2010年度卒業式式辞
2010年度卒業式式辞
※この式辞は、卒業式のために準備されたものです。
学長 大西晴樹
卒業生の皆さんは今日社会に羽ばたくことになります。明治学院大学の教職員の代表として、皆さんの旅立ちを喜ぶと同時に、この日を心待ちにしてこられた保証人の皆様方の感激はいかばかりかと存じます。また3月11日の東日本大震災で被災されました皆様に心よりお見舞い申し上げます。
今日は、母校を離れる卒業生の皆さんの前で、学長として明治学院大学における最後の講義をしなければなりません。明治学院大学の教育理念は「他者への貢献」(Do for Others)であります。
皆さんがこの4年間慣れ親しんだあの黄色をご覧いただきたいのですが、このチャペルの窓の黄色い十字架に由来しています。そしてこの教育理念は、先ほど読んでいただいた聖書の箇所「だから人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」’Do for Others what you want them to do for you’(マタイ7:12)に由来すると同時に、創設者へボン博士の日本人への献身に由来するものであることは、皆さんはすでに周知のことと思います。
さて、今日は、牧師や社会運動家、社会事業家として知られ、ノーベル賞候補にノミネートされ、明治学院の卒業生のなかでは世界でもっとも有名な賀川豊彦についてお話することにしましょう。賀川は、これまでもノーベル平和賞候補であったことは漏れ聞いておりましたが、50年前の候補者までは公開してよいとの規則により2009年にノーベル財団が公開した候補者リストによれば、賀川は、1947年,48年と2度の文学賞候補、54年、55年、56年に3度の平和賞候補であり都合5回もノミネートされていたことが判明しました。日本初の受賞は物理学賞の湯川秀樹博士で1949年のことですが、日本が戦争に敗れた直後のこの時期に、文学賞や平和賞で受賞すること自体かなり難しかったのではないでしょうか。
皆さんは「世界のカガワ」といえば、ドイツブンデスリーガー・ドルトムントの香川真司選手のことを思い浮かべるのではないかと思いますが、賀川豊彦は、1905(明治38)年に徳島中学を卒業して、牧師を志して明治学院高等学部神学予科に入学しました。17歳の時です。賀川に洗礼を授け、明治学院に推薦してくれたマイヤース宣教師が神戸に神学校を設立した関係上、1907(明治40)年に予科を修了して神戸改革派神学校に移りましたので、2年間白金で10代後半の青春時代を謳歌したといえましょう。
明治学院時代の賀川については、1920年に出版され、400万部という空前のベストセラーとなった自伝小説『死線を越えて』の中にも記されていますが、賀川の風采は、色白で、長い髪に油をつけないで、水で真中から分けることを自慢の一つとする青年でした。すでに学生の頃から周囲の貧しい学生の学費の補助をしたり、巷に捨てられた老人を寮に連れてきて扶養したり、トルストイの小説に影響されて菜食主義を実行するベジタリアンでもありました。友人の話によれば、一緒に散歩に出ると、折々杖でもって大きく「偉大」だとか、「超越」だとかよく書いたとのことです。何か賀川の心の中にそうしたものに憧れる一面があったのではないでしょうか。授業では、天文学、地質学、生物学、経済学などに異常な興味を抱く半面、国語、漢文の如きは試験が来るとすぐ白紙を出して受け持ちの教師に怒られていたと言われています。本人も、『明治学院50年史』において「私は余り学校の授業に出ないで、ライブラリーから哲学の書物を借りて一生縣命読み続けた」と述べているぐらい、読書欲が旺盛でした。当時の明治学院は学生数500人ぐらいの小さな学校であったにもかかわらず、外国ミッションの支援の下に図書館は大変すぐれていまして、2万冊か、1万5千冊の蔵書があったと言われていますが、賀川は「この本を全部読破しよう」と大言壮語したぐらいです。当時の日本は、後発の資本主義国として産業革命が広がりを見せ、貧富の格差が拡大し、社会主義思想が輸入された時代でしたから、賀川もご多分にもれず、キリスト教の書物以外に、マルクスの『資本論』を英語版で読んだと言われています。
社会事業家としての賀川豊彦を理解する場合、重要なのは、1909年12月24日、21歳のクリスマス・イブに神戸の新川にある「貧民窟」と賀川がいうスラムに引っ越し、そこで牧師としての働きや、社会事業家としての働きを始めたことです。そこには、イエス・キリストが貧しい人に仕えることによって十字架にかかり、その愛を私たちに示されたというキリスト教の贖罪愛の思想とともに、青年賀川の胸の病気との闘い、その病気による人生における一種の断念がありました。賀川は、明治学院高等部神学予科に在籍していた時、賀川は無理がたたって再発し、肺炎から結核になりました。賀川は「若い時には喀血するとすぐ恐怖した。私は17歳の時、喀啖を出し、19歳の時から約2年間学校を休んで保養した」と述べています。今なお怖い病気ですが結核患者は周辺の人間から隔離され、賀川は予科修了を機会に三河の小さな村で闘病生活をしました。そして小康状態になり、新設された神戸改革派神学校に入学するものの、都会の牧師になるつもりのないことをこう述べています。「今日の教会には一向に行きたい気がしない。感傷的な連中のみが徒に多くて、少しも心を引きつけられない」。それならば、「貧しい人々の中で自分の生命を燃焼させよう、神戸の新川に入っていき、そこで人のためになろう」。「どうせ近い中に死ぬのだから。死ぬまでありったけの勇気をもって、最も良い生活を送るのだと決心し」、スラムに引っ越したのです。私は「他者への貢献」のこの決意を職業人の生き方として高く評価しますし、人生において肯定は必要だが、「断念」ということも必要だと考えています。皆さんは今日、多くの学科目を一揃い学び、晴れて卒業必要単位数を習得して、めでたく卒業と相成りました。しかし、卒業後の人生は、なにか一つの職業に従事して、それを生業として生きていかなければなりません。おそらく20代はその仕事を覚える修業時代にあたりますから、皆さんはいったんオールラウンドプレイヤーを断念して、仕事を覚え、その仕事を発展させる立場に置かれます。これは、学生時代と異なり、かなり厳しい道ですが、その効果は大きいものがあります。
さて、こうして都会の牧師になることを断念して神戸のスラムに入った賀川ですが、そこで経験した貧困と社会悪とは想像を絶するものがありました。たとえば、「貰い子」という名の悪習についてこう述べています。「私は最初の年に、葬式をした14の死体中、7つ8つ以上はこの種類のものであったと思います。それは貧民窟の内部に子供を貰う仲介人が有って、・・・そしてその仲介人を経て、次へ次へと貧民窟の内部だけでも、4人も5人も手を換えて居ります。それは初め衣類10枚に金参拾円で来たとしても、それが第二の手に移る時には金弐拾円と衣類5枚位になり、第三者の手に移る時には金拾円と衣類3枚、第四の手に移る時には、金五円と衣類2枚位で移るのであります。之と云うのも現金が欲しいからで、それが欲しい計りに、段々いためられてしまった貰い子を、お粥で殺して、栄養不良として届出するのです」。また、「賭博と喧嘩はつきもので、私は『ドス』で何度脅迫されたか知れません。欲しいものは勝手に取って行きます。質に入れます。然し博徒と淫売婦とが、全く同じ系統にあることを知って驚きました。淫売の亭主、その女の番人であることには驚きます。そしてその亭主は朝から晩まで賭博をして居るのであります」。朝から晩までスラムに住んで賀川は、貧乏の苦しさをまざまざと経験し、貧乏が人間の精神生活に及ぼす悲惨な影響を見せつけられて、「折々窮(きわま)りない厭世観におそわれもした」と告白しています。だが、絶望だけではありませんでした。「私が賛美せざるを得ないのは、このドン底にも一種の固い道徳と、愛と、相互扶助のあることです。貧民窟の博徒が入監でもすれば、徴兵に行くように騒いで、皆で同情して差し入れをする。病気になれば、近所で救済する」と述べているように、貧しい人たちがもつ、道徳感、助け合いの絆や意識に注目していたことも事実です。賀川は、このような人間の性質を、分子がお互いに引っ張り合って力を発揮する表面張力にたとえて、「如何なる貧民と云えども、根底に於いてパンと寒気に圧迫されて居ても、また精神の表面張力によって、水が軍艦を浮かす様な、不可思議な現象」と表現しています。
21歳でスラムに入った賀川ですが、23歳の時に神戸改革派神学校を卒業し、25歳でハルと結婚、26歳から29歳まで2年9カ月アメリカのプリンストン神学校に留学して帰国します。そして賀川は留学したからと言って神戸のスラムを見捨てることはしませんでした。それどころか、1923年に関東大震災の救援のために東京に移り住む35歳の時まで、賀川は、神戸を拠点として、慈善だけで貧しい人の生活を変えることのできない現実を直視し、労働組合運動、農民組合運動、消費組合運動、信用組合運動、保険組合運動様々な社会事業運動を日本において最初に起こしました。これまでの救貧活動から、防貧活動に乗り出したのです。賀川は、その決意をこう述べています。「わたし自身の理想としては、貧民窟の撤去にあるけれども、今直に貧民窟が無くならないとすれば、貧しい人々と一緒に面白く慰め合って行きたいと思うのである。之は必ずしも慈善では無い。之は『善き隣人』運動の小さい糸口である。必ずしも大きな事業ではない。人格と人格の接触をより多く増す運動である。で、之は金で出来ないし、会館でも出来ない。志と真実とで出来るのである。即ち貧民窟に住むと云うことそのことだけが、その使命であるのだ」。
では、賀川が呼びかけた協同組合運動とは何であったのでしょうか。消費協同組合、現在は生協と呼ばれますが、その起源を例にとってみましょう。今日、我が国の生協の中でもコープこうべは地域生協として最も古い歴史と最も大きな組織を持っていますが、この生協は1921年に賀川の指導のもとに創設された神戸購買組合と灘購買組合に始まります。その灘購買組合の開設にかかわるときに、次のようなエピソードが残っています。この購買組合を創りその初代組合長となったのは、那須善治という人です。この人は日蓮宗の熱心な信者でして、クリスチャンではありません。那須さんのモットーは「自他共助、不惜身命」(お互いに助け合うことに命を惜しまず)だったそうです。那須さんは仲買人でしたが、第一次世界大戦末期のわが国の好況のなかで随分と儲けたようです。しかし、大変質素な方で、儲けたからといって贅沢をするような人ではありません。儲けたそのカネを何か社会の役にたつように使いたい、そのように思っていたそうです。那須さんは、当時スラムで活躍していた青年牧師である賀川に相談するように勧められました。そのさい賀川はこう述べました。「那須さん、そのおカネを貧しい人々への慈善事業に使うのもいいでしょう。しかし、慈善事業はデキモノに膏薬を貼るようなものです。膏薬を貼ったデキモノは治るかもしれませんが、また別のところにデキモノがでてきます。それよりもデキモノができないような体質を造ることに使ったらどうでしょう」。その結果、那須さんは「自他共助」の信念とも一致する協同組合運動に身命をかけることになったのです。
賀川は関東大震災以降、東京に活動の拠点を移して、牧師、社会事業家、平和運動家等様々な足跡を残し、母校である明治学院大学でも教鞭を執りました。そして300点以上の著作を残し、いまから半世紀以上もまえの1960年に71歳でこの世を去りました。その後日本は、驚異的な経済成長を遂げ、「豊かな国」の仲間入りをしました。私たちの生活が豊かになるにつれて、賀川豊彦の名前は忘却されたかのようでした。しかし1995年に、私はその賀川豊彦と偶然出会うことになりました。阪神淡路大震災の時のことです。1月17日に大地震が神戸を中心に襲いまして、死者は6千数百名を数えました。明治学院の学生たちはその惨状を知るにつれ、ボランティアとして救援活動に行きたいと問い合わせてきました。私は、学生たちが後期試験の最中だったものですから、今現地に行くと留年するので、試験が終了してから行きなさいと学生たちを言い聞かせました。しかしながら、あの混乱した被災地にどうしたら学生たちを行かせることができるのか、正直途方にくれていたのも事実です。そのようなとき、賀川が東京で組織した本所のイエス団の方から、神戸の賀川記念館なら明治学院大学の学生を受け入れてくれるとの連絡をいただき、後期試験終了後から5月の連休までの3ヶ月間に延べ二百数十名の学生を被災地に送ることができました。ミ二バンに救援物資やフトンを積みこんで、道なき道を乗り継いで学生たちが最初に賀川記念館に着いたのは、真夜中だったそうです。そのとき、賀川記念館の人から叱られました。どうして現地の被災者が迷惑な時間に来るのか。その時、現地との温度差に気付いたのでしょう。それ以来、学生たちは、賀川記念館の2階に寝泊まりして、震災後の復興のために忙しい両親が手をかけることのできない子供たちとともに遊び、勉強を教え、お年寄りを訪問し、落語を披露して、間接的ながら神戸の復興を支援しました。関東の大学がこれほどまでに効果的な支援活動が出来たのは珍しく、賀川豊彦との不思議な因縁を感ぜざるをえません。賀川はかつて、約10万人の命が奪われた関東大震災のさいに、関西で材木を積んで3名の青年と横浜港に上陸し、東京の惨状を目の当たりにし、神戸に帰り募金活動を開始、それによって食糧、衣類、医薬品その他を全部整えて再び上京、最も被害の大きかった墨田区本所にテントを張り、救援活動を本格的に開始しました。賀川豊彦が取り結ぶ不思議な縁と、阪神淡路大震災の経験のうえに、明治学院大学は1998年に全国の大学に先駆けてボランティアセンターを立ち上げ、いまやボランティア活動の盛んな大学となりました。
皆さんは、明治学院大学を卒業し、社会に羽ばたこうとしています。そのような時、「人格と人格の接触をより多く」という賀川の救貧活動の原点となった言葉を大切にしていってほしいのです。英語で人格はpersonといいますが、ラテン語のぺル・セ(per+se)からきたという説があります。ぺル・セは「自分自身で」ということですから、人それぞれの自律性を強調した解釈です。ところが、personはぺル・ソノ(per+sono)に由来するという人もいます。これは「響き渡る」という意味になります。つまり心の通いあいや思いやりに通じます。事実わが国でも「あの人は人格者だ」と言われるときは、その倫理的な自律性とともに思いやりのある温かい人のことを言うのではないでしょうか。今回の東日本大震災では、津波のせいで、死者、行方不明者は2万人を上回るようです。原子力発電所の事故が証明しているように、いかに科学技術が発達し、生活が便利になっても、自然の大きな破壊力の前で人間は無力な存在にすぎないのです。そのようなとき賀川豊彦は、「人格と人格の接触をより多く」という言葉で私たち人間がお互いに助け合い、支え合わなければならないことを教えました。皆さんは東日本大震災後の困難な時期に卒業を迎えることになりました。これからの人生、豊かで順調なものとは限りません。明治学院大学の卒業生の皆さんが、お互いに助け合い、支え合いながら、困難に立ち向かっていくことをお祈りして、学長からの式辞とします。
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