宮本氏の論考は,学校教育における精神論について言い当てている。
宮本政於『お役所のご法度−霞が関ムラの怖〜いお仕置−』講談社,1995年,pp.280-282.
他にも多数,宮本氏の論考が出ています。
暑さに耐えてこそ教育になる
宮本氏の論考から,以下のことが言える。
社会の大きな変化にも関わらず,教育はあまり変化してきていない。
現場の教師の持つ教育論は旧態依然である。教師教育が余り影響をあたえていない。
理想に燃える人でも,教師社会にはいると,その社会の伝統に押しつぶされていく。
教師社会も他の職業集団の社会と違わない。
2.大学における教育改革
1)教育改革の実態
「学生の関心を学問に向けるには・・・/身近な素材でまず興味を/若手教員たちが『講義』改革」
『朝日新聞夕刊』1993.7.21.
「大学改革」の嵐の中,大学教育に新しい授業スタイルが提唱されてきている。
マスコミでもてはやされているものとしては,東京大学教養部の試みである。
東大では,一般教育の改革として,英語の共通テキスト作りからその改革はまず始まった。
その後,文系の基礎演習テキストとして,
『知の技法』(1994),『知の論理』(1995),『知のモラル』(1996)が相次いで出版された。
学会で好奇の目を向けられているものとしては,武蔵大学の試みがある。
そこでは,学生参画型の授業が試みられている。
2)なぜ知の三部作が売れるのか
「知の技法ベストセラー/『大学再生』の試みに幅広い関心」『朝日新聞夕刊』1994.5.26.
「大学を離れる人々にー『知のモラル』編者に聞くー」『毎日新聞夕刊』1996.4.18.
@『知の技法』『知の論理』『知のモラル』とは何か
小林康夫・船曵建夫編『知の技法』東京大学出版会,1994.\1,545.
第I部
『知の技法』では,どのような「目的」のために研究をするのか,
どのような「認識」の方法があるのか,
どのような「発表」の方法があるのか,について書かれている。
文系の学問研究の方法論が書かれている。
小林康夫・船曵建夫編『知の論理』東京大学出版会,1995.\1,545.
第I部
『知の論理』では,論理について様々な角度で検討されている。
論理の集大成である卒業論文をどう書くかという目的のために様々な論考が配置されている。
小林康夫・船曵建夫編『知のモラル』東京大学出版会,1996.\1,545.
第I部
Aどのような意図で書かれたのか−大学教育の実態−
現在,大学教育が問われてきている。
天下の「東京大学」だからというよりも,
大学教育において,何のために何をどのように教えるのか,
が問われてきていると考えた方が自然である。
これまでの大学教育はどのように行われてきたのか。
これまでの大学教育は,講義形式で行われてきた。
講義形式の問題点は,学生の問題意識が弱ければ,
受け身になりやすく,自らの考え(論理)を構築することは非常に困難である。
では,講義形式は,学生に考えさせない授業となるのか。
講義形式でも考える授業になる可能性はある。
しかし,教師が授業をどのように組織しているかを意識化し,
きちんと学生に明示化していかないと,学生に意識化させないと,
考える授業になる可能性は低くなる。
従来,教育内容,教育方法は,大学教師個人にまかされていた。
大学がエリート教育の場であった時代は,
教育内容,教育方法はブラックボックスでなければならなかった。
ところが,1970年代後半以降,大衆化した大学において,
教育内容,教育方法のブラックボックス化は問題を来し始めた。
学生が減らず,どんどん増えていく状況の中で,教員の危機感は弱かった。
しかし,第2次ベビーブームの影響で増えた学生数も,
今や減少の道を辿り始めてきた。
「大学冬の時代」(学生数の減少で潰れる大学もある時代)が到来するかもしれない状況の中で,
大衆化した学生に「知」をどのように教えていくかが,
改めて問い直されてきている。
「大学教育を今後どうしたらよいのか」という手探り状態であったところに,
大学教育そのものを問い直す著作,『知の技法』が出たので,
売り上げが伸びていると言える。
B大学で何を学ぶのか
島田博司「近頃の大学生ノート事情 授業を聴かず筆記せず 気軽に借りてコピー 貸して装う『友達』関係」
『朝日新聞』1995.7.15.
大学とは,自分の関心を持つ領域(専攻分野)で,
他人を説得するための技法(論理)を学ぶところである。
知の三部作の執筆目的は,その辺にある。
しかし,多くの学生の意識は随分と違う。
大学に入学しても,試験に出そうな所を暗記することに目がいっている。
これまで,「どこを暗記したら良いのですか」と何度聞かれたことであろう。
自分なりの考えをまとめようとする(論理を形成する)方向にはいっていない。
教師がなぜその話をするのか
教師がなぜその順番で話をするのか
教師がなぜその資料を使用するのか
これらの問いを発しながら,授業に臨む必要がある。
そうすれば,教師の論理展開が明らかとなる。
「この展開はなるほどだね」とか,
「えっ,そんな展開でいいの?」といった言葉が脳天を駆けめぐるであろう。
「この展開を真似よう」「この展開の方がいいよ」といった発想も出てくるだろう。
いつまに学問の方法を習得している(かもしれない)。
多くのお金と時間をかけて4年間を無為に過ごすなんてもったいない。
大学で何を学ぶのか,たまには自問してみるのもよい。
3)大学教育と教育問題
@今,なぜ大学教育を取り上げるのか
今,体罰,登校拒否,いじめなどが問題になっている。
では,なぜそういった問題が起こるのだろうか。
教師個人の個性もそうであるが,教員採用システムにも一部,問題があるのではないか。
「体罰問題」の根源を小・中・高の問題とみるよりもむしろ,
その小・中・高の先生を送り出している大学教育に問題の一端があると考えるほうが妥当ではないか。
A教員養成プログラムの問題は何か
大学は,伝統的に,「学問探求の場」「考える場」であるということは陰に陽に言われてきた。
しかし,実際に,大学の講義の多くは,考えさせる授業,知的好奇心を刺激する授業となっていたのか。
多くはもしかして・・・・。
(大学教師は,研究者であって,教育者ではないと考える傾向が以前は大きかった。)
一部の熱意ある教師を除いて,
小・中・高の多くの教師は大学の授業と変わらない受動的な授業を再生産してきたのではないか。
教員養成プログラムでも,子どもたちの自主性を標榜しながら,
学生に受動的な講義を強制してきた。
また,現実との関わりが重要であるにも関わらず,実践と懸け離れた理念的な講義に終始していた。
明治学院大学での教職課程では,その克服をめざすべく,様々な試みが行われている。
例えば,ディスカッション,フィールドワーク,地域研究,模擬授業などが行われている。
B教員採用システムにどのような問題があるか
10年前に比べれば,教員養成プログラムは充実してきている。
しかしながら,教員採用システムには問題が生じてきている。
最近の教員採用試験は,どの地域も,どの教科も厳しい倍率である。
1998年度採用予定の東京都の教員の倍率は以下の通りである。
学校種 | 教科 | 倍率 |
中・高等学校 | 養護 | 10倍 |
中学校 | 英語 | 14倍 |
高等学校 | 商業 | 16倍 |
高等学校 | 英語 | 20倍 |
中学校 | 社会 | 82倍 |
高等学校 | 公民 | 181倍:1人のみ採用予定 |
高等学校 | 地理歴史 | 263倍:1人のみ採用予定 |
Cこういう問題状況をどうすべきか
採用状況が厳しいなかで何ができるのか。
採用側では,研修制度を活用していくのも必要であろう。
大学側では,教員になるための幅広い教養を教えていくことが必要であろう。
3.最近の教育方法−流行のディベート,小学校でも−
井原圭子「広がるディベート教育の輪・小学生が議論する!」『AERA』1995.9.4.
今,新しい教育方法としてディベートが脚光を浴びている。
ディベートを取り入れた授業では,子どもは受け身にはなれない。
能動的に参加せざるを得ない。
ディベートは,知的ゲームである。
自分が支持しない結論でも,相手に負けないために守り抜かないといけない。
ディベートは自分の論理を構築する訓練に適している。
ディベートのデメリットは,勝負に拘りすぎるあまり,
なぜそれを学ぶ必要があるのかということが見えなくなる危険性を持っている。
ディベートの授業は,相手の立場に立つといった操作をするので,
いじめや体罰の問題に有効に作用する要素を持っている。