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旅する読書日記<最新版>
★2003年9月17日(水) 

 

 グレッグ・イーガンの日本版第二短編集『しあわせの理由』(山岸真編訳、早川文庫)は、ちょっと小粒な作品も多くて、はじめて『祈りの海』を読んだときのような衝撃はないけれども、それでも鳥肌が立つような傑作がいくつか含まれている。わけがわからないが鮮烈なイメージ(?)の「量子サッカー」と「ボーダー・ガード」、「闇の中へ」


★2003年9月15日(月) 舞城王太郎、飯田隆、真心ブラサーズ

 きのうは日本ジェンダー学会に招待してもらい、午前中はシンポジウムで報告、午後は分科会の司会、夕方は懇親会、夜は2次会と、忙しかったけれど、久しぶりに活気のある時間を過ごした気がした。いろいろココロに残ったことはあったけれど、とりあえず2点だけ。北原みのりさんの話は見事。TNJの野宮さんとはSFの話で喉を潤した。やっぱ『ハイペリオン』は読もう。


  この夏は、藤和不動産の粗悪な騒音筒抜けマンションから脱出して、3年ぶりに自宅でのんびり過ごすことができた。今週は小さな本を一つ仕上げなければならないし、来週は原稿にゼミ合宿など、大学が始まるので、もう夏休みは終わり。この夏に読んだ本のことを、何回かに分けて書いてみたい。どこへも出かけなかったので、全然「旅する」ではないのだが。

 評判の舞城王太郎『九十九十九』(講談社ノベルズ)を読んでびっくり。冒頭から、うーん、第三話あたりまでは、文句なしの傑作だと思った。なにしろ、
 産道を通って子宮から外に出てきた僕が感動のあまり「ほうな〜♪」と唄うと僕を抱えていた看護婦と医者が失神して、僕はへその緒一本でベッドの端から宙吊りになった。それからしばらく母親も皆も失神したままで、僕は三十分ほどそこでそうしてブラブラと揺れていたので、僕にとって最初の世界は上も下も右も左も何もなかった。そこにあったのは僕の歌声だけだった。

 この密度、テンションの文章がずっと続くのだ。表紙の折り返しに書いてる煽り文句の「圧倒的文圧」はウソじゃない。
 だけど、構成がわかってきた後はちょっと疲れる。最後のほうは「せっかくここまで読んだんだしなあ」という義務感で読了したというのが正直なところだった。「文圧」っていう比喩に絡めていうと、ちょうどコンプレッサーをかけまくって音圧を稼いだ音楽をずっと聴かされている感じ。それはジム・オルークも批判してたぞ。でも舞城の才能は疑い得ないんじゃないかな。今後の作品にも期待したい。

 舞城に酷だったのは、ぼくが『九十九十九』を読んでいる途中から、飯田隆『言語哲学大全1 論理と言語』(勁草書房)を読み始めたことだったかもしれない。舞城がどんなに言語実験を繰り広げて見せても、飯田隆の懇切丁寧な解説によって解きほぐされるフレーゲとラッセルの言語論の徹底した突き抜け方にはとうてい叶わないと思った。
 このあと、『言語哲学大全2 意味と様相(上)』『同3 意味と様相(下)』とつづけて読み、ようやく言語哲学への入門を果たした。僕にとって今年の八月は『言語哲学大全』の夏だった。『同4 真理と意味』も途中まで読んだが、これはいろいろな学説を解説するのではなく、デビッドソンの意味論のプログラムに沿って具体的に日本語を分析するという企てなので、いま読まなくてもいいかなと思って中断した。
 こんなに充実した読書体験を与えてくれる本はそうそうない。コトバや思考について、なんとなく雰囲気で分かった気になりたいのではなく、むしろ何がわからないのかということまで含めて、ちゃんと理解したい人には、絶対の自信をもってお勧めする。早わかり的な入門書ではないのだが、これを四苦八苦して読み通した後で、もっとコンパクトな本を読んだほうが、かえって理解の進みは早いだろう。
 具体的な内容と論点については少しずつ書いていきたいが、ともかくこれはものすごく「熱い」本である、ということだけは知っておいてほしい。ただの要約・紹介にとどまることなく、著者自身が論争に介入し、自分の視点から議論を組み立てているとはいえ、基本的には単なる言語哲学の学説史なのに、とにかくどのページを読んでもサウナのように熱い。それも、いわゆる罵倒文みたいな、くだらない見せかけの激しさではなく、しっかり思考を突きつめていこうとする人だけが発散する知そのものの熱さ。自戒しなければ。  

(午前3時20分 真心ブラザーズの「素晴らしきこの世界」を聴きながら)

★2002年度卒業式に向けて

 大京のライオンズ・マンションでシックハウス症候群が生じています(http://www.asahi.com/national/update/0304/006.html)。これで苦しんでいる方のウェブサイトは前から読んでいましたが、本当に命に関わるほど酷いものです。しかし新聞記事で見る限り、大京の社員どもは「因果関係が明らかでない」などと主張しているようです(『朝日新聞』2002.3.4朝刊、アサヒコムではこの部分がない)。これはもう40年以上も前に、水俣病をはじめとする公害病が問題になった際の、企業(チッソ)や行政(水俣市、熊本県)の言い分とまったく同じです。こうした連中は他人の苦しみなどどうでもいい、卑小な人間のクズどもですが、特別な存在ではありません。単に学習能力が皆無で、したがって進歩できないだけです。粗悪な騒音筒抜けマンションでぼくを苦しめた「藤和不動産」の連中、特に「お客様サービス室」(笑)と自称する、実態は慇懃無礼な苦情「処理」係(当時の室長は南伸一)も同じ穴のムジナでした(私はもう引っ越しましたが、この問題についてはいま計測データを整理中で、近日中に公開する予定です)。将来、家を買うかもしれない学生諸君に忠告しておきますが、マンション販売会社などをこれっぽっちも信用してはいけません(大手でも弱小でも同じ)。売るときだけへらへらといい顔をして、その後はしらんぷりです。家電製品や自動車なら問題があれば取り替えたり修理したりしてくれますが、こいつらにはそんな無駄なことをする気はありません。大京にしても、住人がホルムアルデヒドで健康を害して長期入院しても、「シックハウス」を口にするかぎり無視して死ぬのをまっているような会社なのです。
 今週は卒業者発表があります。卒業生諸君はそれぞれ会社に勤めたり、勉強を続けたりするでしょう。どんな分野に進んでも、社会に生きる「大人」として、年齢と顔の皺以外には何も学んでは来なかった「無駄に図体のでかい年寄りの幼児」にはならないでほしい、子供たちからあざ笑われる以外に能のない大人モドキにはならないでもらいたいと、切に望んでいます。


★2002年11月29日(金)

 きょうは本当に疲れた。ここ1ヶ月、来年度に向けて入試関連の職務や時間割作成、非常勤講師の手配など、学科主任の仕事に忙殺されてしまった。いくつかの原稿をずるずると引き延ばして出版社の方々にもご迷惑をおかけしているのに、引っ越しまでがはさまって、完全に息切れ状態。いま授業、ゼミのあとの午後6時半にこれを書いているのだが、ようやく昼めしを食えている状態なのだ。ふーーーー。ここまでひどいとなると、俺に勉強をさせないようにCIAが陰謀を張り巡らしているに違いない。いや、そうに決まっている。どこに隠れてるんだあー(以下略)。

 さて、落ち着きを取り戻して、本やCDの話でも書きましょう。とにかく日記といっておきながら何と1ヶ月半もあいだが空いてしまっている。これではマズイ。
 ということで、新しいネタではないけれど、しばらく前に読んだグレッグ・イーガン『祈りの海』(早川文庫)。これでついに、SFに興味をもって始めて読むべき本として、古色蒼然たる(かつての)名作群を挙げなくてもよくなった。そういう作品も良いのだけれど、後から読めばいい。僕らにはイーガンがある。グレッグ・ベアの退屈な伝統的ファンタジーやスティーブン・バクスターの無思想ハードSFなんかじゃなくて、最高にハード(=サイエンティフィック)であり、したがってサイエンスとテクノロジーがもたらす人間とその社会の変容を繊細に感受しつつ、十分に洗練された哲学的問いと限りなく深刻な実存的問いを一挙に惹起する、そして何よりもスリリングなストーリーがぎっしり詰まった、現代SF小説の極めて魅惑的な達成である。
 短編集の内容については記さないが、アイデンティティ、独我論、進化生物学、遺伝、脳科学、宗教と科学との関係、アメリカ批判、コンピューター、そして愛に少しでも興味のある人なら、必ず感動する部分があると思う。僕としては「ミトコンドリア・イヴ」で描かれる「人類の起源」をめぐる政治的争いが、アメリカ合州国の進化論裁判(学校で進化論だけでなく「神が人間をおつくりになった」という説も科学として教えるべきだという現代の宗教裁判)に対する痛烈な皮肉になっているだけでなく(ちなみにイーガンはオーストラリア人)、単なる一過性の政治的問題に解消されない文明への深い問いかけになっていることに感心した。だがどれを一押しするのも困難なほどの傑作ぞろいであることも強調したい。
 
 なかなか目前の研究テーマにかんする本以外は読めないのだが、小説ではほかに、大江健三郎『憂い顔の童子』(新潮社)を読んでいる最中。くわしくは読み終わったらまた書くつもりだけれど、これはもうスゴイ。前作『取り替え子(チェンジリング)』(新潮社)でみせた、老大江健三郎の、タガが完全に外れて荒れ狂う怒り、そして盟友だった故・伊丹十三へのむせかえるように濃密で激しい愛。あの若いときの、暴力と差別的なイメージに充ち満ちた、しかしなぜか読み通す者の魂をどこまでも浄化し、解放の感覚を与えてくれた大江作品の奇跡が、この老年を迎えた人にしかありえない〈自由〉な表現において、確かに姿を変えて蘇っている。もはや比べる対象もないほどの圧倒的な高みだ。
 ただしこれは特権的な小説である。すなわち、これまで大江のほぼ全作品を読み、その衝撃のなかで何かを考えてきた人間のみに開かれた小説であって、はじめて大江健三郎を読む人、まして文学に始めて触れようという少女・少年が読むべき本ではない。たぶんわからないだろうし、わかってしまえば危険すぎる。君たちはたとえば、『飼育』『個人的な体験』「空の怪物アグイー」「セヴンティーン」『万延元年のフットボール』から読まなければならないのだよ。けれども、まだこれらの作品を読んでいないということは、なんと幸福なことだろう!

 大江老人の目眩く暴走ぶりに比べて、村上春樹『海辺のカフカ』(新潮社)のなんと薄く、閉ざされた世界だろう。僕としては、阪神大震災以後の短編集『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫)がなかなか良かったし、『スプートニクの恋人』(新潮文庫)嫌いじゃなかったので、新作長編にも期待していたのだが、これはどうも。。。考えがまとまったらまた書くけれど、これに限っては、安原顯の罵倒が当たっているように思えてならない。「いい年して、ぶりっ子なおとぎ話ばっかり書いてんじゃねーよ」といいたい気持ちをぐっとこらえて。。。また書きます。しかしいずれにせよ、僕が最も好きな村上作品は、あのギスギスと悪意と憎悪にささくれ立った『ダンス・ダンス・ダンス』(講談社文庫)、そして我が身と比べたら死にたくなるほど、恐るべき才気を見せつける『風の歌を聴け』(講談社文庫)であることに変わりはなさそうだ。


★2002年10月6日(日)

 この数ヶ月で聴いた新しいCDについて。ダントツ最高だったのは、BECK 《SEA CHANGE》。鬱々としたスローナンバーばかりが延々続く、暗く重いアルバムなのだが、地味ではなく、しかしおどろおどろしくもなく、聴く者の感情にしっかり染み込んでくる曲ばかりが並んでいる。これはおそるべき高みだ。Beckというアーチストが本当は何者なのかを、一切ギミックなしに浮かび上がらせる。しかしもう一度書くが、その結果は枯れたとか渋いとかいったものでは全くなく、見たこともないような眩い光に包まれた世界の誕生である。

 中村一義 《100s》
も素晴らしい。こちらは対照的に明るく、軽やかな曲を満載した、中村一義の新たな出発を告げる一枚だ。天才登場を強烈に印象づけた1st《金字塔》、90年代ロック最高の名作の一つとなった2nd《太陽》と来て、《ERA》ではなぜか歌詞が荒んでいた。なんだか知らないけど僕は僕として行くよ、という2ndまでとは明らかに変わって、そこには「こんな馬鹿な連中ばっかりだぜ」という頭の悪い歌詞が並んでいたのだ。音が圧倒的な存在感だっただけに、歌詞の凡庸化も際立っていた。迷いの時期だったのだろう。今回はそこも乗り切って、充実したバンド・サウンドにふさわしい肯定の歌を鳴り響かせている。「傷だらけの消えそうなメロディー…、/目を刺す青空たち…、/あぁ、そこらにあるオレンジジュースの味…、/戯れの先で。/70’s、80’s、90’sだろうが、/今が二千なん年だろうが、/死ぬように生きてる場合じゃない。/そこで愛が待つゆえに。/愛が待つゆえに、僕は往く。」

 奥田民夫は 《E》であのマッチョではない柔らかな力強さを取り戻した。《29》や《股旅》ほどの超名曲は収められていないが、しかしある人が「鬱病的なアルバム」と評した《ゴールドブレンド》に比べると、彩り鮮やかな曲が集められている。先行シングルの<花になる>は良い曲なんだから、むしろ冒頭にガツンと置いてほしかった。<ヘヘヘイ>はアルバムのなかで聴く方が良さがわかる。荘厳なバラード〈CUSTOM〉も名曲。繰り返し聴きたくなる味わいの深い作品、しかし次回作では、もう一段上の次元ではじけてほしい、という希望さえふくらむ。

 スピッツ 《三日月ロック》は当然のように美しくねじ曲がった世界を構築している。曲は粒ぞろいで、何も文句はない。前方への決意もびしばし伝わってくる。というわけで文句はないのだが、最初の4枚を偏愛しているぼくにとって、いまのスピッツは、もはやいくつかある良いバンドの一つにすぎない。「殺してしまえばいいと思ったけれど/君に似た夏の魔物に/会いたかった、会いたかった」というあの欲望が、見事に「昇華」されてしまった結果がこれなのだろうか。しかし、密室の犯罪者を感じさせない草野マサムネに、どれほどの魅力があるだろうか。かつて草野は、真島昌利が《夏のぬけがら》で聴かせた、むせかえるように激しく純粋なノスタルジーを喪失していったことを批判的に評したことがある。それとほとんど同じ言葉を、いまのかれは自分に向けているのではないだろうか。

 桑田佳祐 《ROCK AND ROLL HERO》は、桑田佳祐の作品であるかぎり、もちろん良い。けれども、こんなことを書くのはナニだというのはわかっちゃいるが、あの《孤独の太陽》ほどの衝撃はここにはない。どんなに鋭いことを言っても少しもエラそうに見えないという桑田だけの美質が、ここではちょっとだけバランスを失している感じがする。つまりこのアルバムでの桑田佳祐は、なんだかずいぶんエラそうに聞こえるのだ。
 でも誤解のないように念を押しておくと、非常に良いアルバムではあります。

 少し前の作品だが、SUPERCAR 《HIGHVISION》は実によくできたポップ・ワールドだ。ぼくが大好きだった1stアルバムからは、ずいぶん遠くまで来てしまったなという感慨はあるけれど、シンセとギターがうまく溶け合って、心地よい音空間をつくりあげている。曲もよい、というか、一曲ごとに独立して聴くようなつくりにはなっていないので、アルバム全体を繰り返し流しておくことになるのだが。

 Jポップの新作を並べてしまったが、本音を言えば、この間に発売されたレコードで最も素晴らしいものは、相変わらず洪水のように出続けるリマスター盤のなかにあった。言うまでもない、DAVID BOWIE 《ZIGGY STARDUST》の、2枚組リイシュー。作品そのものについてはもはや何も言わない。良い装置で聴けば、音質がかなり改善されたことがわかる。許せないのはライナー・ノートの邦訳。一つだけ例を挙げるなら、David Buckleyによる詳細なライナーの冒頭に掲げられたM・フーコーのAll modern thought is permeated by the idea of thinking the unthinkable.という言葉に、いきなり「すべての近代思想は、考えられないようなことを考えてみるという概念によって浸透する」という全く意味不明の訳がつけられているが、これはもちろん中学生レベルの基本文法の間違い。もちろん正解は「あらゆる近代思想には、思考しえぬものを思考するという考えが浸透している」。下線部は「とり憑いている」とでも訳したいところだ。しかし、こういうのは誰もチェックしないのかな。
 それに比べると、訳詞のほうは以前のものよりかなり改善された。<スターマン>のメッセージも十分伝わってくる。だけど、He told me not to blow it.を「彼らは僕らの心を吹き飛ばしはしないと言ったんだ」はやはり初等文法上の誤り。「そいつ(心)を駄目にしてはいけないよ、と彼は言った」が正しい。blowは訳しにくいが、「吹き飛ばす」でもいいけれど、駄目にしてしまう、という意味だろう。

 ほかに、ベテランではCAROL KINGの新作(!) 《LOVE MAKES THE WORLD》も良かった。《つづれ織り》から何も変わっていないのだが、曲はとてもよい。もう出ないのだろうと思いこんでいた、PETER GABRIELの新作《UP》も、まだ聴き込んではいないのだが、まさにガブリエルの世界をまた少し濃密にした感じ。かれがかつて作品ごとに見せつけた新しいサウンドの衝撃はないが、ソングライターとしての力量が衰えてはいないことを証明している。とはいえ、どうしても旧作の紙ジャケ・リマスター盤のほうが気になってしまうが。BRUCE SPRINGSTEEN 《THE RISING》については、思い入れが強すぎて、まだうまく語れそうにない。優れた作品であることは間違いがない。ただ僕は、《GHOST OF TOM JODE》のほうが好きだ。リマスター盤では、ほかに、THE WHO 《MY GENERATION》のデラックス・エディションが出ている。が、一足先に出ていた《LIVE AT LEEDS》と並んで、まだ聴けていません。


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