・教えて知能をつけること
・人の心身両面にわたって,またある技能について,
その才能を伸ばすために教えること
教育というのは,社会の構成員がその社会でより良く生きていくために必要な知識や技能を, それらを理解し,習得している人によって,未習得の人に教える行為のことである。
2)教育における人間とは何か
教えるという行為には,実際,多くの人が関わっている。 教育における人間という場合,教師や父母や役人やマスメディアの人たちを指しているのではない。 一般には,児童・生徒を指している。 つまり,教育における人間は,教育によって生み出される人間と考える方がよいだろう。
2.教育によって生み出される人間とは何か
1)教育によって生み出される人間とは何か?
さて,教育によって生み出される人間について検討してみよう。
「AERA」に次のような教育関連記事が掲載された。
長谷川煕「福岡県・町立那珂川中学の暴行現場 心を失った教師の暴走」
『AERA』,NO.31,1994.8.1.
※注意事項
この事件については,「僕」が実際に見聞,調査しているわけではない。
マス・メディアによって「情報操作」されている危険性もある。
情報操作のあることを自分なりに意識しながらこの記事を読んでみよう。
この記事の流れを小見出し風に示すと以下のようになる。
この記事は,教育によって生み出される人間を考える上でヒントになる。
以下の観点で整理してみよう。
2)体罰をめぐる問題についてどう考えるべきか
@体罰とは何か
教師が罰として児童・生徒に加える肉体的暴力。
Aなぜ彼らは体罰に「はしる」のか
教師の中に理想と現実の矛盾が存在する。
理想
社会に出るためには,その社会の文化様式(ルール)を習得する必要がある。 つまり,社会化(socialization)を行う必要がある。
社会化の要請については以下の文献が面白い。
高橋庄太郎「学ぶ・教える」朝日新聞,1996.4.29.
問い直される漢字教育のあり方
文化様式(言葉など)を習得できなければ, あるいは,きちんと守れなければ,社会に出て困るだろうから, それがわかるように仕込むしかない,と体罰に「はしる」教師は考える。
体罰容認の空気については以下の文献が面白い。
落合恵子(作家,月刊『子ども論』発行人)「時評」読売新聞,1996.4.29.
体罰容認の空気
体罰による威嚇は効果的である。 しかし,それが効き始めると,それ無くしては生徒を抑えることができなくなる。 また,教師は,教室内では「絶対権力者」であり,その非を攻められることは稀である。 次第に,体罰による一種の「恐怖政治」が蔓延し始めていく。
学校の脅しについては以下の文献が面白い。
匿名希望(神奈川県 高校生17)朝日新聞,1996.4.29.
「私もひとこと」
体罰に「はしる」教師は,自主的に考える児童観・生徒観をいつのまにか捨象してしまう。
B体罰にはしる教師の論理のどこに矛盾があるのか
体罰にはしる教師はどういう社会をイメージしているのか。
「教育とは,教員が生徒を統制し,操り人形のようにすること,
という思考が,日本の小,中,高校教育界に,総じて色濃く流れている」
とAERAで指摘されている。
体罰にはしる教師は,「既存の社会」を「絶対的なもの」としてイメージしている。
体罰にはしる教師のイメージする社会は「子ども」にとって非常に住みにくい。
現場の教師は,この狭間で大きく揺れている。
現実の社会というのは,教育がめざしている社会と大きくかけはなれている。
例えば,社会科系の『学習指導要領』では,「有為な人材育成」をめざしている。
しかしながら,この有為な人材育成というのは,自主的な市民を育成することなのか,
社会の歯車の一つである一市民を育成することなのか,すごく曖昧である。
教師の頭で攻めぎあっている社会
理想的な社会
現実的な社会(既存の厳しい社会)
教師が現実の社会を動かす「歯車」の一員を育成することを主眼にした場合,
AERAで指摘されたような事例が生じるのではなかろうか。
C体罰は許されているのか
いかなる体罰も法で厳しく禁じられている。
どのような形で禁じられているのか。
国内法
A 最高法規である日本国憲法にはどのように書かれているのか
日本国憲法 第二十六条
@すべて国民は,法律の定めるところにより,
その能力に応じて,ひとしく教育を受ける権利を有する。
B 教育基本法にはどのように書かれているのか
教育基本法 第三条(教育の機会均等)
@すべて国民は,ひとしく,
その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって,
人種,信条,性別,社会的身分,経済的地位または門地によって教育上差別されない。
C 学校教育法にはどのように書かれているのか
学校教育法 第十一条
校長及び教員は,教育上必要があると認めるときは,監督官庁の定めるところにより,
学生,生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし,体罰を加えることができない。
様々な法律によって,子ども(児童・生徒)の人権は保障されている。 人権が保障されている以上,体罰も禁止されている。
国際法
A 児童の権利に関する条約にはどのように書かれているのか
日本は「児童の権利に関する条約」(89年国連で採択)を94年6月批准した。
児童の権利に関する条約(抜粋)
6.子どもが,自分のことについて自由に意見を述べ,
自分を自由に表現し,自由に集いを持つことが認められるべきです。
しかし,そのためには,子どもも,ほかのみんなのことをよく考え,道徳を守っていくことが必要です。
7.子どもは暴力や虐待(むごい扱い)といった,
不当な扱いから守られるべきです。
児童の権利に関する条約でも,体罰の禁止がきちんと明記されている。
B なぜ日本はこの条約をすぐに批准し,発効させなかったのか
これまで学校教育法などで体罰の禁止が明記されながらも,
体罰による指導が一部で黙認されてきた。
その背景には,殴ることによって気合いを入れ直すといった日本的精神教育論があると考えられる。
このような体罰が残存するのは,
日本の教育によって生み出される人間が,
教育の理想とは裏腹の,社会の歯車の一員として位置づけられてきたことに由来する。
3.終わりに
日本の教育には,本末転倒していることが数多くある。
教育は,児童・生徒のより良い成長・発達が主眼であるのに,
教師同士の達成度競争に重点が置かれている場合がある。
一糸乱れぬ統一を理想とする教師個人の完璧主義が
教師同士の競争のレールに乗ったとき,
児童・生徒はいい迷惑である。
また,集団生活のルールを守るために,
集団生活のルールを壊すようなことも平然と行っている。
どのような校則が必要か,どのように守るかを検討せずに,
有無を言わさず校則を遵守させようとしている。
落合氏が指摘しているように,
現実の社会システムが変化してきている以上,
近い将来日本の教育も変わらざるを得ないだろう。
様々な新聞記事などをもとに,教育問題を検討した。 が,実際に見聞したわけではない情報も数多くある。 バイアス(偏見)が入っているかもわからない。 「違うな?」と思った人は自分で調査しよう。
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