1998年9月3日(木)

 というわけで、私の最初の論文集、『性現象論――差異とセクシュアリティの社会学』(勁草書房・序文iv頁+本文344頁+索引/文献表26頁・本体3400円)がようやく出版されました。目次など、詳しくは自己紹介ページで。

 で、感想。寺山祐索氏の装幀は、渋くも軽やかで、飽きがこない感じ。気に入りました。
 オビの売り口上も、抑えた感じで、よかったと思います。ただ、「欲望の社会編成を暴く」っていうところだけは、「暴く」って語感がちょっと好きじゃないんだけどね。まあ仕方ないか。
 でも、いざこれまでの仕事(の一部ですが)が本のかたちにまとまってみると、特に興奮とか、沸き立つような喜びはないなあ。『ソシオロゴス』に、最初の「性的差異の現象学」っていうのを載せたときの方が、はるかに嬉しかったなあ。いやもっと遡れば、『ロクハン』に投書が載ったとき、いやいや、小学三年生のときに作文が学校新聞に載ったときの方が、なんかこうプわーっと一気に拡がるような高揚感があった。だがこれも仕方ないだろう。なんだってそうだもんな。例は挙げないが。
 もうすでに、次の仕事にとりくんでいて、頭がいっぱい(情報や構想でというよりも、妄想で)なことも関係あるのだろう。すでに上の本の著者略歴にも書いてしまったのだが、ちくま新書で、明治後半期から第二次大戦直後ぐらいまでにおける優生学と性道徳の絡みに焦点を当てた本を書くのだ。新書なので網羅的なものではなく、トピックを連ねながら、大まかな歴史の線を出して行こうと思っている。核になる問題意識は「愛せよ、産めよ、より高き種族のために――一夫一婦制と人種改良の政治学」と共通で、論述も重なるところが出てくると思う。

 とは言っても書き下ろしは書き下ろしで、まだ影も形もできてはいないのだが、新書ということで今から気になっているのは、誰に向かって書けばいいのか、ということだ。僕はこれまで、不特定多数の読者を想定して文章を書いたことはない。それでは一文字も書けない、書く気も起こらない。すべての文章は、ある特定の個人か、複数ではあっても、「あの人に読んでもらいたい」「あの人に評価してもらいたい」というように、特定の人物を念頭に置いて書いたものである。そうであってこそ、逆説的に響くかもしれないが、文章がある種の普遍性を獲得することもできるのだと考えている。ばくぜんと、こんな感じの読者に向けて――たとえば入門者とか、専門の学者とか――書きなさいと言われてもできない。『性現象論』の序章に再録した「性現象論になにができるか」という作品は、社会学の入門的な教科書のために書いたもので、前にこの日記でも告白したように、書いているあいだも書いた後も不本意感が渦巻いたものだったが、その明らかな原因のひとつは、「社会学の初学者」という漠然としたオーディエンスに向けて書こうとしていたことだったと思う。締め切りが迫って(というか過ぎて(^^;))、かなり書いてしまってから、頭を切り換えて、自分の知っている実在の学生の顔を思い浮かべて書こうとするようにして、なんとか脱稿したのだが、いまでも中途半端な思いはある。内容のレベルが低い、とは必ずしも思わない。ある枠のなかでできることを最大限やろうとしたつもりで、他の人が書くよりもいい仕事だとは思うのだが、そういうこととは別に、やはり何か「語りきった」という手応えが少ない、という感じなのだ。

 議事録だの調査報告書だの自然科学系の学会誌に載るようなものは別かもしれないが、単なる情報ではなく、それ固有の(一種のfetishとしての)存在を認めうるという意味における「文章」とは、そのようにしてしか生まれ得ないものではないのだろうか。それとも、世の中には、たとえば「〜好きの読者一般」みたいなものを想定して、それに向けて文章を書ける人もいるのだろうか。小室哲哉は、曲をプロデュースしながら、「これは200万枚ぐらいだな」とか「これは400万いくね」とかぽろっと言っていて、つねにその通りになってきたそうだから、文章の世界でも、マスに向けて書かれるものもきっとたくさんあるのだろう。ただ僕には、それはわからない。ジョン・レノンは、ポール・マッカートニーの才能に嫉妬していて、ポールをうならせるために曲を書いた、というところもあったんじゃないだろうか。まああれくらいの天才たちになると、誰に向けてとかいうことを考える前に、むくむくと発想が浮かんで来るんだろうけど。

 もしかしたら、文章を書くのがつらくなってきているのは、僕が誰に向けて書けばいいのかを見失ってきているからなのかもしれないな。そうだとすれば、「フェミニズムを半分だけ離れて――名づけ・応答・享受」は、僕にとっては、「書く」ということの意味そのものを快復させる過程でもまた、あったのかもしれない。

 つけたし。最近思うこと。いわゆる文系といわゆる理系の溝の深さ。ソーカル事件なんて、そもそも大騒ぎするようなことかいな。笑って済ませばいいアホな事件にすぎないと思うのだが(ちなみにオウムだって本当はそうなんだ。ただし、殺人事件は別の問題だということ)、ある種の「科学的」な人は、僕が男に追いかけられて恐怖した話には笑えても、反科学のドタバタには決して笑えないらしいことがわかってきた。僕は性暴力だけにはどうしても笑えないのだが。永井均さんが小林敏明さんからの批判に応答して書いていたように、ある人にとって「まったく理論的価値を持たない」事柄が、別の人にとっては「問題のすべてである」ということが、これほど多くあるとは、インターネットをぶらぶらするようになって、初めて実感できたことだった。それでも世界はひとつなのだろうか。(25時21分)