2003年5月

5月30日

 森さんからメール。『雇用関係の生成』(木鐸社)は在庫があります[bk1amazon]。森先生ごめんなさい。社会科学を志すおまえらはみな買って、死んでも読んでくさい。よろしくおながいします。

 和智正喜『仮面ライダー Vol.2 希望1972』買いました。読みました。今回は「普通の人」本郷猛の挫折と再生の物語です。前巻でもすでに自らの使命の過酷さを理解してはいたものの、実際にその重荷を担ってみて押しつぶされそうになります。恐ろしいことに、彼を取り巻く人々は、敵も味方も(改造人間でないにかかわらず)常人ならぬ化け物ばかりなのですから、つらさもひとしおです。しかし何とか彼は再び立ち上がります。
 次巻があるとしたら、それはたぶん、本郷猛の孤独が癒される話になるでしょう。本郷の孤独は「決して癒されない悲しみ」であり、今回彼はそれを正面から引き受けました。しかし彼がそれをなしえたのは、実は彼は孤独ではないからこそなのです。次巻では彼はそれを発見することになるでしょう。

5月29日

 和智正喜『仮面ライダー Vol.2 希望1972』(講談社)[bk1amazon]、なんでしょうねえ、まだ一部のマンガ専門店など特殊な店にしか出回ってないらしいんですねえ、まだ手に入れられてませんよ。「マガジン・ノベルズ」というレーベル自体が死に筋でもうろくに棚を作ってもらってないし、いったい版元は真面目に売る気があるんでしょうかねえ。

 森建資『イギリス農業政策史』(東京大学出版会))[bk1amazon]、なんつーかしょうがないから買いましたよ。前著『雇用関係の生成』(木鐸社、品切)以来のミーハーなファンですからねえ。しかし近世から近代イギリスの雇用関係法をコモンローに重点をおいて解析した前著は、読めば近代観がひっくり返るほどの衝撃作でしたが、20世紀前半のイギリス農業政策を労働政策との関連で跡付けた(戦時期の農業労働者の賃金・雇用問題を通じて両者は深く結びついていたそうな)今回の本は果たしてこちらの20世紀観を揺るがしてくれるかどうか。
 80-90年代における20世紀社会経済史、特に労働史と農業史における基調は、グラムシ的な意味での「ヘゲモニー」論だったんだよねえ。日本研究に限ってみれば、労働史の佐口和郎『日本における産業民主主義の前提』(東大出版会)[bk1amazon]に東條由紀彦『製糸同盟の女工登録制度』(東大出版会)[bk1amazon]、農業史では庄司俊作『近代日本農村社会の展開』(ミネルヴァ書房、品切)に長原豊『天皇制国家と農民』(日本経済評論社、品切)あたり。しかしおそらく研究水準の現段階は、そして時代精神は、このレベルを突き抜ける何かを要求してくるはずだ。
 もう少し具体的に言おう。三輪芳朗が「メインバンク論」「産業政策論」について行なったのと同様の破壊作業を「内部労働市場論」について敢行した野村正実の新著『日本の労働研究 その負の遺産(ミネルヴァ書房)[bk1amazon]で指摘されているとおり、日本の労働研究はある時期、ちょうどスタグフレーションの時期に行き詰まった。スタグフレーションを労使対立、階級闘争の激化としてそこから「資本主義の危機」を展望するという研究プログラムが80年代には破綻したのだ。代わって脚光を浴びたのが小池和男らの「内部労働市場論」に基づく日本的労働システム礼賛論だったが、これは90年代の長期不況とともに社会的影響力を喪失した。小池はリストラを「非合理」と批判するのみで、なぜ企業がリストラ、人員整理を行なうのかを解明するロジックを持たなかったのである。かくして再び労働研究は行き詰まり、再生への展望はなかなか見えない。
 さて、先の「ヘゲモニー」論的な労働研究は、ちょうど小池の全盛期において、それへの対抗を志してなされていたものであった。つまり、労使関係、資本主義は危機に陥らず、資本家・経営者・国家のヘゲモニーの下に労働者はうまく統合されてしまったが、それはなぜか、という問題意識に支えられていた。(このへんについてはこれを見てください。)しかしこのような問題意識自体、ある意味小池と同様に、その足場を90年代の長期不況によって外されつつある。不況下において企業はかつてのような社会的統合の力を急速に失いつつある(ように見える)のに、にもかかわらず労使関係も資本主義も危機に陥ってはいない(ように見える)のはなぜか、という方向に問いは移動しなければならないのではないか。
 おそらくその際、20世紀前半から農地改革にいたる社会統合の成功を経て、高度成長以降長い長い安楽死のプロセスのもとにある農業・農村社会の歴史的経験を問うことが、重要なヒントを提供してくれそうな気がするが、寡聞にしてこの期待にこたえてくれそうな具体的な業績がトンと思い浮かばない。
 イギリス研究とは言え、農業と労働を両方視野に収めた森の今度の本はどうだろうか。どうも話が50年代で終わって賃金−物価スパイラルの展望でしめくくられる辺り、かつての「スタグフレーション=資本主義の危機」論の亡霊がほのみえてイヤな予感がするのだが……。まあ読んでみるざます。
 しかし、個人的な希望を言えば、森氏には植民・移民論を再開してほしい気もするのよね。ことに近代のmigrationには「労働(力)移動」というパースペクティヴでは捉えきれない次元があるのですよ。森さんはそれをたしかに見据えている。

5月16日

 小泉義之『生殖の哲学』(河出書房新社)[bk1amazon]を読んで頭を抱える。相変わらずあちこちにアラやでたらめが目立つ。しかし今回は基本的に有意義なことを書いているような気がしてならない、というか、気分のレベルでは肯定するぞ私はとりあえず。
 前著『レヴィナス』ではしめくくりが「繁殖」論であり、次なる課題として肯定的思想としての「人間家畜論」が提起されていたのだが、その展開が早くもここに開始されている。それは『ドゥルーズの哲学』においてよりも明快かつ積極的に、ドゥルーズ継承のひとつのあり方をネグリ&ハートなどよりまっとうに提示するものになっている。
 時論的にいえば本書のテーマは優生思想批判の批判である。既存の左翼の生殖技術批判、生殖技術を悪しき生−権力と見て社会的にコントロールしようという志向を批判し、むしろ逆に「できることはなんでもやれ」と生殖技術の社会化、その肯定的な生−権力への奪還を主張するその論法は一昔前、科学批判以前の伝統的進歩主義左翼を思い起こさせる(生殖技術に女性解放の希望をかけたファイアーストーンなど旧ラディカルフェミニストも)。実際それだけなら旧左翼と、そしてネグリ&ハートと変わらないわけだが、一点重要な違いがある。解放された生殖技術の恩恵をこうむる・収穫を受け取る主体は、われわれではない――プロレタリアートでもなく、人間でもない。それは怪物たち、生殖技術によって出現するであろう怪物たち――つまり、ダナ・ハラウェイのいう意味でのサイボーグ――である、というのだ。ここにその思考はマルクス主義的左翼の臨界を越え、逆説的な形でヨナスやレヴィナスと通じていく(ヨナスやレヴィナスにとって来るべき次世代はなお「人間」であろうがしかしそれはやはり「他者」である)。あるいは『ナウシカ』を思い出されてもよい。これに比べればネグリ&ハートの「マルチチュード」なんてしょせん人間であるから、たかがしれている。
 もちろんこうした議論はある意味過度の楽観主義とも言える。そして本書には、それへの戒めにつながりうる議論も見られる。すなわち、生殖技術・優生思想とは人間家畜化であるわけだが、人間家畜化はすでに既定の事実であって否定してもしようがない。しかし人間家畜化が家畜化の一種である以上、しょせん優生思想にできることもせいぜいそんなところでたかが知れている。自然選択と人為選択は結局のところ連続しているのであり、生殖技術もダーウィン的進化の地平を越えられない――と。だとすれば、アホな優生思想家が夢見るような「神のごとき人々」も期待できないのと同じくらい、小泉が期待する「想像を絶する怪物」も望み薄ではないか、とぼくなどは思う。
 しかし一応この「怪物」について考えてみることは意味のあることではないか。時に「怪物」を生む生殖技術を、そして自然を肯定できないことには、何事も始まらないのではないか。この問題提起は至当であると思える。

5月16日

 いまごろコリン・マッギン『意識の〈神秘〉は解明できるか』(青土社)[bk1amazon]を店頭で衝動買いして読む。以前あとがきだけ立ち読みしてペンローズとかに近い人かと思って敬遠していたのだが、ちょっと違う。「意識というのはきっと単純な現象なのだが不幸にして人間はそれを理解できるようにはできていない」というcognitive closure仮説はなかなか興味深い。意識の哲学の最初の入門にはいいかも。

 『西原理恵子の人生一年生2』[bk1amazon]を立ち読みする。いまやはくほーどーの「要職」にあるというスネーク宮ちゃん(なつかしや!)のエッセイに少しうなる。個人的には、山銀あってのサイバラというだけではなく、宮ちゃんあってのサイバラでもあると思っている私。

 昨日は国立科学博物館の「マヤ文明展」に行ってきた。あいにくの雨、遠足の幼稚園児とその親たちが館内いたるところでお弁当を広げていた。パンフはよくできている。それにしても、マヤ文字解読の歴史が知りたい。

 前著『幸福への意志 〈文明化〉のエクリチュール(みすず書房)を積ん読のままに水林章『公衆の誕生、文学の出現 ルソー的経験と現代(みすず書房)[bk1amazon]もえいやっと衝動買い。どうせ公共性のゼミやってるし。

5月13日

 マイケル・パワー『監査社会 検証の儀式化(東洋経済新報社)[bk1amazon]はなんだかすごそうな本だ。日本にはほとんど類書のない批判的ポストモダン会計学の本格的業績。企業会計のみならず社会のありとあらゆる領域に「監査」が入り込んでいく一方で、企業会計においては不祥事が続発している。にもかかわらずそれは「監査」の見直しにではなく、「監査」の一層の強化を呼ぶばかりで、それが更なる危機を醸成する、という悪循環を指摘する。
 訳者の1人國部克彦は環境会計の日本における第一人者にして、ポストモダン会計学の数少ない紹介者の1人。

5月6日

 大塚英志『アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題(徳間書店)[bk1amazon]はある意味で小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社)[bk1amazon]と同じテーマを探っている。すなわち、戦後思想の原点を、語りえぬものとしての戦争体験を語ろうとする試みと捉える姿勢において。しかしながら驚くべきことに、その思想的測定深度においてこの小著は小熊の大著をしのいでいる。それは必ずしも、小熊に比べて戦線を限定しているからというだけではあるまい。
 たとえば小熊は江藤淳や吉本隆明のフェイク性について語るとき、戦後民主主義の虚妄を告発する彼ら自身の言説が、自らは戦場を見ていないという事実から逃避するための虚妄であったことを指摘して、斬って捨てるだけである。しかしそのような告発に対して、吉本も、そしてもし生きていれば江藤もおそらく何らの痛痒をも感じなかったであろう。なんとなれば他ならぬ吉本と江藤自身、自らの言説の虚妄なることを承知の上だったろうからだ。そのうえで彼らならこう居直れる。「われわれは戦場には行かなかったが戦時下を生きた、しかしおまえは戦争はおろか安保すらみていないではないか」と。
 つまり江藤や吉本は空虚であるがゆえに戦後民主主義の虚妄を撃つ資格がないのではない。逆にその空虚さこそが戦後民主主義告発の彼らなりの武器なのだ。戦争体験の継承と思想化が「語りえぬものを語る」ことに他ならない以上、その困難さを回避して安易なお題目に堕したり、あるいは逆に戦後言説は、自らの虚妄に深いコンプレックスを抱くがゆえに自他の虚妄一般に敏感な彼らの格好の餌食なのである。
 「語りえぬものを語る」ということの困難さへの自覚が不足し、それにふさわしい作法を磨けなかった戦後思想は、結局世代の壁を越えられなかった、というのが小熊の結論なら、江藤や吉本の、戦後を自らの低みにまで引き摺り下ろすやり口が結局勝ったということになりかねない。
 それに対して大塚は、手塚治虫の「アトムの命題」、「記号的身体で死すべき身体を描く」という難題が戦後のマンガ表現のなかに明確に継承されていくことを指摘し、それを手塚の戦争体験と戦後思想として読みかえようとする。そうすることによって、世代の壁を越えて手塚の「語りえぬものを語る」という課題が今へと連なっていることが明らかにされていく。江藤や吉本の戦後批判に対抗するには、この道こそが本道ではないだろうか。

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