「新書だけで学び直す一般教養(パンキョー)15冊+α 政治哲学・政治思想」
『論座』2002年7月号

稲葉振一郎

 新書で「政治哲学・政治思想」を学ぼうというなら、まずは橋爪大三郎『政治の教室』(PHP新書)がよい。題名からして「政治学の教室」ではなく「政治の教室」だというあたりに、すでに覚悟の程がうかがえる。実際第三部「改革編」はきわめて実践的な提言、それも学者がよくやる政策提言などではなく、普通の市民が実際に政治に参加するためのハウツー、草の根民主主義の実践マニュアルなのだ。内容としては伝統的な政治学入門書と重なる第一部「原理編」と第二部「現実編」も、あくまでもその準備段階として書かれている。
 しかしこの本の民主主義観は極めてハードである。一言でいうと、泣き言を許さない。欠点だらけではあっても、言論の自由と多数決に立脚する議会制民主主義は最高の政治制度なのであり、そこからの逃げ場所、よりましな別の政治制度はない。ではなぜ民主主義が最高なのかと言えば、あらゆる民主的決定は、手続き的に言えば、何らかの意味で、すべての人の承認を経ていることになるからだ。より具体的には、多数決で選ばれた決定に対し、(1)賛成票を投じた人はもちろん、(2)反対票を投じた人もまた「どちらの結果になろうと多数決の結果に従う」という約束で投票している以上、その限りで「反対だけど承認」しているということになる。言い換えると、民主主義政治は逃げることを許さない。白票や棄権も、白紙委任という「承認」になってしまうのだ。反対しても棄権しても殺されることはない。だから好きなだけ反対意見も言ってかまわない。その代わり決定にはともかく従え。「反対」は不服従や逃避の理由にはならない――つまり民主主義政治においては、すべての人が政治的責任から逃げられないのだ。
 だから「改革編」の提言も実践的だがハードであることに変わりはない。議会制のルールを尊重せよ。既存の政党に文句があるなら、自分たちで新しく政党を作れ。政党の内でも外でも、自由で開かれた議論を止めるな。つまり、民主主義という制度は最高(他に道はない)なんだから、「青い鳥」なんか追わずにこつこつ努力しろ――というわけだ。もちろん細かいところでの制度改革の提言はかなりなされているが、基本的には議会制民主主義の枠内での、一人ひとりの市民の努力こそ肝要、というのがこの本の基調だ。
 この本に問題があるとすれば、この「泣き言いう暇あったら努力しろ」というスタンスそのものだ。たしかに、基本的には同じ議会制民主主義のもとで、もう少しましな政治をやってる国々が他にあるようだから、日本にいる我々にも努力の余地は十分にあるはずだ。だが精神論、根性論には常に用心してかからねばならない。本当に、足りないのは努力だけなのか。草の根の努力では及ばないところに、構造的な問題はないのか。あるいは、努力を可能とする基礎体力のレベルに問題があるときは、どうするのか。
 橋爪『教室』には欠けている視点を踏まえたものはないだろうか? まず思いつくのは杉田敦『デモクラシーの論じ方』(ちくま新書)である。この本はちょうど橋爪『教室』のスタンスと重なる制度重視の論者と、制度としてのデモクラシーのはらむ構造的な限界に敏感で、むしろそのような限界の克服を目指す運動までも含めてこそ「デモクラシー」だとする論敵との間の対話形式で書かれているから、併読するにはちょうどよい。
 しかしそれでもなお、杉田『論じ方』は橋爪『教室』と共有するところが多い。第一に、橋爪も杉田も「民主主義が最高である」「民主主義からは逃げられない」ことは議論の大前提としている。第二に、両者とも狭い意味での「政治」の話に議論を限定していて「政策」の話をしない。「正しい政治とはどのようなプロセスか」という話はあるが、「ではその正しい政治によって何を実現すべきか」という話はないのだ。
 実は民主主義論としては、この「政策」論の欠落はひとつの見識である。よくある「民主主義には衆愚政治に堕する危険がある」というたぐいの批判は要するに「民主的決定による政策が、常に正しい、よい結果をもたらす保障はない」ということだ。それに対して橋爪は「よい結果をもたらす正しい政策決定に常に導いてくれる政治体制などそもそもありえない。だとすれば、せめてあらゆる決定についてその責任の所在を明確にできる(よそに責任転嫁を許さない)民主主義が一番ましである」と答えるわけだ。杉田もまた「プロセスとしての政治」観を肯定した上で、それを更に「制度的手続」のみならず「ダイナミックな運動」としても捉える視点で補完している。
 それでもなお「政策」論議を民主主義を考える「政治哲学・政治思想」のフィールドから追い出すわけにはいかないたくさんの理由がある。その中でも最低限踏まえておくべきは、極端に言えばこういうことだ――民主主義の制度を壊し、民主主義のプロセスを断ち切ってしまうような「政策」が民主的手続きを経て決定されてしまえばどうなるか?
 このような危機的状況はさておいても、「プロセスとしての政治」と「結果としての政策」との間は単純なものではありえない。民主主義を支える法的制度自体「政策」の所産であることはもちろん、そこで活動する政治家の資質、更に言えば彼ら彼女らを選ぶ草の根市民の政治的基礎体力も「政策」にかなり左右される。「結果としての政策」はそれを生み出した「プロセスとしての政治」にまたフィードバックしてくる。それゆえ、政策的介入ということそれ自体が、民意を誘導しあるいは歪めるという意味で反民主的でありうるという危険は承知の上で、それでもなお「民主主義のための政策」、そして「民主主義を危険にさらす政策」とは何か、について考えていかねばならない。
 「民主主義を危険にさらす政策」については、主に憲法という制度の問題として考えられてきた。民主的権力の暴走を食い止める、壁としての憲法。これについては新書なら長尾龍一『憲法問題入門』(ちくま新書)がよかろう。では「民主主義のための政策」についてはどのように論じたらよいのか? いろいろなアプローチがありうるが、第一歩としては草の根市民の政治的体力づくり、「公民教育」の問題として論じるのがいいだろう。つまり「よい結果をもたらす正しい決定」を天下り式に論じるのではなく「よい結果をもたらす正しい決定を行う力の涵養」について考えるわけだ。
 そしてこのテーマについて読むべき(新書といわず)本の筆頭は平田オリザ『芸術立国論』(集英社新書)である。平田によれば、普通の市民の想像力とコミュニケーション能力(これこそ政治的基礎体力のそのまた基礎だ)を高めるためには、様々な芸術に普段から親しませることこそ肝要である。それゆえ芸術を享受する権利は基本的人権であり、芸術に親しめる環境づくりは公権力にとっての義務なのだ。
 もちろん、公権力は芸術を振興しなければならない、とは言っても、公権力による芸術の中身そのものに対する容喙干渉は拒否していかねばならない。この「支援」と「介入」との間の危ういバランスをいかにとっていくか、が本書の提起する最大の問題だが、それは「民主主義のための政策」がはらむ基本的な困難と別ものではないはずだ。

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