2001年8月

8月21日追記

 エリート大学は大学院重点化で失業者製造所と化し、そこそこの大学は「高度職業人養成型大学院」に走り、中堅以下の大学は「資格試験サポート科目単位化」で就職予備校を下請けにした……つもりが逆に下請けにされたりして。そのようなご時世の中、実学度の低い社会科学の教員たるもの、何をなすべきか? 
 ここで念頭に置いているのは、政治学、社会学、経済学だ。
 法律学には司法試験だのなんだのがあり、全国の法学部は「ロースクール」に向けて狂奔している。しかしその中で、多くの場合「法学部政治学科(ないし政治学講座)」に間借りしている日本の政治学の立場は、実は急速に不安定化しつつある。
 同様の緊張は、経済学部にも潜在している。「商学部」「経営学部」として自立できず、「経済学部経営学科(ないし経営学講座・会計学講座。ちなみに「会計学科」なるものを抱える大学はかなり少ない)」として下風に置かれてきた経営学、そしてとりわけ会計学は「ビジネススクール」を目指して(法学部ほどではないが)少しばかり元気だ。何しろ会計学には会計士試験、税理士試験があるから強い。将来的には経済学との地位逆転の可能性も絶無ではない。
 更に一部の(臨床系が強い)文学部心理学科(および教育学部教育心理学講座)は「臨床心理士コース大学院」で突破しようとしている。
 では政治学、経済学、社会学はどうなるか? これらの学問は実際、実学度が低い。役に立たないというわけではないが、これらはせいぜい政策科学なのだ。つまり、これらの学問の知見を直接仕事に役立てられる可能性が高いのは、主に役人やジャーナリストである。(経済学と金融工学と金融実務の関係は現在非常に流動的である。)就職・資格試験のレベルで考えても、公務員試験くらいにしか使えない。(社会学の一部には「臨床系」があり、家裁や法務、警察あたりからお呼びがかからないでもない。しかし技術専門職とはいえこれらも公務員には違いない。)
 公務員試験を念頭に置いての大学教育、就職・資格試験予備校との連携はいずれ社会学科でも検討課題となるだろう。しかし公務員試験業界でいわゆる「行政系科目」の政治学、社会学って細切れの知識を詰め込むだけの「暗記科目」扱いなんだよね。そのようなものである以上、就職・資格試験予備校と正面から勝負しても勝ち目があるわけはない。
 さてどうしたものか。

8月21日

 義理を果たしに(集中講義に)やってきた岡山で、台風に見舞われた。帰る頃には過ぎているはずだが。
 昨年北大の大学院演習の成功(「きつかったけど充実感があった」との学生の感想)と、東北大での「経済学史」の失敗(思いの外答案のできがよくなかった)教訓をふまえ、「集中講義は事前に予習をさせる」という方針を立て、先々週の「社会政策T」では何とかそれでやれたのだが、今回の「社会政策U」はちょっと失敗という感じである。
 講義への出席を促すより、きちんと自習するように誘導することの方がはるかに重要である。というか、ある一定単位を学生に修得させる授業は、むしろこういう形で展開すべきではないか。すなわち、

 学期を通して学生にこなさせる一連の課題を設定する。基本的には宿題形式でこの課題を学生に遂行させていく。講義はあくまでもこのスケジュール消化のためのペースメーカーとして位置づける。つまり、「授業を受けて勉強する=講義を聴いて理解する」ということには極力ならないようにする。場合によっては(たとえば教師の意図を十分に体現し、なおかつ自学自習可能な教科書があれば)「講義」など行わなくても(宿題の採点とフィードバック、適宜個別指導だけで)全く問題はない。
 だいたい、一説に拠れば、「講義」という授業形式は本来、教科書の不在を補うための苦肉の策にすぎなかったと言うではないか。 (ex.浅羽通明『野望としての教養』時事通信社

 (主に理系、技術系の? でも、うちの社会調査実習もそんな感じか?)実習的性格の強い授業の多くは、実際こんな風に進めているのではなかろうか。まあこんなやり方より、適当に流した講義をする方がずっと楽なのは当然である。ちなみに現在のゼミでは、宿題は出させるだけに終わっていて添削、返却していないあたりが反省点である。まあ秋以降は自主研究をやらせるし、うまくいけば統計サブゼミも実習に持ち込みたい。

 今頃オーストラリアの思い出話をしても仕方がないのだが、Monashの講義(政治学科、政治理論の講義と英文科、SFのセミナー)に出て印象深かったこと。学部生向けの(seminarではない)講義は普通、週2回、1時間ずつのlecture(普通我々がイメージする「講義」、講師のおしゃべり)と、週1回1時間のtutorial(少人数指導、我々が考えるような演習、ゼミ。学生にレポートさせ、議論させる)とで構成されている。tutorialは各20名程度の小グループに分けられて行われる。当然履修者の数が多くなればtutorialのクラスの数も増える。数が4つ程度までは講師が面倒を見るようだが、それを超えるようであれば院生や博士候補生のTAが超過分のtutorとしてつく。
 学期あたりの担当講義の数を適度に抑えないと、講師の負担はかなりのものになりそうだが、正直「これはいい」と思った。日本でこういうやり方ができる、できたとしてもやっている大学はほとんどないだろう。狭い知見の中であえて言えば、学生の絶対数が少なく、ほとんどの講義がゼミ同然になる東大駒場の3・4年課程がこれに近いだろうが、もちろんそれは作為的なものではあるまい。
 しかしこのやり方を実行するには、一つの講義の履修者数を最大でも100人以下に抑えるか、あるいは非常勤講師やTAを大量に確保するかしかないので、勢いそこそこのレベルの院生をまとまった数を抱える大学でないと難しい。半失業者の搾取の上にはじめて成り立つとすれば、手放しで礼賛するわけにもいかないのだが、それでもいくつかの旧帝大と早慶クラスなら何とかやれるだろう。しかしこの手の大学でTAにやらせているのは、たとえば経済学部の場合はせいぜいマクロ、ミクロなど基本的な科目のtutorialくらいであるし、多くの場合は宿題の採点くらいではないか(情報ください)。

 書き忘れたことだが、先月の金子−大沢対談で印象深かったのは、聴衆(年輩の男性二人)が、「金子先生はもっと理論的な基礎固めをして話の見通しをよくして欲しい」という趣旨の注文を付けていたこと。俺の感想と重なっていて興味深い、というか心強い。

 隔週ペースの「夏期講習」は続いている。先週は大学がお盆休みの全館閉鎖で、高輪区民センターの会議室を借りた。フーコーは予定通りやっている。統計は考えた末ペースを約半分に落とした。

8月2日(3日改訂)

 参院選前の水曜、時ならぬ落雷でダイヤが大幅に乱れた(がその時東横線に乗っていた自分は全然気付かなかった)7月25日の夜、みなとみらいはランドマークタワー13階のフォーラム横浜に、横浜市女性協会とかいうところが主催の、金子勝大沢真理の「ビッグ対談」(なんじゃそりゃ)を見に行く。大沢氏は(10年近く顔を合わせてはいないものの)我が師の一人だし、金子氏にしても知らぬ中というわけでもなし、わざわざ1000円プラス電車賃払ってこの二人の顔を見に行くのもあほらしいといえばあほらしいが、ついに来てしまった小泉政権の下でこの二人が何を考えているのか聞いておこうと思った。(主催者は米倉誠一郎に「IT革命」について講演させるという愚挙をしでかした要注意団体だという、旧友小田中直樹のたれ込みも気になっていたし。)
 二人の小泉政権への危機感は本物のようで、実質死に体だった旧小渕時代の「経済戦略会議」とは違って、法的な裏付けのある現実的な力をもってしまった竹中的「構造改革」の行方を相当な警戒心をもって見つめ、小泉を信認しそうな(実際その後の日曜の選挙結果はそういうことになった)日本の選挙民、世論を憂えていた。
 しかし、だ。小泉への支持ははたして「構造改革」路線へのストレートな支持なんだろうか? 小泉支持者はそんなものにだまされるアホの集まりなんだろうか? たぶん違う。
 小泉現象というのはまあ「現代思想」好きにとっては格好の試験問題というか、みんながそこに勝手な期待を投影するボナパルティズム(柴田三千雄『近代世界と民衆運動』岩波書店、を見よ)の一例とも、あるいはスローターダイクジジェクの言う、誰も本気にしていないにもかかわらずというかそれだからこそつい支持してしまう「シニシズム」の典型とも、いくらでもこじつけられる。しかしまあその辺はさておこう。俺はこういう風に感じでいる……。

 いま日本ではかつて村上泰亮が見出した「新中間大衆」が解体し、格差・不平等が現実に拡大しつつあるのみならず、それをおおっぴらに正当化する言説さえ大手を振ってまかり通るようになってきている。しかし少なからぬ人々が現状を是認しているのは、必ずしも不平等化の現実に無知であったり、あるいはそれを正当なものとみなしているからではないのではないか。
  『ゴミ投資家のための人生設計入門』だの井上修『私立中高一貫校しかない!』(宝島新書) を見ていると、ある種の人々にとって、日本社会の不平等化は単なる現実、既成事実であって、良いとか悪いとか言ってもはじまらない、もはやどうしようもないことなのである。問題はそこで自分個人がどううまく立ち回り、少しでも上へ脱出するか、であって、この傾向自体に歯止めを掛けるとか逆転するとかいう選択肢は考えられていない。このような人々にとって「構造改革」は別にそれが正しい、よりよい政策だから支持されるわけではない。ただ単に、「勝ち逃げ」しようとする自分にとって邪魔になる度合が少なそうだから、消極的に支持され、あるいは黙認されているに過ぎない。
 なんことはない、「非社会化」しているのは引きこもりの若者だけではないのだ。

 私的「大学教育改革」続報。(念のために言っておくが、別にこれは今の職場の批判や悪口を意図しているわけではない。会議で相手にしてもらえないから、こんなところでうっぷんを晴らしているわけではない。総体としては社会学科はよく学生を鍛えている。1年生の頃からみっちりと、本を読み、レポートを書く訓練を学生に課している。それでも当然問題は残るのであって、それについて思うところを、自分自身のローカルな現場に即して報告しているに過ぎない。)
 恐怖の「夏期講習」が本当にはじまってしまった。単位にはならない(出なくても差し支えない)のに出席率なかなかよし。フーコー読書会には女性陣は8名全員参加(プラス某J大社会学科から1名)、男性陣は4名中1名。統計速習会には2名欠席(でも次回はくるらしい)。単位にもならないのにやってくるみなさんご苦労様。手当も付かないのにやってくる私、もっとご苦労様。
 統計の講習後学食のモスバーガーのまずい(なんでここだけこんなにまずいんだ)コーヒーを飲みながら学生の話を聞いて驚倒。なんと連中、教養課程で自然科学系の科目を履修する必要はないらしい! 「誰も統計の授業を受けていない」というのは謙遜でもフカシでもなかったのだ。(戸塚には日本数理統計学のパイオニア、かの竹内啓がいるというのに! 宝の持ち腐れじゃねえか? え? 「国際学部」で「一般教育部」じゃないって? )とにかくうちのゼミ生連中には「行列」「順列」「数列」の区別もつかない! いったいどうしたらいいのだ。というか、いま現に戸塚にいる自然科学系スタッフの立場はどうなっているのだ。潜在的リストラ要員なのか? 
 問題はただ単に「統計の基礎知識もなしにどうやって社会学の勉強をさせるのか?」だけではない。「文系」に必要な教養としての「自然科学」とは何か? について、この大学はどう考えているのだろうか? かつてここに籍を置いた豊田利幸『物理学とは何か』(岩波書店)というすぐれた「教養としての物理学」テキストをものしたはずなのだが……。(ボノボ研究者古市剛史の「生物学」は人気があるらしく、心強い。)


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