2004年2月

2月25日

 『「おたく」の精神史』とりあえず読了。なんつーかあちこちが強烈に痛い。「新人類は努力を欠いていた。」その通りだと思う。そして努力を欠いていた新 人類に勝利したのはオタクだけではなく、アカデミズムにおいては「素朴」にクソ真面目に主流の学問を継承していた連中もまた勝利者であると言えよう。
(ただ、大塚にそれ自体のサブカル化ないしオタク(おたく?)化を疑われている社会学の場合は違うかもしれない。仄聞する限りでは、バブル期の東大社会学 大学院には妙な雰囲気があった。たとえば、「家族・地域・労働はできないこのやること」といった韜晦交じりのフレーズを聞いたことがある。あるいはある教 員が若い院生の発表を聞いて「社会学の王道!」と茶化したという逸話もある。そういう雰囲気の瀰漫したその果てが、いまや茶化す対象としての「王道」さえ 喪失した今の日本社会学だとしたら、笑えない。)
 だがそこまで見ると「やっぱり新人類にも五分の理があったのでは?」と言いたくなる。主流純文学やエンターテインメントの露払いをつとめさせられた挙句 消滅しつつあるSFと同じ運命を、「新人類」もまたたどったのではないか、と。適切な例ではないかもしれないが、たとえば複雑性経済学の運命

 SFといえばオラフ・ステープルドン『最後にして最初の人類』(国書刊行会)[bk1 amazon] が出た。『スターメイカー』国書刊行会)[bk1 amazon] も復刊ということで、結構なことである。

 白水浩信『ポリスとしての教育 教育的統治のアルケオロジー(東京大学出版会)[bk1 amazon]、 ええ、つぶれかけた版元を鞭打つのは大人げないとわかってますがね、何ですかこの値段。こんなの図書館と月給取り学者しか買いませんよ。半分、いやせめて 6000円台にできませんか。フーコーネタでしょ。最近講義録もどんどん出てるところだし、安くしてうまくあおれば十分売れますよ。いやきっと青×社とか M(みすずではナイ)書房ならそうしてますよ。実際問題として最近チョコチョコ出てる「フーコー権力論の応用」と称するお勉強本の中では、一次資料にしっ かりあたっていて学問的な価値は高いっすよ。なのにお値段のせいでこれが一番売れないという運命を決定付けられたわけですよ。納得いきませんね。
 というわけでまだちょっと買うのにはためらいがあって、かといって図書館にもまだ入ってないので、しょうがないから関連書っぽいところで寺崎弘昭 『イギリス学校体罰史 「イーストボーンの悲劇」とロック的構図(東京大学出版会)[bk1 amazon] だの安川哲夫『ジェントルマンと近代教育 〈学校教育〉の誕生(勁草書房)[bk1 amazon] だのを借りてくる。前者はヴィクトリア期のしょぼい(教師の自宅に生徒3人を寄宿させていたという)寄宿学校での体罰死事件を歴史のゴミ箱から再構成する もので、3面記事を読むような下世話な興味とともにことに子を持つ親とか教育関係者にはとてもとても痛い感じを呼び起こす分析が展開されている。  

2月23日

 大塚英志『サブカルチャー文学論』を一応読了、『「おたく」の精神史 1980年代論』(講 談社現代新書)[bk1 amazon] にとりかかる。個人的に、いろいろと痛い指摘が多い。たとえば湾岸戦争時の文学者の「声明」について論じたあたりでこう書かれている:

 あの文学者の声明は、80年代にすっかりボー ダーレス化してしまった「知」とサブカルチャーの境界の一種の仕切り直しとしての側面があった(中略)。蓮實重彦が業界系少女まんが家とカフェバーか何か で同席してしまっている自分に困惑したエッセイを書いたのが80年代半ばだったが、そういった自体に「知」の側の人たちがいいかげん耐え難くなっていたと いう印象がその時点であった。
 もっともぼくに言わせればサブカルチャーの方に足を踏み入れてきたのが「ニューアカ」や「ポストモダン」といった類の「知」やら「文学」の側であ り、そ の結果としてぼくのようなおたく系のライターと仕事先や書くものがかぶってしまう、という事態が起きていた。大学院に残った同年代の研究者からあからさま な敵意を示されたのもこの頃で、しかしよく考えればアカデミズムに残った彼らがライター業界に手を出すからぼくと彼らの「差異」が見えなくなるのであり、 ぼくが大学の紀要に論文を書いたり学界で発表をしたりして彼らのシマを荒らしたわけではなかった。(333-4頁)

 ここでの「同年代の研究者」とはまずもって大月隆寛のことを指すはずであるが、正直に白状すれば、無名の一院生であった当時のぼくは、目下売り出し中の 大月のファンであり、知り合いに大月のミニコミ『俄』を読ませてもらってもいた。そしてもちろんそこで大月は、大塚を面白おかしく、しかしかなり本気で批 判していた。ミスリーデンィグな言い方をすれば、それは生真面目な若い民俗学徒が、民俗学のジャーゴンを一知半解で振り回す半可通を叱りつける、民俗学的 『「知」の欺瞞』だったのだと言ってもよい。
 若手研究者としての当時の大月は、社会学、人類学、歴史学などの隣接諸科学にシマをさんざん荒らされ、その反動としてか、あるいは始祖柳田によって仕掛 けられた呪いか、自己の固有の対象としての「民俗」の歴史性を忘れてそれを物神化してゾンビ状態に陥ってしまった日本民俗学への痛烈な内在的批判者として 脚光を浴びつつあった。そんな彼による大塚批判はまさに、危機にある日本民俗学を建て直すための「仕切り直し」であったに違いなかった。そして今思えば、 将 来の不安ゆえにアカデミズムの規範に過剰適応してしまいがちな研究者見習の小僧として、ぼくも非常にあっさりと、無防備にこの大月による大塚批判を真に受 けてしまった。そして結局ぼくが大塚英志を再発見するまでには、10年ほどの時間が流れた。いやはっきり言えば小田中直樹によるこ の書評がなければ、いまだってどうだったかわからない。
 しかし誰もが知るように、大月隆寛は学者としてもまた物書きとしても現在ほぼ死に体であり、復活の見込みは今のところはない。そして反対に大塚と言え ば、かつての大月ファンのぼくから見ても、いまやもっとも注目すべき論客のひとりである。
 大月がそうなってしまった 事情にはいろいろと複雑なものがあったろうが、しかしもっとも致命的だったのは、彼がアカデミック・ポストを捨ててしまったこと、アカデミックな研究者で あることをやめてしまったこと、であろう。大月による大塚批判の根拠は、今思えば結局、先に書いたように、プロのアカデミシャンのアマの半可通に対する優 位以外にはなかった。彼がサブカルチャー領域で行っていたライターまがいの作業の流通価値は、あの当時のぼくから見ても、どれほど「無法松」を気取ろう と、あくまでも彼がその片足を堅気のアカデミズムにしっかりとおいていたからこそ発生しえていたのである。彼の書き物の質は、学術的著作であろうと売文で あろうと、実は彼が給料と研究費を保障されていたがゆえにこそ保たれえていたのだ。(教室では彼は多分結構いい教師だったのではないか、とぼくは推測す る。)そして給料を失ったとたん、彼はもはや知的な貯金を積み上げる余裕を失い、取り崩すばかりになっていったのである。
 翻って大塚は一貫して売文およびその周辺の商業的ビジネスのみにその基盤を置いてきた。そしてその中で、たとえわずかずつでもあれ、積み上げる術を獲得 していったのである。その違い、当初はわずかだったかもしれないその違いが、いまや大月と大塚の間に残酷なまでの歴然たる違いを生み出してしまった。

 さて何が言いたいかというと、ぼくはもちろん大月のように大学を出るつもりなど毛頭ない。ぼくのわずかな商業的価値は、あくまでもぼくが大学に片足を、 しかししっかりとつけているがゆえにこそ発生しているのだ。しかし大月が大学を、アカデミズムを去ってしまった理由が、全然理解できないわけでもない。
 ひょっとしたら重大な誤解をしているのかもしれないが、大月が大学(個別の大学なり研究機関をというのではなく、大学的な職場)を去った理由のなかに は、案外とある種の引け目が――直接は大塚英志に対してのものではなかったかもしれないが、呉智英や浅羽通明、あるいは橋本治など、一貫して在野で売文で 身を立ててきた論客たちへのコンプレックスがあったでは、とぼくは思う。それは言い換えれば、「シマ荒らし」への引け目である。民俗学アカデミズムや、あ るいは文系大学人に瀰漫する朝日・岩波的エセヒューマニ ズムへの愛想つかしなどは、それに比べれば二義的なものだったのではないか。

2月19日

 『経済学という教養』(東洋経済新報社)[bk1 amazon]、 おかげさまで売れ行き好調です。読売読書欄のインタビューの他、いくつか書評が出ています。ネット上では仲俣暁生さん 迷宮旅行社さんなどが目についたところ。
 と、ここでやめておけばいいのだが、あえて大人気ない振る舞いに出る。毎日では2月 15日付で中村達也氏に過分なお褒めをいただいたのだが、あえて若干の異論をさしはさませていただく。どうもこの書評、肝腎なとこ ろでツボを外しているようにぼくには思われる。
 中村氏の「方法としての素人」というおっしゃり方は、この文脈では、ぼくが本当は玄人=専門家なのに、あえて素人の振り(もちろんそれは決して悪い意味 では――偽装とかそういう意味ではおっしゃっているのではないことは十分に承知しているが)をしてみせる、という風にとれる。しかしそのつもりはない。も しそうとれたのであれば、それは中村氏の誤読であるか、あるいはぼくの筆が足りなかったか、どちらかだ。

かつて内田義彦は日本の社会科学の作法にふれて、書き手である専門家が、受け手たる読者の存在を まるでその視野から欠落させてしまっていることを嘆きながら、ちょうど小説の書き手が、たとえその作品がどんなにレベルの高いものであろうと、素人たる読 者に確実に届くような作法を工夫していると指摘して、社会科学もそれと同じような意味での「作品」でなければならないと書いたのであった。

 そもそも「小説の書き手が、たとえその作品がどんなにレベルの高いものであろうと、素人たる読者に確 実に届くような作法を工夫している」かと言えばそんなことはない。読み手を選ぶ小説があってもそのこと自体はかまわない。それゆえ小説との対比はミスリー ディングである。しかしまあそれは些末なことだ。
 ここでまず考えてみたいのは、「読者に確 実に届くような作法」と「素人たる読者に確 実に届くような作法」との違いである。考えてみれば「読者に確 実に届くような作法を工夫」すること自体はものを書く上での当然の倫理というより基礎技術、というかお作法である。そういう工夫が足りない書き物はなんで あれダメなはずなのだ。しかしながらたとえば専門的な学術論文などの場合、そういう作法への配慮の負担は比較的軽い。なぜなら読者もまた書き手同様の玄人 であると想定してしまって構わないからだ。(小説でさえその少なからずは、実はそのような閉じられた書き物であろう。)しかし「素人たる読者」を想定した とたん、玄人相手にはその共有が想定できる「常識」「お作法」「ギョーカイのお約束」は通じなくなってしまう。その意味で、社会科学書も、もしそれが広 い読者を想定した啓蒙的な書き物であれば、内田の意味での「作品」であってしかるべきだ、ということはわかる。
 だがそれは社会科学書全般がそのようなものになるべきだ、ということを意味しない。

 内田的な「作品としての社会科学」の称揚は、意地悪く言えばノスタルジーに他ならない。もちろん人文社会科学の多くの分野においては、いまでも査読付雑 誌論文よりも単行本化されたモノグラフの方の威信が高く、そういうモノグラフの多くは「作品」としての美学的完成を志向してはいるだろうが、しかしそうし た作品を鑑賞できる審美眼を備えた読者は、もちろん「素人」ではなく同業者ならびにその周辺――隣接分野の専門家、マニア、ディープなファン、オタク、学 問を志す若者たち等々――として想定されている。そしてそれ自体は仕方のないことだ。
 内田の指針が適用されるべきは基本的には啓蒙書である。そしてその理想は近年ではむしろ英米のポピュラー・サイエンスの書き手たち――グールド、ドーキ ンス、ホーキング等々――によってこそもっともよく体現されてきたと言えよう。そしておそらくこれらハードサイエンス出身の、自らも一線の研究者たる書き 手たちは、内田よりも啓蒙の限界について自覚的であるように思われる。
 「啓蒙の限界」、ここでの文脈で言えば「啓蒙書の限界」とは何か? それは「先端的な学術的専門書が同時に「素人としての読者」に読めるような啓蒙書で もあることは、普通はできない。特定の書き手が個人的にそれを目指すのはもちろん自由だが、それを普遍的理想としてならない」ということだ。そして反対に 「「素人としての読者」に読めるような啓蒙書が同時に先端的な学術的専門書でもあることは、普通はできない。特定の書き手が個人的にそれを目指すのはもち ろん自由だが、それを普遍的理想としてならない」ということでもある。啓蒙という作業は先端的研究とは無関係にではないが、しかし基本的に独立に、固有の 次元にある作業としてなされねばならない。
 繰り返しになるが、啓蒙は「玄人=専門家が素人のところまで降りていく」ことでもないし、また「素人を玄人のレベルまで引き上げる」ことでもない。あえ て言えば(またしても野矢茂樹の言葉を借り)「ずぶの素人を筋金入りの素人にする」ことであり、そして「玄人に自らもまた自分の畑を一歩出れば素人である と自覚させる」ことである。ここで真の問題は「ずぶの素人に入れる筋金とは何か?」であろう。

 またロビンソンの「専門というタコツボの中の精密な論理の構築が、いつの間にやら現実 経済から遊離して自閉し、玄人の仲間内でのみ意味のある遊戯になりかねないことへの警鐘」は、本書の関心の射程からは外れている。ぼくの考えではその「警 鐘」は主流派経済学よりもむしろ左翼やポストモダン(そしておそらくはロビンソン死後のイギリス・ケンブリッジ学派、ポスト・ケインジアン)にこそ当ては まる。本書の関心はそんなところにはない。そういう「遊戯」に実害はない。暇と金がある人はやればいい。そうではなく本書は、「玄人の仲間内でのみその意 味が理解される、専門というタコツボの中の精密な論理の構築が、にもかかわらず専門外の素人たちの生活に重大な影響を与えてしまっているのに、素人たちに はそれをチェックする術がないということへの警鐘」を鳴らしたかったのである。経済学は役に立たないから批判されねばならないのではない。まったく逆に、 どうやら結構役に立ってしまうからこそ、経済学は素人による批判と吟味にさらされる必要があるのだ。しかし批判と吟味は否定ではない。「専門家=玄人を野 放しにしていてはいけない」からといって「専門性なんてインチキだ」と短絡してはならない。もしそれが本当にインチキであれば、野放しにしていたって実害 はない。まあ何のことはない、70年代の「科学批判」の主題の蒸し返しだ。
 ここでぼくは先の「筋金」という言葉でもって「素人が玄人にならずとも玄人の所業をチェックできるための条件」を意味しているわけだが、果たしてそれは 具体的には何なのか、一体そんなもの原理的に実現可能なのか、が頭の痛いところである。

 大塚英志『サブカルチャー文学論』(朝日新聞社)[bk1 amazon]、 とりあえず面白く読んでいる。ところで本筋にかかわらないことかもしれないが疑問。著者はSFというジャンルについてどう捉えているのか。永瀬唯などの指 摘を待つまでもなく、オタク的コミュニケーションの原型はSFファンダムにあるといってもよいのではないか。それから、これは著者への疑問というよりただ 単に思いついたことに過ぎないのだが、「サブカルチャーから論壇への乱入者としての小林よしのり」に対して、「文壇への乱入者としての西原理恵子」につい て誰か本気で批評の対象にしてはいないのか。いやマジに。彼女のやっていることはある意味「無頼派私小説」の正当な継承であるかも知れないわけだし、それ 以上に彼女の駆使する日本語は、文学的に見て十分検討に値する何事かではないのか。


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