【第1/2回】 貿易のルーツ 世界史の流れの理解 
15世紀~19世紀)

シルクロードから見えてくるもの
  
  交易と貿易  陸のシルクロード 海のシルクロード
 

 映像から考えてみよう。教材用VTR明治:ローマシルクロード.mpg
                 ローマの富=金鉱山
科学=文化革命 イタリア・ルネサンスと地動説と大航海時代
=1500年代(16世紀)=              
     
■ 大航海時代=商業革命(1400~1600央年代)
 ポルトガル・スペイン・イギリス  キャラベル船 ←アラブ帆船

■キリスト生誕1500年記念「免罪符」(キリスト教会の腐敗の象徴)
  資本制社会への準備時代(=本源的蓄積)←富を蓄える  
     教会との戦い=宗教改革
:聖書(キリスト)に還る
                ルネッサンス:ギリシアの精神に帰ろう
                =人間中心の考え方=ヒューマニズム 
                *農奴:奴隷のような状態にいる農民
                 領主・僧侶(教会)VS農奴・商工階層    
                      ↓         ↓
                  (旧教カトリック)   (新教プロテスタント)
       
         グーテンベルグ:活版印刷(情報革命

==近代社会が成立する以前のカトリック(教会)擁護派VS批判派の論争==

 ルッターやカルヴァンらは,成長してくる商工階層:(都市)ブルジョワジー=市民の生活信条
を支え,農民の声を代弁した。とりわけ 「ローマ教会の理不尽な搾取と封建領主の圧迫」
に苦しむ都市ブルジョワジーの利害と直接結びつき,後にカトリック教会は否定されていた
貸付・利子は容認へと変わり,「働くとは祈ること」という彼らの職業倫理はプロテスタントの
教義となって,生活を支えた。その後注視すべきは、アングロ・サクソンでは新大陸を含めて、
生活全体の聖化を目ざす清教徒主義(ピューリタニズムPuritanism)の形をとり、個人のレベ
ルにとどまらず既存の国家権力や社会と対立し,激しい衝突を生みだした。清教徒(ピュー
リタン)革命がそれである。

■天動説から地動説;近代科学の誕生
地動説   コペルニクスの発表(『天球の回転について』1543年
1633年の2度目の異端審問; ロベール=フルーリ「宗教裁判を受けるガリレオ」(1846年作)
宗教裁判 1983年5月9日、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世は、バチカンで開かれていた国際
シンポジウムの席上、ガリレオ・ガリレイ(1564~1642)に対して、次のように述べました。 
「かつて、ガリレイが教会側から苦痛をこうむったことを認める。この経験は科学と宗教の関
係を正すことに役立った」。  新しい宇宙観の完成へ(ニュートン力学)
                                      
■経済革命                     
 
絶対主義国家・国王は,新興ブルジョアジーを強力に支持・推進(植民・国債・租税・貿易) 
  例えば 植民:インドからの収奪、黒人奴隷   アステカ帝国(メキシコ)征服・     
         貿易政策重金主義  スペイン・コルテス
                                  
 
 工業の勃興 マニュファクチャー(工場制手工業←問屋制家内工業)
                    ↓                  
         手工業の担い手たち=都市商工業者
                    ↓                
         ブルジョアジー(都市の勃興)へと成長
     英  第1次エンクロジャー(牧羊のための囲い込み)
     典型産業:羊毛生産~毛織物生産へ          議論の脇道:歴史段階発展説
                                   
         ⇒貿易政策重商主義       

国家は,貿易差額を大きくし国内の貨幣を増大させるために輸出産業を奨励し,輸入を規制した。この政策を理論的にサポートした学説が重商主義である。その代表的な思想家は,イギリスのW.スタッフォート,J.チャイルド,フランスのA.モンクレティアンなどである。資本主義の発展はまだ弱々しく,商品流通の領域にとどまっていた。しかし,未熟ながらも工業生産であるマニュファクチュアを背景に彼らは立論したから,生産を富の増加に欠かせないものと認めてはいた。しかし,富の実体=交換価値とそれを表現する自立的形態である貨幣とを区別できず,貨幣を即富と考えた。国内での取引は一方の利益は他方の不利益となり相殺されるから,これは富の増加とはならない。したがって外国貿易,輸出超過による貨幣の流入こそ富の唯一の源泉と考えたのである。これが,資本主義の幼年期に支配的な経済思想,重商主義である。涌井秀行『現代経済と経済学』(有斐閣,2007年)281
  認識:他者の存在/他社との区別・差異

====18世紀(1700年代)までの貿易のまとめ====

ヨーロッパはアジアから運ばれてくる商品の対価を貴金属で支払うほかはなかった。したがってこの交易,特に輸入側のヨーロッパは,南ドイツの銀の産出量による制約を受けていた。しかも陸路による交易であったから多くの危険も伴っていた。1400年代末から始まるコロンブスのアメリカ大陸の発見,バスコ・ダ・ガマらのアフリカ喜望峰回りのインド航路の開拓など「地理上の発見」は,陸路の危険に出会うこともなく,東方・アジア交易を飛躍的に拡大させることになった。ヨーロッパ人は,南米アズテック・インカ帝国とメキシコ・マヤ文明を破壊し銀を略奪して,ヨーロッパへ持ち帰った。さらに「地理上の発見」は,アメリカの植民地開発をも引き出した。鉱山や棉花・砂糖・煙草栽培の労働力として奴隷を拉致し,アフリカからアメリカへの交易商品とさえした。その後,アジア・東方交易も,制海権を制しか国々によって,ポルトガル,オランダ,イギリスへと覇権は移っていったが,いずれの国々の交易も寺院や貴族の屋敷を襲って財宝を略奪したり,海賊行為を働くことであった。その後,香料やその他のアジアの特産品を交易商品として扱うようになってからも,略奪と排他的独占が植民地支配の主な仕事であった。イギリスの東インド会社の経営は農民から地代を徴収し,塩などの生活物資を高く住民に買わせたりすることであった。 1700年代を通して「インドからイギリスに運び出された財宝は,割合小規模であった交易から得られたというよりも,むしろインドを直接搾取したり,インドで強奪した巨大な財産をイギリスに送ったりして,得られたものであった」(K,マルクス「東インド会社 その歴史と成果」『マルクス=エングルス全集』第9巻,大月書店, 1962, 147

涌井秀行『現代経済と経済学』(有斐閣,2007年)276


英◆ 産業革命(農業→工業) 1760年ジェニー紡績機      
    (=大変革)    ∥(道具機=作業機)
   機械制大工業のシステム(編成)
   機械の構成要素=メカニズム
   動力(機):(水車→蒸気) →化石燃料
     ∥          石炭→石油
               ⇒CO²,Nox環境問題のルーツ
   伝動(機)    
     ∥
   作業(機)
   
   産業革命→農業「革命」
       農業資本家 大規模農地・機械・農業(賃金)労働者=資本主義的経営 
      新大陸アメリカでの農業生産 1840~1900年 仏・英 1.3倍 独3倍(カロリーベース/農業労働者1人)
      人口増加
          
      農業と工業  富とは何か=「時は金なり。」
          (Benjamin Franklin Advice to a Young Tradesman )
          アダム・スミスAdam Smith
          国富=国民の年々の生産物=(それを生み出す)労働 (初期)労働価値説


自由貿易理論としての比較生産費説

 アダムスミスは,すべての国民の年々の生産物,したがってそれを生み出す労働こそが富である,と主張した。この端緒的「労働価値説」に立脚するスミスの提言は,経済学全般の進歩に寄与するとともに,貿易理論にも大きな影響を及ぼした。貿易差額を富の源泉と考える重商主義の狭い考え方は打ち破られ,生産こそが富の根源であり,貿易は生産の一契機であると位置づけ直された。スミスは,もう1つの彼の理論的根幹ともいえる「分業論」をストレートに外国貿易にも適用し,国際分業論として外国貿易の必然性を論証しようとした。すなわち,各人が自身の熟練労働をもってそれぞれの職業に従事し,他人よりも少ない労働で商品を生産することができれば,「買うよりも高くつくものを,自分のところで作ろうとしてはならぬというのが処世訓である」だから「もし外国が,ある商品を,われわれが自分で製造するより安くわれわれに供給できるならば,われわれはいくらか長じている方面の産業に従い,その生産物の一部を持って,外国からその商品を買った方がよい」(アダム・スミス〔大内兵衛ほか訳〕『諸国民の富』第3分冊,岩波文庫, 1965年,58頁)と主張した。 
  この考え方は,D.リカードに受けつがれた。リカードは,資本主義が発展した状態,つまり諸国家間に生産力の差異が存在する状態にこの分業論を当てはめ,いっそう発展した形で自由貿易の必然性を論証した。D・リカード(英)の比較生産費説である。 今、世界にはイギリスとポルトガルの2力国しかなく、また、生産している商品も毛織物とぶどう酒の2種類しかないと仮定する。そして、イギリスは毛織物1単位を生産するのに100人、ぶどう酒1単位を生産するのに120人必要だとする。 一方、ポルトガルは毛織物1単位を生産するのに90人、ぶどう酒1単位を生産するのに80人必要だとする。さらに、イギリスの全労動量を220人、ポルトガルの全労動量を170人とすれば、貿易が行なわれないときの2力国の毛織物の総生産量は、イギリス1単位、ポルトガル1単位の合計2単位である。同様に、ぶどう酒の2力国の総生産量も2単位となる。「世界経済と国際貿易・貿易政策
」  涌井秀行『現代経済と経済学』(有斐閣,2007年)282頁。

 

イギリス

ポルトガル

総生産量

毛織物

100

90

2単位

ぶどう酒

120

80

2単位

総労働力者

220

170

 

  この表を見るかぎり、毛織物もぶどう酒もポルトガルの方がイギリスより少ない人数で生産でき(絶対優位)、ポルトガルにとって貿易を行なうメリットは何ら存在しないように思われる。しかし、リカードは、このような場合でも、両国の生産費を比較し、比較優位のある商品の生産に特化することによって、双方ともに利益を得ることができることを主張した。

 すなわち、ぶどう酒の場合,ポルトガルの生産性〔(120人-80人)÷80人×100 = 50%〕はイギリスぶどう酒の生産性の1.5, 50%高い。これに対して毛織物の場合,ポルトガルの生産性〔(100人-90人)÷100人×10010%〕はイギリスのそれに対して10%にしか過ぎない。そこで、ポルトガルは生産性において比較優位にあるぶどう酒に特化し,イギリスは毛織物に特化して、全労働力(者)をそれぞれの生産に配置・投下する。その結果、ポルトガルで生産される葡萄酒は170/80= 2.125単位,イギリスで生産される毛織物は220/100= 2.2単位となり,投下総労働量に変化がないにもかかわらず、葡萄酒と毛織物の総生産量(ポルトガルとイギリス)は「増加」している。    

 

イギリス

ポルトガル

総生産量

毛織物

220

    0


2.2(倍)単位

ぶどう酒

0

   170

2.125(倍)単位

  いくら生産性が高い国であっても、生産資源は有限であるから、すべての財を自国で生産できるわけではない。生産性に違いがある場合には、まず比較優位を持つ商品の生産に特化し、自由貿易を行なうことによって、双方ともに生産量を拡大することができ,消費もより多く享受することができる。こうして国際分業の有効性をリカードは主張したのである。

この理論は,

①完全競争の成立 ②生産要素の国家間の非移動性③生産技術水準の固定化等の前提条件が必要である。

何よりもこの理論では,ポルトガルの毛織物の生産資源は活用されず,また,イギリスの葡萄酒の生産資源は活用されないことになる。そればかりか,リカードが「生産資源は有限」とした設定は,イギリスでは毛織物,ポルトガルではぶどう酒の生産資源は「無限」と設定されなければならない(自由貿易推進のイデオロギー)。
    
    ⇒実際の貿易政策=「自由」貿易帝国主義
   工業ブルジョアジー(産業資本家)は,圧倒的な生産力(輸出競争力)を背景に,関税規制の撤廃
   穀物法(1815年制定 1846年廃止//地主貴族→工業ブルジョアーの利益)
   
   事件その1:イギリス機械面の工場主は,インド綿の織物工を殺し,織物工の指を切った,という。
           「ダッカの街は白骨の海と化した。」
   事件その2:アヘン戦争YouTube  https://www.youtube.com/watch?v=DTfxbyGf6Cs →香港の「租借」
   謝晋監督 「阿片戦争(鴉片戦争/The Opium War)」1997年 
 
   植民政策Ver Up (収奪の上に原料供給と販売市場)
               1869年 スエズ運河開通 
  オペラ:ジュゼッペ・ヴェルディ「アイーダ;凱旋行進曲」1871年12月24日 エジプト、カイロ歌劇場初演

仏◆ 政治革命(絶対王政の打倒=ブルジョワジーの革命)1789年:フランス革命
     
    国民国家の形成 国民国家とは・・・・
                                       

------------講義の寄り道【絵画から見る近代=資本主義社会の成立】---------------------------

封建制社会の解体  ⇒  近代資本制社会誕生物語
貨幣経済の発達=商業資本の発達=商人の進出=商業利潤の追求=獲得
封建社会の基礎=自然(自給自足)経済を破る貨幣の流通

最初に人間の文化革命=人間性回復として表出; イタリアル・ネサンス
   ■電子美術館へようこそindex.html へのリンク

 【ビザンティン美術】は、5世紀から15世紀の東ローマ帝国(ビザンティン帝国)で発達した美術の体系で,
  古代のヘレニズム美術、ローマ美術を継承しつつ、東方的、キリスト教的要素を含んだ独特な体系を産んだ。

聖母マリアのイコン

 【ゴシック美術 -Gothic Art-】
12世紀から16世紀初頭にかけ中世当時の主流であったビザンティン様式からの逸脱から始まったルネサンス前の一大様式で、最終的に欧州全土に広がり、細部描写や優雅で装飾的な表現、世俗的主題への関心を示した国際ゴシック様式と

して発達する。ゴシックという言葉は、本来建築に使用された言葉で、その為、絵画より建築や彫刻にその特性がよく表れている。





===神が人間として描かれはじめる==
 モナリザ 拡大図

【ルネサンス芸術 -The Renaissance-】
15世紀から16世紀にかけイタリアはフィレンツェを中心に展開し、絵画、建築、彫刻などあらゆる芸術に影響を与えた史上最も重要な芸術運動で、自然主義と古典美術への回顧的思想から始まり、遠近法、明暗法、解剖学


など諸学問を通じて人類の理想的な形態を追求することを目的とし、ローマ、ヴェネツィアなど各都市で独自の画派が成立、以後国際的な様式に発展した。
* レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452‐1519)、


■ピエタ 拡大図* ミケランジェロ(1475‐1564)

Pieta(イタリア語)
キリスト教美術において、キリストの遺体を膝(ひざ)の上に抱き悲嘆に暮れている聖母マリアの姿を表した礼拝図像のこと。この「ピエタ」をもとにした、多くの人物で構成された「哀悼」とよばれる物語図像と区別される。「ピエタ」ということばは「敬虔(けいけん)な同情」という意味のイタリア語で、語源はラテン語のピエタスpietas(敬虔)である。しかし、この図像そのものは、元来イタリアで形づくられたものではなく、1300年ごろライン地方の諸修道院で礼拝像の一形式として成立したものである。それは、キリストの死去を記念する「聖金曜日」の礼拝の対象として使用され、ドイツではこの種の礼拝像をベスパービルトVesperbild(晩課祈祷(きとう)像)と称した。
 14世紀にさかのぼるドイツ彫刻の「ピエタ」の場合、聖母マリアの悲痛に満ちた表情やキリストの傷痕(しようこん)に覆われた裸身の描写など、しばしば非常に写実的に
取り扱われた。この人間的悲哀を強調する主題は、14世紀末に全ヨーロッパを襲った大疫病や百年戦争の災厄が引き起こした熱烈な宗教感情の展開と結び付いて広く世に流布し、15世紀から16世紀にかけてフランスやイタリアまで普及し、数多くの名品が制作された。たとえば、ルーブル美術館の『アビニョンのピエタ』はフランス・ゴシック絵画の傑作であり、イタリア・ルネサンスの巨匠ミケランジェロの「ピエタ」三部作(バチカンのサン・ピエトロ大聖堂、フィレンツェ大聖堂、ミラノのカステロ・スフォルツェスコ)は賛嘆すべき崇高な作品として名高い。しかし、三部作のうち『ロンダニーニのピエタ』とよばれるミケランジェロ晩年の作品では、聖母マリアは直立し、死せるキリストの遺体を背後から支えており、正統的な図像から離れ、新しい解釈が持ち込まれている。
〈大築勇喜嗣〉(C)小学館『スーパーニッポニカ』より引用(DVD-ROM版:簡単に知識が得られて大変便利信頼性もある)


■鶸(ひわ)の聖母拡大図(フィレンツェ、ウフィツィ美術館* ラファエロ(1483‐1520)
 
鶸(ひわ)とは,聖母の膝元にいる幼児聖ヨハネが幼児イエスに差し出している
小鳥のことで,キリスト受難伝中の「茨(いばら)の冠」を象徴する。

こうして「マリアやキリストが人間として描かれることになる
=近代社会化学が成立する以前のカトリック(教会)擁護派VS批判派の論争

ルッターやカルヴァンらは,成長してくる商工階層:(都市)ブルジョワジー=市民の生活信条を支え,農民の声を代弁した。とりわけ 「ローマ教会の理不尽な搾取と封建領主の圧迫」に苦しむ都市ブルジョワジーの利害と直接結びつき,後にカトリック教会は否定されていた貸付・利子は容認へと変わり,「働くとは祈ること」という彼らの職業倫理はプロテスタントの教義となって,生活を支えた。その後注視すべきは、アングロ・サクソンでは新大陸を含めて、生活全体の聖化を目ざす清教徒主義(ピューリタニズムPuritanism)の形をとり、個人のレベルにとどまらず既存の国家権力や社会と対立し,激しい衝突を生みだした。清教徒(ピューリタン)革命がそれである。

■カラヴァッジョ《法悦のマグダラのマリア》1606年 油彩・カンヴァス、個人蔵

第3/4回】20世紀前半・熱戦の世紀の「貿易」=植民地獲得競争としての戦争
 
宗主国―植民地
植民地 イギリス 材用VTR02;ブーア植状mp.mpg
     列強帝国主義国の中国蚕食: 教材用VTR07:清植状.mpg VTR19:上海租界の暮らし 
     日本 1895年日清戦争 1905年日露戦争 朝鮮の植民地化⇒1910年日韓併合
     戦前日本経済の構造と植民地貿易(「満州」・朝鮮半島)

第1次世界大戦=帝国主義戦争
     
熱戦の前半世紀その1;なぜ世界戦争になったか)
  
==分析視角:戦争の社会科学的分析ツールとしてのレーニン:『帝国主義論』==

       (グローバリゼーションとのかかわりで)   
Ⅰ大戦:戦争の本質
レーニン
:「植民地再分割の帝国主義戦争」=「強盗どもの分捕りあい」
        後発ドイツの急成長=少ない植民地 先発 英仏の停滞=多い植民地
       方針 戦争するロマノフ王朝政府を倒し 戦争否定(究極の反戦)
        ドイツとの単独講和(1918年ブレスト=リトフスク条約)
ガンジー:インド独立の父:イギリスに協力
      
   
     惨憺たる戦後ヨーロッパ     教材用VTR01  ww1shaka.mpg

                     参照:反戦運動と戦争観の「転換」不戦条約と自衛権
     1929年恐慌
    
   脱出の三つの道=信頼を失った資本主義体制:病気を治す処方箋

   ①1917年社会主義体制=ソ連邦(恐慌に巻き込まれない)レーニン『帝国主義論』

   ②日本・ドイツ・イタリア(後発資本主義G)→ファシズム(国家資本主義=軍国主義)
     ヒロヒト/ヒトラー/ムッソリーニ
     打開する方策=植民地への殖民
    ドイツ ナチのポーランド移民  教材用VTR02 natipoland.mpg

    ポスター「開け満州の大沃野」ポスター
    ポスター「満州国2周年記念」ポスター
    「懐かしい満蒙」(見方)満州写真館
   http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/081021/sangyou2.html
   教材用VTR13:満州日米.mpg
  

   ③イギリス・フランスなど先発資本主義国(広い植民地)・アメリカ
     ケインズ『雇用,利子および貨幣の一般理論』有効需要創出
     (ソ連や日・独・伊ファシズムの道ではない「第3」の道)
     1929年恐慌時1200万人(25%)の失業者/29年のGDP回復に11年(1940年)
     →戦争による軍需景気(良薬)
     アメリカの植民地政策:日本の中国侵略阻止=援蒋ルート・「ABCD包囲網」(経済封鎖)