1997年12月30日(水)

 キース・ヴィンセント、風間孝、河口和也『ゲイ・スタディーズ』(青土社)は、ゲイ解放運動の主流が何をめざしているのか、何を問題としているのかを知るためには、今のところ日本語で読める最もまとまった、最もよくできた本だろう。中身は「歴史編」「理論編」「実践編」にわかれていて、それぞれを河口、ヴィンセント、風間氏の順で書いている。
 僕自身の関心から言うと、レズビアン/ゲイ・リベレーションと女性学およびフェミニズムとの相互作用についての記述が特に興味深い。たとえば、ヴィンセント氏は、カミング・アウトの意味を「公的領域と私秘的領域との区分を再定義するもの」だとし、そうした発想の源泉(のひとつ)をフェミニズムの「私的なものは政治的である」というあの有名なスローガンに求めている。また、実践編ではアカー(動くゲイとレズビアンの会)の裁判闘争やメンバー相互がそれぞれのライフヒストリーを語り合うという実践について説明されているが、後者は言うまでもなくフェミニズム(というかウーマン・リブ)の「意識高揚(conscious raising)」の方法そのままだと言っていい。
 この本全体では、ゲイ・スタディーズとゲイ・リベレーションをひとつの独立した理論であり運動として立ち上げようという方向性が打ち出されている。それは著者たちの説明を読めば完全に納得されることで、現在の日本の情況ではそうするほかないと思う。
 ただひとつだけ、レズビアン/ゲイ・スタディーズこそが、セクシュアリティについての新しい理論なのであって、フェミニズムはもうお役ご免、みたいな雰囲気が生まれないことだけを願い、また僕自身もそうならないよう、『ゲイ・スタディーズ』のような作業から刺激を受けつつ、フェミニズム固有の問題についてさらに考えていきたいと思う。

 それにしても、この本の中で僕にとって最も印象的なのは、ヴィンセント氏が「私たちはカミングアウトして初めてゲイになるのだ」(109頁)と言い切っているところだ。この一文こそが、この本の主張、立場を象徴的に表現していると思う。
 著者たちにとって「ゲイ」とは、リベレーションの「主体」、ゲイ・スタディーズの「主体」である。それは、他人から研究「対象」にされたり、他人の寛容のおかげで居場所をあてがわれるような存在から脱却して、自らが何者であるかを、自らの力で定義し、宣言する存在である。
 先の一文は、こうした意味で、一種の遂行的発話であって、必ずしも分析ではない。そのことを承知の上で、ここから受けた示唆を分析の方向にあえて敷衍してみたい。

 カミングアウトした同性愛者だけが「ゲイ」である、ということは、文字通りには、異性愛強制社会の暴力に、公然と抵抗を開始したものだけがゲイという名で呼ばれる、ということである。すなわち、クローゼットに隠れ、そのことに甘んじている同性愛者は、未だゲイではない。そうした意味で、著者による「ゲイ」という語の用法は、ジェンダーの問題の文脈に置き換えれば、ほとんど「フェミニスト」に相当するように思われる。ただ「女」であるだけで、自動的に女性解放の主体となるわけではない。むしろ、多数派の「女」たちもまた、怯えた「男」どもに劣らないほどに、フェミニズムの敵でありつづけてきたという厳然たる事実がある。そうした女たちは、単にフェミニズムは自分の思想ではないと距離をとってきたのではなく、積極的にフェミニズムの足を引っ張ってきたし、今もそうしているのである。誰もが自分の頭でものを考えたいわけではなく、誰もが自分の生き方を自分で決めたいわけではない。そうすることが怖くてしかたなく、そうしている他人に訳もなく憎しみと敵意を抱く人間の方が多数派なのではないかと思うことさえある(「自立フォビア」とでも命名しておこう)。いうまでもなく、日本でも80年代後半以降のフェミニズムをめぐる議論は、この厄介な現実をどう考えるかをめぐって紛糾してきたし、現在も実はそうである、と言っていい。

 たぶんゲイ解放闘争も、これから同じような壁に直面するのかもしれない。本書のなかでも指摘されているが、クローゼットに隠れた女性蔑視的な男性同性愛者は、ゲイ解放、特にカミングアウトの風潮によって、個人的に不利益を被ると判断する可能性が十分にある。クローゼットにいれば、男性のジェンダーゆえに社会的に高い地位を確保していられたのに、同性愛者であることが判明すれば、少なくとも短期的にはその安定した地位を奪われるかもしれないからだ。そうした人々は、もしもゲイ解放闘争がこれからさらに一定の勢力に成長していけば、身の危険を感じてバックラッシュに荷担するかもしれない。少し文脈は違うけれど、この間の日記でも書いたように、すでに同性愛者の内部から、ヴィンセント氏のいう「抵抗への抵抗」は生じている。フェミニズムではそれがより大規模に、つねに、至る所で、公然と繰り返されているわけだ(僕の大学のゼミの学生たちでさえ、僕のゼミに所属していること、すなわち「フェミニズム」を勉強していることを口にすると、他の学生たちからのあからさまな敵意にさらされることがしばしばある!)。
 だからフェミニストがゲイから学び、もう一度(いや、何度でも)繰り返し確認し直さなければならないのは、「闘いはまだ終わっていない」、それどころか、未だ始まったばかりである、という苛酷な事実である。(午後5時42分)