教習のおじさん
教習のおじさん
車の教習に通っていたとき、教習所の教官にだけはなりたくないと思った。まず、ハンドルを握ってみて、あ、自分は運転が好きではないと直感した。好きでないものを仕事にはできない(どれだけブレーキを踏んでもふわふわで突っ込んでしまう夢を年に一、二度見る)。もうひとつの理由は、見知らぬ人とともに過ごす時間の、その中途半端さにある。
大学時代、教習所に通ってたときのことをいまも覚えているのはなぜだろう。運転席に座る生徒は、助手席に座った教官と一定の時間を共有することを余儀なくされる。二人きりで。人生最初の「ドライブ」は誰もが教官とすることになる(父はむかしはみんな教習に「車で」通ったもんだと言っていたが……)。
見知らぬ人と二人きりの車内。気まずい。
しかし、なかには気さくに話しかけてくれる教官もいる。それで趣味とか聞かれたりして。そのころは相撲が好きだったから、相撲を見に行ったり、とか言って、へえー! 相撲かあ~、などと返ってきて、やや盛り上がった記憶がある。運転もいくらか慣れ、ある程度余裕がでてきたころだったから、その日の「ドライブ」は例外的に楽しかった。なんかおじさんだった(だいたいおじさんだったが)。顔も名前も覚えていない。
教官は毎回ランダムで決まっていたはずだが、それより前にもあのおじさんと一緒だった回があったのか。それ以降にも同席した日があったのか。覚えてない。
いま、この文を書いているいまにして思えば、もう少しだけあのおじさんと話してみたかったかもしれない。教習所の教官って、見知らぬ人と中途半端な時間しか過ごすことのできない仕事なんだ、ちょっとさみしいなと思った。どうせ他人と過ごすのであれば、もう少し長い期間を共有できる職場か、それか私的なやりとりを交わす時間の一切ないゆきずりの仕事がいい。そして学校の先生というのはあきらかに前者だと思っていた。
本学に着任して、四年が経った。四年が経って思うのは、学生がいなくなるまでのはやさ。途中コロナでオンライン期間もあったから尚更かもしれないけど、さっきまで一年生だった人たちが、気づけばもう卒業しかけている。カリキュラムの関係上、四年間ずっとかかわりのある学生は皆無に等しいが、それにしても、四年なんていうからもうちょっとあるかと思ってたら、こんなモンなんだ。あの教習のおじさんのことを思い出した。
卒業式のあと、誰もいない教室をのぞいてみる。誰もいない教室には、教習車のなかの、あの中途半端な時間がながれていて、でも知らない人たちと過ごすのはこのくらいの、あのくらいの時間がちょうどよかったのかもしれない。あの教習のおじさんとだって、ついさっきまでこの教室にいた人たちとだって、べつに深い仲になりたかったわけじゃないのだ。半クラッチとかフランス語とかそんなのどうでもいい、ただもう少しだけ、他愛もない話をしてみたかったのである。