試練なのではあるまいか。世界は苦痛と困難にみちているがゆえに、物語の中でそうした現実を都合よく無視して、ハッピー「エンド」のみをいきなりぽんと投げ出すなら、リアリティを欠く「ご都合主義」となるだろう。だがここで人をしらけさせるのはハッピー「エンド」自体ではなく、そこに至る物語の「プロセス」の方のリアリティのなさ、バカバカしさではないか。ハッピー「エンド」自体がではなく、その制約に耐ええない物語全体の貧弱さ、語り手の構想力の貧しさこそが問題なのだ。だがこの試練によく耐えた物語は「この世界は生きるに値する」「生きることは「ハッピー」である」というメッセージを、何よりも雄弁に、説得力をもって読み手に贈るだろう。
 ただそのような物語にとって、宮崎作品の多くが取る「劇場用映画」という形式はやや窮屈と思われる。『ナウシカ』が劇場用アニメから一大長編マンガとなった理由もそこにある。その意味でもっとも幸福な宮崎作品は連続テレビアニメ『未来少年コナン』であった。

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