斎藤修『賃金と労働と生活水準 ―― 日本経済史における18−20世紀 ――』(岩波書店)。慶応で西川俊作、速水融といった日本における計量経済史の開拓者の薫陶を受けて近世・近代日本の賃金・物価史、人口史の研究に業績を上げ、(マサチューセッツじゃなく)イギリスのケンブリッジに留学してピーター・ラスレット(『われら失いし世界 近代イギリス社会史』川北他訳、三嶺書房)率いる歴史人口学・計量社会史研究者集団、いわゆるケンブリッジグループに参加して産業革命期イギリスをフィールドとする研究に手を染め、現在は慶応経済学部と並ぶ日本における計量経済史のメッカ、一橋の経済研究所に所属するというその経歴が示すとおり、斉藤氏は名実ともに国際的な活躍を続ける、日本を代表する計量経済史家である。これまでに少なからぬ著書を出してこられた氏だが、それらはケンブリッジの歴史人口学の紹介を含めて、どちらかというと啓蒙的な色彩が強かった。しかし本書は氏の仕事のアカデミックな本丸を、史料紹介まで含めてまとまった形で提示している。
野口旭『経済対立は誰が起こすのか ――国際経済学の正しい使い方』(ちくま新書)はポール・クルーグマン『経済政策を売り歩く人々 エコノミストのセンスとナンセンス』(伊藤隆敏監訳、日本経済新聞社)の日本版といったところか。リヴィジョニストや通俗エコノミスト、クルーグマン言うところの「政策プロモーター」を「トンデモ」と攻撃している。トピカルなテーマを扱った国際経済学への入門の入門として使える。ちなみに著者野口氏は故森田桐郎の弟子、いわゆる「マル経」出自で、新古典派以前の古典貿易理論の学説史研究や、ネオリカーディアンなどを踏まえてどちらかというと異端、非正統的なところで仕事をしている(森田編著『世界経済論 《世界システム》アプローチ』(ミネルヴァ書房)の氏の執筆部分を参照)のだが、本書はストレートに正統派経済学の擁護となっている。つまり、この際正統派を叩くよりアカデミックな経済学全体を擁護しなければ、という判断があるわけだな。この点クルーグマンなんかにかなり影響されているとみた。
『経済政策を売り歩く人々』は近刊予定のクルーグマン『期待しない時代 1990年代のアメリカ経済政策』(山形浩生訳、メディアワークス)と併せて読めば格好の現代経済学入門兼アメリカ経済入門になる。誰かこういうの日本経済ネタで書かないかな。なんか日本経済論の最近の流行はゲーム論的な制度分析ばっかりで、逆にオーソドックスで古くさいけど信頼がおけるというのがないんだよねあんまり。ちなみに、『期待しない時代』はディックの翻訳や辛口コラムで知られる本館常連の山形氏が満を持した画期的な「桃尻語訳」である。刮目して待て。
経済ネタで言えば、デビッド・ローマー『上級マクロ経済学』(堀雅博他訳、日本評論社)は96年に出たアメリカの大学院レベルのマクロ経済学教科書の邦訳である。以前大瀧雅之『景気循環の理論』(東京大学出版会)の書評でも書いたが、「合理的期待形成革命」以降マクロ経済学は一変したというのに、その辺の事情を日本語で通覧できる文献は不足していた。簡単に言うと80年代以降、「ミクロ」と「マクロ」の区別は従来の、個別の経済主体の行動に照準するか、それとも集計量のレベルでものを見るか、ではなくなった。替わって「ミクロ」は、複数主体間の戦略的相互作用、つまりゲーム的状況の分析に、「マクロ」は主体の長期的な意思決定(異時点間資源配分、動学的最適化)の分析になった。あえて言えば、いまや「ミクロ」と「マクロ」の違いは短期と長期の違いなのである。従来のマクロ教科書では末尾に置かれて付録扱いであった「経済成長」から始まるローマーの本書は、そうした事情をよく示す教科書である。
上記の事情をよく教えてくれる(日本語での)新しいミクロの教科書としては、入門レベルでの試みとして松井彰彦・梶井厚志「ミクロ経済学 ――戦略的アプローチ」の連載が『経済セミナー』(日本評論社)で始まっているので興味のある方は参照されたい。
あと、あんまり関係ないけど、同じく日本評論社が出している、入門レベルの某ベストセラーマクロ教科書についてここを参照のこと。
上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』(青土社)、久々に上野氏の本を買って読んだ。「総力戦体制論」を踏まえて、女性の国民国家体制への統合の問題、更にフェミニズムがその共犯者となりうるし、現になってきたという問題を確認した、それほどラディカルではないがわかりやすく誠実に書かれた好著である。「それほどラディカルではない」とは? 「国民国家」ってものは、少なくとも80年代からこっちずっと近現代史の中心テーマだったんだよな。例えば84年だったかな、世界システム論と社会史の流行を踏まえ、「国民国家」概念を軸に戦後のヨーロッパ近現代史学の総括を試みた名著、柴田三千雄『近代世界と民衆運動』(岩波書店)が出たのは。(これなんか同時代ライブラリーに入れるべきだよな。何やってんだ岩波。)それに「総力戦体制」も新しいアイディアでも何でもないんだ本当は。本書の貢献はそれをフェミニズムに引きつけて整理した、ってところにある。
あと読みさし(ホントは斉藤、ローマーだって読みさしだけど)や積ん読で面白そうなのは法制史サイドからのドイツ知識人社会史論、西村稔『文士と官僚 ドイツ教養官僚の淵源』(木鐸社)、包括的な報告書であるピーター・ストーカー『ILOリポート 世界の労働力移動』(大石奈々+石井由香訳、築地書館)、計量社会学的実証研究による中西祐子『ジェンダー・トラック 青年期女性の進路形成と教育組織の社会学』(東洋館出版社)あたりか。