学期を通して学生にこなさせる一連の課題を設定する。基本的には宿題形式でこの課題を学生に遂行させていく。講義はあくまでもこのスケジュール消化のためのペースメーカーとして位置づける。つまり、「授業を受けて勉強する=講義を聴いて理解する」ということには極力ならないようにする。場合によっては(たとえば教師の意図を十分に体現し、なおかつ自学自習可能な教科書があれば)「講義」など行わなくても(宿題の採点とフィードバック、適宜個別指導だけで)全く問題はない。
だいたい、一説に拠れば、「講義」という授業形式は本来、教科書の不在を補うための苦肉の策にすぎなかったと言うではないか。 (ex.浅羽通明『野望としての教養』時事通信社)
(主に理系、技術系の? でも、うちの社会調査実習もそんな感じか?)実習的性格の強い授業の多くは、実際こんな風に進めているのではなかろうか。まあこんなやり方より、適当に流した講義をする方がずっと楽なのは当然である。ちなみに現在のゼミでは、宿題は出させるだけに終わっていて添削、返却していないあたりが反省点である。まあ秋以降は自主研究をやらせるし、うまくいけば統計サブゼミも実習に持ち込みたい。
今頃オーストラリアの思い出話をしても仕方がないのだが、Monashの講義(政治学科、政治理論の講義と英文科、SFのセミナー)に出て印象深かったこと。学部生向けの(seminarではない)講義は普通、週2回、1時間ずつのlecture(普通我々がイメージする「講義」、講師のおしゃべり)と、週1回1時間のtutorial(少人数指導、我々が考えるような演習、ゼミ。学生にレポートさせ、議論させる)とで構成されている。tutorialは各20名程度の小グループに分けられて行われる。当然履修者の数が多くなればtutorialのクラスの数も増える。数が4つ程度までは講師が面倒を見るようだが、それを超えるようであれば院生や博士候補生のTAが超過分のtutorとしてつく。
学期あたりの担当講義の数を適度に抑えないと、講師の負担はかなりのものになりそうだが、正直「これはいい」と思った。日本でこういうやり方ができる、できたとしてもやっている大学はほとんどないだろう。狭い知見の中であえて言えば、学生の絶対数が少なく、ほとんどの講義がゼミ同然になる東大駒場の3・4年課程がこれに近いだろうが、もちろんそれは作為的なものではあるまい。
しかしこのやり方を実行するには、一つの講義の履修者数を最大でも100人以下に抑えるか、あるいは非常勤講師やTAを大量に確保するかしかないので、勢いそこそこのレベルの院生をまとまった数を抱える大学でないと難しい。半失業者の搾取の上にはじめて成り立つとすれば、手放しで礼賛するわけにもいかないのだが、それでもいくつかの旧帝大と早慶クラスなら何とかやれるだろう。しかしこの手の大学でTAにやらせているのは、たとえば経済学部の場合はせいぜいマクロ、ミクロなど基本的な科目のtutorialくらいであるし、多くの場合は宿題の採点くらいではないか(情報ください)。
書き忘れたことだが、先月の金子−大沢対談で印象深かったのは、聴衆(年輩の男性二人)が、「金子先生はもっと理論的な基礎固めをして話の見通しをよくして欲しい」という趣旨の注文を付けていたこと。俺の感想と重なっていて興味深い、というか心強い。
隔週ペースの「夏期講習」は続いている。先週は大学がお盆休みの全館閉鎖で、高輪区民センターの会議室を借りた。フーコーは予定通りやっている。統計は考えた末ペースを約半分に落とした。
いま日本ではかつて村上泰亮が見出した「新中間大衆」が解体し、格差・不平等が現実に拡大しつつあるのみならず、それをおおっぴらに正当化する言説さえ大手を振ってまかり通るようになってきている。しかし少なからぬ人々が現状を是認しているのは、必ずしも不平等化の現実に無知であったり、あるいはそれを正当なものとみなしているからではないのではないか。
『ゴミ投資家のための人生設計入門』だの井上修『私立中高一貫校しかない!』(宝島新書)
を見ていると、ある種の人々にとって、日本社会の不平等化は単なる現実、既成事実であって、良いとか悪いとか言ってもはじまらない、もはやどうしようもないことなのである。問題はそこで自分個人がどううまく立ち回り、少しでも上へ脱出するか、であって、この傾向自体に歯止めを掛けるとか逆転するとかいう選択肢は考えられていない。このような人々にとって「構造改革」は別にそれが正しい、よりよい政策だから支持されるわけではない。ただ単に、「勝ち逃げ」しようとする自分にとって邪魔になる度合が少なそうだから、消極的に支持され、あるいは黙認されているに過ぎない。
なんことはない、「非社会化」しているのは引きこもりの若者だけではないのだ。
私的「大学教育改革」続報。(念のために言っておくが、別にこれは今の職場の批判や悪口を意図しているわけではない。会議で相手にしてもらえないから、こんなところでうっぷんを晴らしているわけではない。総体としては社会学科はよく学生を鍛えている。1年生の頃からみっちりと、本を読み、レポートを書く訓練を学生に課している。それでも当然問題は残るのであって、それについて思うところを、自分自身のローカルな現場に即して報告しているに過ぎない。)
恐怖の「夏期講習」が本当にはじまってしまった。単位にはならない(出なくても差し支えない)のに出席率なかなかよし。フーコー読書会には女性陣は8名全員参加(プラス某J大社会学科から1名)、男性陣は4名中1名。統計速習会には2名欠席(でも次回はくるらしい)。単位にもならないのにやってくるみなさんご苦労様。手当も付かないのにやってくる私、もっとご苦労様。
統計の講習後学食のモスバーガーのまずい(なんでここだけこんなにまずいんだ)コーヒーを飲みながら学生の話を聞いて驚倒。なんと連中、教養課程で自然科学系の科目を履修する必要はないらしい! 「誰も統計の授業を受けていない」というのは謙遜でもフカシでもなかったのだ。(戸塚には日本数理統計学のパイオニア、かの竹内啓がいるというのに! 宝の持ち腐れじゃねえか? え? 「国際学部」で「一般教育部」じゃないって? )とにかくうちのゼミ生連中には「行列」「順列」「数列」の区別もつかない! いったいどうしたらいいのだ。というか、いま現に戸塚にいる自然科学系スタッフの立場はどうなっているのだ。潜在的リストラ要員なのか?
問題はただ単に「統計の基礎知識もなしにどうやって社会学の勉強をさせるのか?」だけではない。「文系」に必要な教養としての「自然科学」とは何か? について、この大学はどう考えているのだろうか? かつてここに籍を置いた豊田利幸は『物理学とは何か』(岩波書店)というすぐれた「教養としての物理学」テキストをものしたはずなのだが……。(ボノボ研究者古市剛史の「生物学」は人気があるらしく、心強い。)