今回の話題:
先尺
仏教解釈学と『古今集』
電子テキスト版『大正新脩大蔵経』
電子テキスト版『大蔵経』
英国ダラム大学における東洋学部の廃止について
山崎闇斉『文会筆録』
「中世日本研究所」からのお知らせ
平安時代に使用された「毒」
もし、質問者にpmjsを通し てで はなく(オフリストで)、直接ご返事頂けるときは、それぞれのメールア ドレスに直接返信して 下さい。
英語の原文は以下のページにあります。
http://www.meijigakuin.ac.jp/~pmjs/logs/2003/2003.06.html
メールの総数: 19
期間:2003年6月17日 - 6月27日
pmjs ホームページ(英語)http://www.meijigakuin.ac.jp/~pmjs/
pmjs ホームページ(日本語)http://www.meijigakuin.ac.jp/~pmjs/indexj.html
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新規会員(入会順) Robert Jay Gould, Robert B. Rama (Michigan大学), Kendal Korach Parker (Ackland Art Museum, North Carolina大学), Georgia Jarrett (Leiden大学), 堀川貴司 (国文学研究資料館), 佐藤信子 (国文学研究資料館), 今関敏子 (川村学園女子大学), 伊藤守幸(弘前大学), Emilia Gadeleva (四国大学), Yukiko Hanawa (New York University)
pmjs 編集より:日本語の会員名簿の作成が遅れています。ご了承下さい。
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From: Noel John Pinnington <no...@...rizona.edu>
Date: 2003.6.17 05:15:47 Asia/Tokyo
Subject: 先尺
俗文学、芸術における教典解釈学の応用に関して、一例。本地垂迹的、現実把握(深層の現実における仮の姿同士の構造的類似)と密接なかかわりのある解釈の類型の例です。これは中世の和歌や猿楽、そしてたぶん連歌も含む論議において、広く使われました。
厳密に仏教的読み(絶対的な現実が現世に姿を顕す)と、もう少し不確実な個人的な読み(歴史的な仏陀は古代の絶対的仏陀の顕れであるーこの古代の仏陀の本質というのがやっかいである。仏陀は独立しているのか、そして絶対的な真実の全体とどう関わるのか)の両方を本地垂迹の概念が持っているとということは注目に値する。
非仏教的な世界観にとって(特に深層の精神的現実は別の姿をもつかのようであり、構造的な類似性によって示唆されている。そして非仏教的要素は深層の現実の多様化である)。(本地垂迹の非仏教的側面についてはAlice Matsunagaが本地垂迹に関する本のなかで論じている)。いま述べた本地垂迹のタイプは現地の宗教を仏教的世界観に取り込み、また中国と日本の三宗の統一を訴える。
(特殊な議論としては五つの儒教書を五つの経典に関連づけている。他の明かな偶然性と同じく数の一致は深層の同一性を示す)。
本地垂迹のこの種のものは、また芸術論、特に宗教と文化現象との深層での同一性を示すのに見受けられる。例えば、『古来風体抄』における天台宗と和歌、あるいは陀羅尼と和歌の議論がこれである。
こういった議論を、単なる類比の設定とみなすことは可能であるが、例えば、和歌は仏教に似ているだけではなくて、深いレベルにおいて、仏教と同一なのである。違いは現象面、表面だけであるという考えを幾人かの思想家は持っている。
十五世紀の禅竹の遺したものには似たような議論がある。猿楽の道は和歌の起源と同じ心の現れがある。猿楽の道は宇宙的姿の仏教的、ないし非仏教的教えと構造的に同一である。(この教えは三宗の統一論に使われたのと似ている議論である)。そして猿楽の伝統は事実上、神道の伝統である。禅竹は明示的にも暗示的にも、さまざまな隠(さ)れた姿の発見や証明のために、(俗化された)本地垂迹論を使う。
心敬は、禅竹のように、儒教や道教とともに仏典から引用し、連歌に関する論理を認め、あるいはそれに同調している。心敬の論法も同じである。連歌の道の深い現実の説明は、ある程度、他の道の深い現実の説明と同一である。
ある理論上の問題を扱う仏教において醸成されてきた議論が、特に厳密に仏教というわけではない、ある現実モデルに関する解釈の方法に適用された、ということである。
そしてその方法は、一方では儒教的主張(三宗論)に直面している仏教の正当性の問題に使われた。また仏教と、もともとあった宗教との不適合性を解決するために、使われた。そしてこの解釈モデルは文学や芸術理論を正当化し深化するために使われた。
Noel Pinnington
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From: Aileen Gatten <agat...@...ch.edu>
Date: 2003.6.17 06:19:31 Asia/Tokyo
Subject: 仏教解釈学と『古今集』
Niels Guelbergの中世の『古今集』と、他の平安時代歌集についての質問に関してですが、Susan Blakeley Kleinの「Allegories of Desire: Esoteric Literary Commentaries of Medieval Japan」(Harvard Monograph Series, 2002)を勧めます。この本は『伊勢物語』と『古今集』の立川真言密教の読みに焦点をあてています。
Aileen Gatten
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From: Thomas Howell <thowel...@...thlink.net>
Date: 2003.6.18 06:41:33 Asia/Tokyo
Subject: 仏教解釈学と『古今集』
Susan Blakeley Kleinの本の特に21ー22ページで、Niels Guelbergが説明していた聖書の予型論の解釈について取り上げて、日本の場合と比較しています。
Tom Howell
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From: Lewis Cook <lc...@...thlink.net>
Date: 2003.6.18 16:45:18 Asia/Tokyo
Subject: 先尺
Niels、調べてくれ、また有益な示唆をどうもありがとうございました。(中国天台宗の経典の用例を残念ながら私は気が付きませんでした。何もみあたらなかったので、単に推測しただけでした)。
先のメールであげてくれていた2つの用例、大変ありがたいです。2番目の用例は二字の漢字熟語として使っているかは、明らかです。多分、解釈の上級レベルにある人々の間で区別をつけるための専門用語なのかもしれません。つまり解釈、理解、秘伝修得の受け入れできているかどうかなどのレベルで差異をつける意味を指す先例であったのかもしれません。そして古今伝授(『両度聞書』もそのひとつです)の大部分がこれで占められています。
意味の曖昧性というのを許容してみるとしましょう。まだ考察の余地が残っていると思いましょう。 当該の『両度聞書』の注以外には室町時代の『古今集』注釈で、「先尺」という言葉はみあたりません。が、Nielsが促してくれた方向に考察をすすめる気になりました。
(ところでCD-ROM『大正新脩大蔵経』はどうやって手に入れるのか教えてもらえますか)。
別なほうの質問に関してですが、(天台宗経典を、「教典」の中に加えているのならばですが)、少なくとも14,5世紀(またそれ以降)の歌の解釈(伝授)の世界では、類型の応用は(解釈における文法上の意味は、多かれ少なかれですが、偶然比喩的、修辞的な天台宗用語を使い、例えば、俊成の『古来風体抄』の最初に出てくるようなものとは違い、積極的な比喩的解釈において)重要な要素となってきます。
(そうして天台宗ばかりじゃありません。…他の方もすすめているようにSusan Kleinの新著をぜひ読んで下さい、真言宗や、立川仏教に言及していて、今後は、この方面では欠くことのできない研究です。)
『古聞』(1481 --)から一例あげておきます。これは、宗祇のどちらかといえば、『両度聞書』の個人的な再解釈です。『古今集』983番歌(「わが庵は都の辰巳…」)に注して、「裏云、我庵とは王舎城也、我とは心王也、天台に王即心王舎即五蘊と釈す...」と説明しています。これは二条家流の『古今集』解釈の典型の一つです。あきらかに、用語を借用したというだけではなく、何かそれ以上のものをベースとしています。
一方、皮肉にも、『古聞』の始めの方で、『古今集』の大きな徳は、それが(或いは「編者が」…後の時代の読者はこれらの立場は違うと『古聞』は示唆していますが)天台宗の教義や実際の戒律などを「借りる」必要がないのだと主張しています(私の理解が正しければですが)。『古聞』はまた、「古今」という題目について、長い注釈をしています。この一部を以下に引きます:
「混沌未分之処教禅之二法を不借して知事は此集之徳也、尤大切之理也」
(これは結局『古今集』の絶対的独創性について、あまりにも分かりやすい主張をしています。仏教的[そして新儒教的、道教的]解釈学の方法は、便宜的、発見的(heuristic)な補助以上のものとして、理解するべきではないと言っているのだと思います。そういう国学以前の考え方がここで機能しているのかどうか、確信はありません。或いはこれが一般に混合的(syncretic)「(もし上手くストレッチするなら誰にでもフィットする)フリーサイズ」な方便論(upaya)の現れであって、室町の伝授的注釈者が大乗仏教から学んだもう一つの教訓です。)
もう一つの質問については、また後で、私のわずかな知識からいくつかお答えすべく努力しましょう。
「伝搬」論( ' diffusionist' theory)に関して色んなことを聞いた事があります。聖典や格言(gnomic texts)を解釈するための4段階の予型論の方法は、その昔、アレギザンダー大王の征服のおかげで、インドから西方に移され、そこから次第に教父哲学の聖書解釈4段階予型論のモデルとなったか、或いは少なくとも刺激を与えたと言えます。そして、仏教教義の伝搬や伝導を通じて中国にも拡がったのでしょう。
(とはいえ、一方3段階モデルもあり、4段階や5段階、そして7段階、8段階、44段階(ユダヤ教)、84段階(仏教)があり、まだまだより多くのそういったモデルがあります。こういったモデルの流行と衰退こそが伝搬主義の説明を徐々に蝕んだようです。)
こういう仮説の幾つかは、中世仏教と室町和歌注釈言語(glossographics)の両方に詳しい Ishigami Hidemiさんからご教示頂きました。(両方をやろうとしたので、学究キャリアを犠牲にしてしまったようです)。
Ishigamiさんは一度「伝搬主義論」は、70年代に論文を発表したドイツ人の学者のおかげだとしていましたが、具体的なことは仰いませんでした。(Robert Lamberton の古典的名著『Homer the Theologian』で似たような論を一度読んだ記憶があるのですが、確かじゃありません)。
私が出くわした仏教の4段階予型論に関して、一番説得力のあるものは、 『解深秘経』で充分に例証されたものですが、深層の深いレベルにある新参者が結局表面に引き戻され(或いは追い出され)、何も得るべきものはなく、別世界があったのではない、という必要不可欠な経験だけが残ります(ヴィトゲンシュタインや、サルトルやドゥルーズが思い起こされます。『オズの魔法使い』のフランク・バウムや『不思議の国のアリス』のルイス・キャロルは言うまでもないですが)。
古今伝授の師が伝授料を受け取るに熱心でありましたが、こういった事柄をそのまま信じたかは不明です。おそらくそういう微細な区別など無用だと充分知っていたでしょう。
それから、『天台宗全書』のCD-ROMもお持ちですか。(前にpmjsで広告が出ていたと思いますが)。そちらでも「先尺」の用例をみてみるのがいいですね。(コピーを手に入れようとは思っていたのです)。
L Cook
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From: guelb...@...eda.jp
Date: 2003.6.23 12:46:31 Asia/Tokyo
Subject: 仏教解釈学と『古今集』
Many thanks to Aileen Gatten and Noel Pinnington.
Noel はおもしろい問題を指摘してくれました。全く同意見です。が、解釈学を広い意味で捉えています。
こちらの問題提起の仕方があまり一般的すぎたので、悪かったのですが、私としては厳密な意味で仏教の解釈学に主に興味を持っています。例えば経典の解釈の方法などです。例をあげますと、大半の解釈は3つの段階を踏んでいます。(1)大体の意味の表明 (述大意)、(2)題目の説明(釋題目)、(3)本文の区分の表示 (判文段)です。
これは中国仏典の解釈学の一般的なパターンです。そして日本でも広く使われました。こういうパターンは比較的客観的なものです。こういうパターンがあるかどうか見てみることができます。その意味を問う必要はありません。(「先尺」の問題はこれに関わっています:経典の中国語の注釈書にこの「先尺」のほとんどの用例が見出せるわけですから、ある特別な解釈学のパターンと関連しているのかもしれません)。
Noelの本地垂迹のパターンについてですが、まず本地垂迹が解釈学のパターンとして発展してきた、ということを示す必要があるでしょう。例えば、最初、仏典を説明するのに使われたというようなことです。(知ってる限りでは、仏典についての後期平安注釈文献に関する研究はあまりありません)。
6月8日の仏教文学会で、Watanabe Marikoさんが面白い発表をしてました。発表は『法華経』の16世紀の注釈書(『Jurin shuuyoushuu』1512年)において、尊俊が経典の理解を助けるための方便としてではなく、経典と同価値のものとして和歌を用いたという内容でした。
長い間、私は山田昭全のもとで研究していましたせいか、方便としての和歌という考え方は、寂然の法門百首において『法華経』を解説するために和歌を使うということが、普通だと思っていました。これはWatanabeさんの議論には通用しませんが、尊俊の場合は少し違うようです。もし、Watanabeさんの論が正しいならば、方便としてではない和歌は、仏典の解釈学と同じく説明できるのも納得がいきます。
Sincerely yours,
Niels Guelberg
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From: guelb...@...eda.jp
Date: 2003.6.23 13:04:56 Asia/Tokyo
Subject: 電子テキスト版『大正新脩大蔵経』
皆様、
『大正新脩大蔵経』電子版は当pmjsの会員であるCharles A. Muellerが長年携わっているプロジェクトです。
台湾にオンラインのデータベースがあります(CBETA project)。これは全サンスクリットの仏典と中国語の『大蔵経』の一部(巻 1-56と 85)が収められています。BIG5文字コードで、2001年に完成しました。長い間ダウンロード可能だったのですが、最近は検索エンジンでチェックすることができるだけです。
CD-ROM:何年か前、『大正新脩大蔵経』の出版社が5,6枚のものを出しました。それぞれ、2万円ぐらいです。CBETA projectより前に販売され、私はそれを買いましたが、高価なものです。
天台宗がCD-ROMを2枚出しています。主に 天台大師Chih-I (智ぎ)のものからが収められています。本文は日本のコンピューター向けですので、SJIS 文字コードを使って読むことができます。それぞれのCDは、3千円です。本文はAPPフォーマットです(禅テキスト データベースを作った Urs Appにちなんで名付けられています)ので、本文中に星印(これはSJIS 文字コード以外の外字を意味します)がいっぱい出来てきます。けれども、本文の検索は簡単です。
Niels Guelberg
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From: "R. Keller Kimbrough" <rkkim...@...by.edu>
Date: 2003.6.24 03:13:03 Asia/Tokyo
Subject: 仏教解釈学と『古今集』
Hello everyone,
Watanabe Marikoさんの発表については聞いていませんが、尊俊の『法華経鷲林拾葉鈔』については、過去2年ほど研究しています。 Niels GuelbergがWatanabeさんの要点を、尊俊は和歌をその注釈の中で方便としてではなく、「本文と同等のものとして」使ったと説明していました。このことは確かに、言えます。尊俊の著述は中世天台仏教の本覚思想に裏打ちされて書かれています。つまり究極的には経典とそれ以外を区別していません。更に、尊俊の著述の「陀羅尼」の巻では、言い古された「和歌は日本の陀羅尼である」(13世紀頃の注釈書の世界でいわれはじめたことですが)、ということを、かなりの部分を割いて論じています。『法華経鷲林拾葉鈔』と15,6世紀の天台宗の法華経注釈(例えば『一乗拾玉抄』 [1488] や、『法華経直談鈔』 [1546])では、和歌には中世の天台宗の解釈学によれば、仏陀の教え(Dharma)を説く手段として、しばしば(誤った)解釈がなされています。(Jacqueline Stone 【『Original Enlightenment and theTransformation of Medieval Japanese Buddhism』(Honolulu: U. of Hawaii Press,1999)】によって観心スタイル(kanjin-style)として大変良く説明されています)。
Best,
Keller
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From: "Philip C. Brown" <brown....@....edu>
Date: 2003.6.23 22:46:21 Asia/Tokyo
Subject: 英国ダラム大学における東洋学部の廃止について
昨日のH-Japan(日本歴史のメーリングリスト)に以下のメールを転送しましたが、pmjsにも同じく送ります。この学部には、著名な日本・韓国についての文化人類学者であられるGina Barnes教授が在籍していらっしゃいます。私が読んだ限り、語学のポジションだけに関しては、大学の他の学部に吸収されるようです。現在の所、語学教員以外に関しては何も聞こえてきていません。選挙はグリニッジ標準時の火曜日に予定されていますので、注意してください。とはいえ、実際には議論は2,3日前から始められます。原則として、議論は3ヶ月位は続きます。その辺ははっきり分かりません。
Philip Brown
Ohio State University
転送されたメッセージ
From: Naomi Standen <naomi.stan...@....ac.uk>
Dear Colleagues,
各位
ダラム大学(英国)は東アジア研究学部を閉鎖することを提案するものです。主にその費用効率の悪さが(学部での盛んな反対論がありましたが)理由です。英国においては、専任職はすでに存在していませんので、学部閉鎖に伴い解雇者が出ることは否めません。学部にはほんの2日前(6月17日)に報告したので、大学理事会は火曜日(6月24日)に理事に決議してもらうべく予定しております。皆様には東洋学の教育、研究者の数についての議論をあらためて繰り返す必要はないでしょう。
英国における高等教育に関して詳しくない方々に説明しておきますと、当提案は、過去12,3年間に、強化され、徹底した検査の傾向を背景としています。現在、いわゆる研究と教育の「質」によって、全ての学部をランク付けしています。一年の、まさにこの時期、この週、大半が年度末を迎えている、このタイミングがまた、英国の状況にとっては重要です。この時期、成績評価などの重要な、そして時間の掛かる会議が多く、また、年長の同僚達はよく、他の大学の同分野へ、外部から助言をするため出かけています。
ダラム大学長Sir Kenneth宛にお考えをお書きになって下さい。
Regards,
Naomi Standen (PhD, Durham)
Lecturer in Chinese History
University of Newcastle-upon-Tyne
UK
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From: Michael Watson <wat...@...eijigakuin.ac.jp>
Date: 2003.6.24 00:27:58 Asia/Tokyo
Subject: 電子テキスト版『大蔵経』
Niels Guelberg が、以下のように述べていましたが、
『大正新脩大蔵経』電子版は当pmjsの会員であるCharles A. Muellerが長年携わっているプロジェクトです。
実はCharles Muller はpmjsのメンバーではありません。但し、その貴重な電子資料は以下のページから取得出来ます。
http://www.human.toyogakuen-u.ac.jp/~acmuller/
『大蔵経』電子テキストは、以下のページです。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~sat/
Michael Watson
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From: janine <jani...@...l1.accsnet.ne.jp>
Date: 2003.6.23 13:34:20 Asia/Tokyo
Subject: 英国ダラム大学における東洋学部の廃止について
嘆願書が出ていればサインしたいのですが、誰か書きましたでしょうか。
Janine Beichman, Dept. of Japanese Literature
Daito Bunka University, Tokyo
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From: Philip Brown <brown....@....edu>
Date: 2003.6.24 04:46:35 Asia/Tokyo
Subject: 英国ダラム大学における東洋学部の廃止について
Janine,
嘆願書など出回っていないようです。個々の手紙による嘆願に期待しているようです。
Phil
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From: Nobumi Iyanaga <n-iya...@....bekkoame.ne.jp>
Date: 2003.6.24 02:02:20 Asia/Tokyo
Subject: 電子テキスト版『大蔵経』
Hello,
また以下のページも御覧になってください。
http://www.cbeta.org/index.htm
それから、
http://www.indiana.edu/~asialink/
Best regards,
Nobumi Iyanaga
Tokyo,
Japan
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From: Bernhard Scheid <bernhard.sch...@...w.ac.at>
Date: 2003.6.24 19:18:35 Asia/Tokyo
Subject: 山崎闇斉『文会筆録』
Dear members,
事典の項目に山崎闇斉の新儒教(朱子学)『文会筆録』の書名を翻訳しなければなりません。
Herman Ooms (1985)が使った「note」(覚書ー訳者注)という訳を見つけたぐらいですが、少し不明瞭かなと感じます。私としては「Notes on Scholarly
Encounters」(学問的出会いー訳者注)ぐらいの感じです。何かすでに定着した英訳はありますか。或いはどなたかもっといいお考えがあったらご教示下さい。
Thank you for your help.
Bernhard Scheid
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From: James McMullen <james.mcmul...@...ental-institute.oxford.ac.uk>
Date: Tue, 24 June 2003 +0800
Subject: 山崎闇斉『文会筆録』
『文会…』は『論語』(XII, 24)へ言及しています。「曽子曰、君子以文会友、以友輔仁」。(曽子が言った、「君子は文事ー詩書礼楽ーによって友達を集め、友達によって仁の徳を助ける」。 英訳にはこのことを何らかの形で表すべきでしょう。
James McMullen
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From: Rokuo Tanaka <ro...@...aii.edu>
Date: 2003.6.25 07:50:06 Asia/Tokyo
Subject: 山崎闇斉『文会筆録』
『文会筆録』全20巻の全訳は、どの国の言語でもなされていないと思います。
「Notes」の訳を使っているOoms氏の論文は「'Primeval Chaos' and 'Mental Void' in Early Tokugawa Ideology」(Japanese Journal of Religious Studies V13, N4, Dec'86, p258)でいいですか。注には Ooms氏の著作についても触れられています。(Tokugawa ideology: early constructs, 1570-1680
Princeton UP, 1989, c1985, ISBN 0691008388).
以下(邦文)役立つでしょう:
高島元洋著『山崎闇斎 : 日本朱子学と垂加神道』(ぺりかん社 1992年)
高島氏は闇斉の『文会筆録』における思想と朱子(Chu Xi)の教理を較べています。
Rokuo Tanaka
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From: Barbara Ruch <br...@...umbia.edu>
Date: 2003.6.25 01:38:39 Asia/Tokyo
Subject:「中世日本研究所」からのお知らせ
新刊
今春『女性と仏教」関連の画期的な展覧会が京都と奈良で開催されました。日本円での支払いが簡単には出来ない方々のために、「中世日本研究所」(The Institute for Medieval Japanese Studiesーコロンビア大学)がこれらのカタログ注文をドルでも受け付けます。
購入を希望する方は、希望する書名と冊数、それから領収書の送付の方法(航空便か、船便か)を明記の上、当方までご連絡下さい。教育・研究に資するところ多いカタログです。
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Art by Buddhist Nuns: Treasures from the Imperial Convents of Japan
(尼による芸術:日本の門跡寺院の宝物)
By Patricia Fister
ISBN 0-9741103-0-2 (paperback) 91 pp., $18.00
Institute for Medieval Japanese Studies
Convents of Japan"
画期的な展覧会の全ページカラーカタログ(日英語) "Art by Buddhist Nuns: Treasures from the Imperial (尼による芸術:日本の門跡寺院の宝物ータイトル訳はpmjsによる)は、Patricia Fister教授が企画し、京都の野村ミュージアムで4月22日から5月18日にかけて開催されました。11人の江戸初期の尼僧(うち10人は門跡寺院の尼僧)による仏教美術の作品、絵画、書、彫像、その他の宗教的工芸品などが含まれています。
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Josei to Bukkyo: inori to hohoemi (女性と仏教:祈りと微笑み)
Price: $16.00
尼僧による仏教美術に関する初の展覧会:奈良国立博物館、本年4月15日から5月25日にかけて開催。出版:奈良国立博物館。263ページ。日本語。付英語要約と標示。
奈良時代から江戸期にかけての女性と仏教に関する広い範囲をカバー。文、西山厚。英訳、Michael Jamentz
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注文問い合わせ先:
Institute for Medieval Japanese Studies
509 Kent Hall
Columbia University
New York, NY 10027
tel. (212) 854-7403
fax. (212) 854-1470
email: medievalja...@...umbia.edu
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From: INGP...@....com
Date: 2003.6.25 06:46:09 Asia/Tokyo
Subject: 平安時代に使用された「毒」
平安時代使用された「毒」についてまた質問するのをお許し下さい。アーカイブ03の「ワラビ」についてアクセスしようとしたのですが、大変面白い遊女の議論が出てきてしまいます。(ところで、Michael Steinの本注文しました。すばらしい一冊です。ありがとうございました。それに他の有益な出版物についての情報もありがとうございます。)
それで、この時代の「毒」について何か(または英語ないしドイツ語の論文を)ご存じの方がいらっしゃいましたら、お教え頂ければ嬉しいです。多分同時に「薬」としても使用されたかもしれません。
Ingrid Parker
pmjs 編集から:正しいリンクは
http://www.meijigakuin.ac.jp/~pmjs/archive/1999/arch04.html
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From: Thomas Howell <thowel...@...thlink.net>
Date: 2003.6.27 07:29:56 Asia/Tokyo
Subject: 平安時代に使用された「毒」
Hi Ingrid,
毒について:
『今昔物語集』(12.34 「書寫山性空聖人語」)、聖人の伝記の始めのほうに、以下の様な文章があります。
今昔… 母ハ源ノ氏。其ノ母、諸ノ子ヲ生ムニ、難産ニシテ不平ズ。而レバ、此ノ聖人ヲ懐任セルニ、流産ノ術ヲ求テ毒ヲ服ス…
でも、何の効果もなく、結局は問題なく出産しました。
これは私が読んだ記憶にあったものでした。「毒」で『今昔』を検索すれば、もっと出てくると思います。とはいえ、どういう「毒」なのかについては書いてありませんが。
堕胎に使った薬のことについて知っている人はいるでしょうか。
Tom Howell
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From: Michael Watson <wat...@...eijigakuin.ac.jp>
Date: 2003.Jun.27 13:38:21 Asia/Tokyo
Subject: 平安時代に使用された「毒」
Ingrid,
私も「毒」の用例を探す誘惑に負けました。
『宇治拾遺物語』には矢尻に毒を塗って虎を殺す話が出てきます。(12.19、『大系』 p. 351, ed., D.E.Mills訳 p. 372).
『平家物語』では1177年に流刑にあった成親を毒を盛った酒で殺そうというとした話が出てきます。失敗におわりましたが。(巻二「大納言死去」)(『大系』上 p. 158, McCullough訳 p. 84)
『太平記』(巻十二「神泉苑事」)には食べ物に毒を盛る中国での話の生々しい描写があります。(『大系』 vol. 1, p. 430, McCullough訳 386)
Tom Howellが書いてますように、『今昔』には沢山の用例があります。
Michael Watson
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